第二十八話 「危ういところだった」
危ういところだった。
もし私が、橘部長と夜道を付き添うように申し出なければ。
三人ではなく、橘部長と彼が二人で家に招かれる事態であれば、今頃、彼は危険な状態に陥っていたであろう。
そう思う。
とにかく、橘部長の母親が、彼に対して非常に好意的というのが不味い。
なるほど、親としてみれば自分の娘の送り迎えを何の下心もなくしてくれて、守ってくれていると言う彼には最初から好印象で。
なおかつ、自分と配偶者の思い出をなぞるような行為を示したのだ。
そもそも、彼自体が女性に気に入られやすい性格と容姿をしている。
橘部長の母親が、彼を娘にふさわしいとあっさり認めることはどうしようもない。
彼は橘家に絡めとられようとしている。
その状況は最初からあきらめているし、その邪魔をするために私がここにいるのだが。
「大和さん、とりあえず座る場所を確保するために、本を積みましょう。橘部長、よろしいですね? あと、下着を早く隠してください!!」
強い口調で、回答を求める彼。
そのアーモンドアイの視線が動揺して、必死に脱ぎ捨ててある橘部長の下着から目をそらそうとしている。
逸らそうとして、どうしてもチラチラと視線に入ってしまうようであった。
男の本能だ。
橘部長が女性であることを、彼の本能に強烈に認識させ刻み込んだのだ。
もし、私がこの場にいなければ。
もし二人きりの状況であれば、橘部長はここで攻勢の一手を打っただろう。
からかい気味に、おやおや、私の下着なんかに興味があるのかいと。
具体的な会話内容を浮かべればだ。
さっきから私の下着を、チラチラ見てただろ(因縁)。
いや、見てないですよ。
嘘をつけ、絶対見てたぞ。
そんな会話をしつつも彼の頬を撫で、そのままキスをして、本に侵食されていないベッドに押し倒したであろう。
やることやって、最後は幸せなキスをして終了だ。
恐ろしい。
母親もいる家の中で、そこまでの痴女めいたことを橘部長が出来るかどうか?
出来るのだ。
女は、いざというときにそこまで覚悟を固めることが出来るのだ。
「別にかまわないよ。本の付箋はそのままにして、積み重ねてくれたまえ。本棚にはもう入らないから、何処か床に重ねてくれたまえよ」
何も動揺した様子はなく、橘部長がひらひらと手を振っている。
私の想像通り、すべてやったに違いない。
私ならば同じことをしたからだ。
地獄姉妹の暴力的性欲を嫌っている癖に、自分がやる分には問題ないと考えているのだ。
状況を考える。
この怠惰な書痴としか言えない部屋を見て、彼は橘部長に失望するか?
しない。
これが菓子類の散乱した姿や、食べ終えたカップラーメンが片付けられていないというのであれば失望しただろうが。
単に書物に対してのズボラであることは、文学が好きな彼にとって何の失望にも値しないのだ。
むしろ、脱ぎ捨てられた下着を見て、橘部長を女性として強く認識したであろう。
計算されている。
もちろん、普段からズボラな生活を送っていることは間違いないだろう。
それはフェイクではない。
だが、あの下着は明らかにワザとだ!!
この女、わざと彼に自分の下着を見つけさせたのだ。
自分も女だと彼の脳みそに強烈に認識させるためだけに、痴女めいたことをしたのだ。
とんでもないやつだ。
橘美紀子は卑しい女、そう私は覚えた。
「いかんなあ。片付けていない部屋に後輩を案内するなんて、大分だらしないところを見られてしまったよ。普段からキチンとしていなければならないねえ」
それらしい台詞を並べる。
絶対ワザとだろ、お前。
ここで彼に暴露してやろうかと思うが、それをしては橘部長の恋心を彼に伝えることになってしまう。
出来やしない。
「それにしても少年、君も男なのだな。私なんかの下着に反応するかね?」
橘部長は薄く微笑んだ。
その微笑みの対象は彼に対してでもあったが、私に対してでもあった。
これで一歩リード。
そう言いたげな笑みであった。
この女、挑発のつもりか?
