第十九話 「慰めはいらない」
左隣席のりこ先輩が、僕を強く抱きしめている。
堅いブラジャーのワイヤーと、柔らかい胸の感触が僕の肩に当たっていた。
女性的な肉感に戸惑いながらも、僕は誘惑されずに対応する。
「・・・・・・りこ先輩、胸が当たっています。本当に慰めはいらないと口にしましたが?」
「慰めではない。スキンシップだ、こんなもの。愛情ホルモンが分泌されるぞ。オキシトシンと呼ばれるものだ。これについては一度口にしたはずだぞ。愛情はあればあるほど、深ければ深いほど人は救われる。これは慰めではない、私の愛だ。受け止めろ」
ひとしきり抱擁を終えた後に、りこ先輩は「はー、そうか」と何かを諦めたかのように大きなため息をついて。
僕から離れ、ひらひらと手を振った。
けらけらと明るく笑っている。
何故だか、涙の粒が目の端に浮かんでいた。
「あれだ。小僧が愛情を受けて育ったことを聞いて、安心したよ。いつも通りにしてやるのが、お前にとっての最高なんだろう? それでいいよな。いいさ、そうしよう。変なことは何もしないさ」
「そうですね。それが僕にとっての最高です。それで何の不満もありません」
最高である。
何の不自由もなければ悲劇もなかった。
何もかもが終わった話である。
完全に割り切っており、僕は男として成熟している。
愛別離苦の経過を終えているのだ。
りこ先輩はからっと笑って、パンケーキにフォークを伸ばしている。
まるで当座の目的を見失ったので、とりあえず栄養補給だと言わんばかりに。
「しかし、空気が読めないか。そう叔父さんから言われるってことは、君自身も案外、自覚はあるのかね?」
右隣席の、橘部長が不思議そうに口にした。
あれだ、叔父さんからは散々に心配されて、お前の人として良いところが「いつか食い物にされるぞ」と脅されたりもしたのだが。
僕は詐欺に騙されたりするほど馬鹿ではないし、脅迫に応じるつもりもない。
そんな僕が、どうやって食い物にされるというのだ。
叔父さんは昔から心配性なのだ。
確かに社交においては些か無精なところがあるかもしれないが――
結構、僕っていい線いってないか?
谷垣が明確に拒絶している、このカラオケの一室にいる四人とも普通に付き合えているのだぞ?
「いえ、僕は正直言えば、空気が読める方だと少しばかりの自信が――」
「今後、その自信は捨てたまえ。今すぐだ。叔父さんが何もかも正しい。叔父さんを信じてくれ! 頼むから! 後生だから! この橘美紀子との約束だぞ!!」
けんもほろろ。
全く取り合わず、僕の自信は橘部長に撥ね除けられてしまった。
悲鳴のように、君は空気が読めないのだと認められてしまった。
これでも人の感情には聡い方だと思うのだが。
いつも考えている。
この人は、今何を考えているのだろうとか。
どのような事情を抱えて生きてきたのだろうとか。
思わず、心配をしてしまうのだ。
僕は人に共感できる優しさを持つ人間でありたいと考えているし、そうであるように心がけている。
しかしだ。
「空気を読めないのは父譲りだなあとも、叔父さんにも言われましたし。まあ生まれついてこのような感じなのかもしれません。自信を捨て認めるのは良いのですが、治すのは難しいところが・・・・・・」
少し、父譲りであるというその点を誇りにしてしまい、諦めてもいる。
カラオケで全く空気の読めない歌を叫んでいた、父の姿を思い出す。
そうだ、カラオケだ。
カラオケだよ。
「そういうわけで歌いましょう」
「そういうところが空気を読めないと言われる所以なんだよ・・・・・・」
りせ先輩が頭を抑えて、下に俯いている。
何故か、僕の顔を見ながら口を抑えて涙ぐんでいた。
どうやら、僕の過去を酷く哀れんでしまったらしい。
聞いたことにすら罪悪感を覚えた様子で沈んでいる。
注文したパンケーキには一切手が付けられていなかった。
りこ先輩のようにカラッとしてほしいものだが、性格上そうはいかないらしい。
陽気にいこう!
とうの昔に、終わったことだぞ!
そんな同情されても、こっちは困るんだよ。
いや、こんな場で、カラオケで突然に両親の死を口にした僕が悪いのか?
