第二十五話 「嫉妬」
どこで失敗したのだろう。
結論から言えば、最初から失敗していたのだ。
不意に立ち止まり、そう考える事がある。
橘美紀子さんのことであった。
初めて出会ったのは入学式の後のクラスメイト紹介の時で、自分より大きな女性がいると知ったときである。
彼女は人目を惹いた。
理由としてまず身長があるが、すらっとした痩身で白魚のような肌をしており、鴉の濡れ羽のような黒髪を腰まで伸ばしていた。
銀縁眼鏡を掛けていて、理知的に見えて――後日において知る限り、事実理知的であったし。
気怠げで、どこか自己紹介すらも面倒臭そうにしていて、どことなく厭世的な雰囲気を漂わせている。
僕のような陰キャの男心をくすぐるエロチシズムで儚い容姿をしていた。
そんな彼女と隣席になったときは思わず心の中で喜んだし、思えば――出会った瞬間から、彼女に惹かれていたといっても過言ではないだろう。
部活も同じ文芸部であった。
それから、たまに――厳密には意図的に距離を選んで、文芸部などに行く際にわざと話しかけたりして接触の機会を増やしていった。
彼女と少しでも親しくなりたかったし、それは上手くいった。
いや、上手くいったというのは今思えば勘違いなのだろう。
橘さんは男性だからといって距離を置かず、男の見てくれが多少悪くても、自分より背が低くても、服装の礼儀が整っていなくても。
誰にでも優しかったのだ。
良く言えば公平で、悪く言えば誰もを異性の『男』としては看做していなかった。
多分、恋愛経験そのものがなかったのだろうと考察する。
初恋もまだだったのではないかな。
おそらくそうだろう。
文芸部では時々話をして、お互いに好きな本の良いところをあげたり、本の貸し借りをすることもあった。
また距離が近づいたと、僕などは心の中ではしゃいでいた。
ああ、勘違いさ。
それを認めざるを得ないだろう。
彼女は誰にでも優しくて、何度も繰り返すが、悪く言えば女性という存在が本来持つべき「こんなことをしたら男側は自分に惚れていると勘違いするのではないか?」という優しさへの行為に対する忌避感という物がなかった。
距離感がバグっていたのだ。
僕が、そして同じ環境にあった文芸部の男どもが勘違いするのも無理はないだろう。
自分と手を握ってくれる、楽しく話をしてくれる、尻や腰つきを見つめても嫌な顔一つすらしない。
陰キャの自分に優しい。
だから、あの女は自分に惚れているに違いないのだ、と。
馬鹿な話だ。
自分にも、自分が殴った文芸部の男どもにも、愚かさを感じている。
勘違いした方が悪い。
僕は間抜けだったし、喧嘩をした文芸部の男連中含めて全員が実に愚かだった。
彼女は自分の物だとさえ勘違いをして、暴力に頼った取り合いをした。
それも彼女が居ない場所で。
彼女は自分にこそ惚れてるのだという思い込みが発展して、言い合いからの暴力で。
嗚呼、過去の事はもういい。
――それで彼女に皆嫌われて、彼女は距離感がバグっていたことに対する罪を背負って、学校から隔離されるような扱いを受けた。
そこまでは理解している。
仕方ない話だと思う。
僕や男連中が停学を食らったのも、橘さんが隔離されたのも、仕方ないのだ。
やり直せないだろうと思っていた。
だが――彼女はやり直せた。
橘さんはあれから随分酷い目に遭ったと聞く。
「あんなの」とよく付き合えるねとヒソヒソ話をされて友人は全員去り、孤立して一人ぼっちとなり、文芸部で小説を孤独に書く。
そんな酷い生活を送っていたと知っているのだ。
ずっと嫌な気持ちだった。
自分の勘違いのせいでそうなった。
だからこそ、いつか解決して欲しいと願っていたし、別に彼女が許されない事が嫌というわけじゃない。
根本的に勘違いをした僕らが悪い。
繰り返すが、彼女が恵まれた高校生活を取り戻す自体は嫌じゃない。
僕は彼女をもう諦めているし、ストーカー行為をしていたわけでもない。
だが、納得いかないのが。
「・・・・・・どうして、彼なんだ」
独り言を口にする。
自分で、自分の気持ちが制御できない。
嫉妬の感情が沸くのだ。
あのアーモンドアイの、容姿の整った下級生に僕は強く嫉妬していた。
自分が好意を持っている相手の興味や関心、愛情が自分以外の人や物に向いたときに起こる感情。
これを嫉妬と呼ばずして何と言えよう。
橘さんとやり直せないのは分かっている。
元々が僕など興味の範疇外であり、時が巻き戻ったところで僕を好きになってくれるわけでもない。
ここから、彼女の興味や関心、愛情が僕に向くわけがないことも。
完全に理解できているのに、僕はあの下級生を憎んでしまっている。
精神が失調して、自分で自分の心の整理がつかなくなったのだ。
何か、方法を。
自分の心を整理しようとして、橘さんに話しかけた際にあんな宣告をしてしまった。
後悔している。
本当に為すべき事は、男らしく敗北を認め、彼女に最初から話しかけないで隅にいるか。
それとも祝福の言葉を口にして、もう変な事をするつもりはないから彼と表通りを歩いて欲しいと告げるべきだった。
そうしようとして、そうできなかった。
やはり嫉妬の感情が消え去らないで、心に溢れかえってしまっている。
僕が得たいと強く願っていた彼女にとっての存在価値を、下級生が獲得したことについての怒りが理性よりも勝っていた。
「・・・・・・」
あのとき、あのときだ。
橘さんが、下級生に笑って話しかけるのを見た。
商店街から少し離れた脇道を歩いて、殺虫灯の明かりだけが二人を照らし付けていて、楽しそうに。
少しだけ表通りに入って、二人で買い食いした鯛焼きなどを愛おしそうに口にしていた。
身長がアンバランスな二人が、寄り添うように歩いている姿。
僕は、橘さんがあんなに楽しそうに笑っているのを初めて見た。
彼女に惚れていた僕だからこそ理解できる、あれは初恋なのだろう。
恋をしているのだろう。
そして、その相手は僕ではなく、下級生だった。
あの姿を見たとき、嫉妬という醜い感情が、僕を稲妻のように貫いたのだ。
目を瞑り、親指と人差し指を丸めて、目元を抑える。
自分でも馬鹿な事をしていると思っているのだが、どうしても止められない。
僕は調べている。
あの下級生について調べているのだ。
それこそ、彼のストーカーのように。
嫉妬に対してギリギリ理性が働いた結果の、妥協の行為だ。
あの下級生について調べよう。
そして、自分が敗北を認めざるを得ないような男であれば負けを認めようと。
自分で口にしたとおり、あの下級生が橘さんに相応しい男かどうか裁定するのだ。
そう素直に認められるか、下級生が本当に素晴らしい人物であっても、僕はそれを認めることができるのか。
自分で自分が分からないのだけれど。
そんな裁定する権利さえ本当はないことも、理性では理解しているのだけれど。
狂った僕には、もうそれしかできなかった。
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作品の足下を照らして道行きを示すため、カンテラ(感想)を宜しくお願いします。
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