いや、二人きりの夜歩きを邪魔したことに対しての、意趣返しであるのだろう。
ただやられてばかりでは済ませないと、そう言いたいのであろう。
卑しい女、卑しい女、卑しい女め。
口端を怒りに歪める。
「そりゃしますよ。男なんですから。橘部長も自分が美人であることをよく自覚してください。そんなことだから柳みたいな奴を勘違いさせることになるんです」
「そうしよう。ああ、下着は片付けておこうか。君には目の毒なようだしな」
そう口にして、橘部長は用済みになった下着を籠の中に放り込む。
これで視界には映らなくなった。
ほっとした顔で、彼が大きくため息を吐いた。
彼は素早く手を動かして、本を拾い上げる。
その表紙の幾つかを取って、ジャンルがバラバラであることを示唆した。
「……部長は乱読家なんですね」
「基本何でも読むな。活字自体が好きなのだよ。そのせいか、一冊の本を一度に読み切らず、どうしてもバラバラに読むことも増えてしまったが……ああ、付箋のない本は全て読んでいるので、いくつか借りていってもよいよ」
「ああ、では読んだことのない『たったひとつの冴えたやりかた』などを。大まかな内容は知っていますが」
彼が付箋の入っていない、橘部長の読み終えたばかりであろうベッド脇の一冊の本を拾い上げる。
偉大なる作家ジェイムズ・ティプトリー・Jrの本。
『決断』をモチーフにした作品であった。
ああ、そうか、彼女は決断したのだ。
後輩が来ると知っているのに、自分のズボラな部屋を見せつけるなど。
それに覆い隠して、自分の脱ぎ捨てた下着を見せつけるなど、普通なら到底ありえぬ選択肢であろう。
だが、やった。
自分の洞察力を信じたのだ。
そして、賭けに出て、勝利した。
私は自分の勝利を疑っていなかったが、また状況が変わってしまった。
彼が橘部長を女性として認識してしまい、むしろ彼女が一歩リードの状況となったのだ。
「……甘く見ていた」
ボソリと、誰にも聞こえないように呟く。
やりようはあった。
女性の部屋に入る前なのだから、少し待っていてくださいね、私が先に入りますと。
そう事前に申し出て、食い止められた状況だ。
何故やらなかった、馬鹿が。
自分の判断を罵る。
「何か言いましたか、大和さん」
「なんでもないですよ」
にこやかに、彼に応じる。
自分のこんな醜い思考をばらすわけにはいかなかった。
ああ、恋愛とはこのように難しいものか。
恋敵との駆け引きはこのように難しいものかと懊悩する。
懊悩して、それを素早く終わらせた。
よいだろう、橘美紀子。
この私は貴女を恋敵として認めよう。
だが、これで勝ったとは思わないで欲しいものだ。
この橘家において、両親との会話さえ終われば、次は私のターン。
自分の家に、彼を引き込むことができるのだから。
両親には、彼の良いところを存分に伝えてある。
問題は――。
「……」
橘部長の覚悟を理解した。
彼女がどこまで彼の良いところを家族に存分に伝えてあるか。
それによって、橘部長の父親の反応も変わるだろう。
場合によっては、ここで一気に勝負をかけるつもりなのかもしれない。
そう考えると、私は戦々恐々とした。
背筋に冷たい汗がつたう。
「どうした、大和さん。座り給えよ。『床』に」
床に這いつくばれ。
お前は敗者だ。
そう言いたげに、橘部長は宣告した。
私は無言で、ひとまずそれに従った。
本当の勝負は、橘部長の父親が帰ってきてからであった。
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作品の足下を照らして道行きを示すため、カンテラ(感想)を宜しくお願いします。
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