なんだか、そんな空気だぞ。
・・・・・・僕が悪いようだ。
よくよく考えれば、僕が完全に悪いな。
それぐらいはわかる。
そんな僕を全く気遣った様子もなく、大和さんが口を開いた。
「叔父さんは素敵な人ですね。ウチも親族は一同仲が良いですよ。親族として迎えるに本当にふさわしい方で、よい叔父さんだと思います。好意に値しますよ。ところで――将来、何になりたいだとか、希望はありますかね?」
少し空気を読めない大和さんが、全く空気を読まずにそんな質問をする。
僕の将来か。
何でそんな質問をされるのかがイマイチ掴めないが、まあ過去を語ったからには未来を語ってもおかしくはないのか。
「国立大の文学部に進んで、学びたい物全てを学んで、小説家に――と言いたいところですが」
小説ではさすがに食えないだろうな。
そんなことぐらいは知っている。
殆どの小説家が兼業作家である。
だから、何か生計を為す手段を考えなくてはならない。
「父や叔父さんもサラリーマンでしたし、多分そうなるかと。食べることが出来さえすれば、職業に希望は特にないので・・・・・・まあ、収入は多ければ多いほどよいだろうとは考えますが」
「そうですか。大変よい言葉を聞きました。別に職業自体に希望はなくて、自営業の兼業作家さんでもいいんですよね? 名字を捨てることに躊躇いは?」
「自分が出来るかどうかは判りませんが職種に毛嫌いは・・・・・・。いえ、両親の元に産まれたことを誇っていますが、名字に特別な意味は感じていないですよ」
僕の答えを聞いて、うんうん、と大和さんが頷く。
完璧じゃないか、と口にしている。
何の頷きなのかはさっぱり判らんが、得心はしてくれたようだ。
将来自分は何になるのかな。
そんなことを考えるが、さっぱり予想が付かん。
あまり変わった生き方はせず、両親や叔父さんに誇れるような立派な生き方をしたいものだが。
さて、自分なんかにそれが出来るだろうか。
今現在は出来ているのだろうか?
返事をしてくれる人は何処にもいない。
独り立ちだ。
僕はすでに独り立ちをした。
だから、時折自分の歩いてきた道を振り返っては、確かめるしかなかった。
「とりあえず、後悔の無いように生きたいと思います」
変なことで足下を躓かせたくはないしな。
ふと、最近を振り返る。
叔父さんには週一で電話をしているし――最近は、僕に強くあたっていた二歳上の従姉妹との関係も良好だ。
最近はスマホアプリで頻繁にトークしている。
昔は本当に不機嫌で、身体をわざとぶつけられたり、背中から首を絞められたり。
風呂上がりに僕の部屋のベッドにゴロゴロと転がって、僕の居場所は本来この家にはないのだと言わしめんばかりの行動を取ったり。
僕の大切な両親の遺品であるCDラジカセを弄くって、怒らないの? 押し倒したりする自信も無いのか? 親父に気遣いするばかりか? 親父も母さんも外出中だぞ? とからかったり。
とにかく酷いボディタッチや、挑発を含めた行動を数多く行った。
弟に対する横暴な姉からの暴行のようであった。
思えば思春期の反感、叔父さんが与えられなかった愛情機会を僕が奪ったことへの反発だったのだろう。
本心本気の悪意は感じられなかった。
だから僕が悪かった。
あの従姉妹が、僕が独り立ちして出て行くと口にした瞬間に沸騰したように泣き叫んで「私の何が悪かった、何がいけなかった、謝るから。悪いところがあったら謝るから!」と謝罪してきたときなどは、本当に申し訳ない気分になったのだ。
従姉妹がそんなこと気にする必要はないのに。
悪いのは僕だった。
最後まで「お前は家族だ。これからそうなるんだ! そうなるはずなんだ!!」と強く主張して、僕を引き留めてくれたが。
やはり出て行って正解だったのだろう。
叔父さんは最後、何かを色々と諦めたような顔で僕を送り出してくれた。
従姉妹とはこれからも仲良くしてくれとだけ、約束をさせて。
安心して欲しい、叔父さん。
最近の方が、明らかに従姉妹との関係は良好なのだ。
好きな女はまだいないな?
変な女に絡まれてはいないか?
私以外の女は危険だ、何をするかわからんぞ?
とにかく身辺に気をつけるんだ。
などとからかい混じりのトークを、毎日のようにアプリでしてくるだけだ。
あの横暴な姉を具現化したような姿とは打って変わって、ホテルに預けた大切なペットを、旅行地からの監視カメラで観察しているかのような扱いを受けている。
4月も早々に大学推薦が決まったため、こちらの部屋に遊びに来たいと口にしていた。
男の一人暮らしなので、ちゃんとした供応が出来るのか今から心配だが。
ちゃんと食べ物も用意しておかないと。
何が好きなんだろうか、従姉妹は?
一度聞いておかないとな。
「というわけで、カラオケをしましょう」
「小僧は明るいな! やはり、大好きだぞ!!」
左隣席では、けらけらと笑うりこ先輩の良い声が、カラオケの一室で響いている。
貴女の方がよほど明るいよ。
「私はもう色々とやり終えた気分だよ・・・・・・」
右隣席では、橘部長が燃え尽きたように、目的を果たしたボクサーのように白く燃え尽きている。
部長、まだ一曲も歌っていないのですが。
「・・・・・・」
りせ先輩は、悪酔いしたように身体をソファに横たえている。
大丈夫だろうか。
「はぐはぐ、ほふん」
大和さんは、りせ先輩が手をつけてないパンケーキを「いらないなら貰いますよ」との了解もとらずに頬張っている。
でっかいハムスターのように。
いや、大和さんあれだけ注文したじゃん。
どれだけ独占欲強いんだよ。
「それでは歌います!」
声を張り上げる。
天国の両親に聞こえるぐらいの大声で歌って見せよう。
僕は最高潮の気分になって立ち上がり、力強く歌い始めた。
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