第十六話 「世界で闘うために」
唐突に。
本当に唐突に、部室で二人きりになったのを見計らって。
私の『親父』は口にした。
「りこ、気になっている男がいるようだな」
「・・・・・・誰から聞いた?」
「聞かずとも、見ていればわかる。お前の瞳は恋する乙女の目だ」
舌打ちをした。
その音を向けた相手はバレー部の顧問、かつては全日本代表として闘っていた老人。
若い頃にはバレー狂いであったらしく、今でもバレー狂いであった。
そのバレー狂いが言う。
「告白はしないのか?」
すでに老境を迎え、白髪のバレー鬼と化した顧問が言う。
「親父、そんな暇ないだろ。今はバレーに全てを捧げないといけない。何もかもが足りないと感じているのに――堕落している暇などない」
私は反論した。
顧問の事を、私は親しみを込めて『親父』と呼んでいた。
ひょっとしたら、生まれた時には死んでいた親父の代わりのように――そのように何処かで思っているからかもしれない。
女性的価値を検分する興味など一切含まれていない、その視線が私には好ましかったからだ。
その親父が再び言う。
「馬鹿者」
と。
何が馬鹿者だ。
親父が言ったんじゃないか。
お前はバレーが出来るのか?
バレーを愛しているのか?
バレーに忠誠を誓えるか?
そう口にはせずとも視線が物を語っているのだ。
バレーに集中して、全国で勝利し、いつかは金メダルを。
そのためには男に、小僧になんて――。
「恋煩いをしている暇なんてないだろう?」
「恋煩いをしている暇がないからこそ口にしているのだ。お前は怯えているだけだ。まるで親に捨てられたばかりの仔猫のようにな。お前はニャーニャーと鳴くのか? 乳離れも済んでいないガキのように? ウールサッキングという行為の言葉は知っているか?」
親父が、真っすぐに私の瞳を見つめて口にする。
怯えているだと、この私が?
カチンと来て、親父を睨みつける。
その視線に答えた様子はなく、不愛想に親父は拒絶をした。
私の考えに対する拒絶だった。
「初恋に溺れたまま、その思考を無駄に割くな。弱くなるぞ」
初恋か。
そうなのだろうな。
言われなくても、そうだと知っている。
人に言われれば感慨を深くした。
これが女としてはとてつもなく大事なものだとは知っている。
だが、無意味だ。
「親父、スポーツをやるならばストイックじゃないといけないよ」
才能の有る人間が、沢山の努力をして。
禁欲的かつ精力的に。
ストイックの語源であるストア学派のように、倫理を愛して。
バレーにおける一切のことに正しく対処するための実践的知識を深めていかねばならない。
愚痴を吐けば良い。
文句を吐けば良い。
ありとあらゆることに怒りを抱いても良い。
ただし、それをエネルギーにするのだ。
それが何かの役に立つなら口に出しても良い、ただ練習だけはする。
ただひたすらに、情熱的に練習を繰り返す。
それだけで良いはずだった。
私の世界はそれだけで閉じる。
そうしていれば、いずれ花は咲くだろう。
私の胸元に輝くオリンピックメダルと言う形で。
だから、これで良い。
「そんなことを言っているから、日本は世界で勝てないんだよ」
良いのだと。
そう口にしようとしたが、親父はそう考えてはいないらしい。
「欲望を肯定できないものが、世界で勝つなど不可能だと私は考えている。ただ、何もかもを勝ち取るようなエゴイストでなければ。世界一のエゴイストが世界一のバレー選手になれるのだと考えている。人から何か物を略奪するような輩でなければ。神聖ローマ帝国時代の強盗騎士のように」
「バレーはチームプレイだよ、親父。それは貴方が教えてきたことだ」
そういうスポーツである。
だから、我々はチームメイトを愛す。
愛して愛してやまないチームメイトと協力して世界を目指すのだ。
抱き合え、お前は凄いとお互いにプレイを褒めてやれ、良きサイクルを作り上げろ。
マニ車のように回転させて、無限のエネルギーを産み出せ。
親父はそう教えてきた。
古めかしい苦しいだけの昭和精神論などクソ以下だと親父は常々口にしてきた。
だから――これもその一つなのであろう。
「そうだ、6人がいなければチームすら組めない団体競技だ。個人が蛮勇を振るえど無意味。だが、特別な存在がいなければ、また周囲も特別な存在となることはできない。深淵を覗く人間がいなければ、誰も深淵を怖くて覗けない。ファーストペンギンになれ、りこ。世界に挑める存在になるには、ちょうど良い機会だ」
親父は、私にその特別な存在になってほしいらしい。
誰も辿り着いていない場所に果敢に挑む、ファーストペンギンに。
私がそうなるのに足りていない部分について、それが恋愛だと親父は示す。
「どうしろと?」
「ともかく、恋愛を不許可にした覚えは無いのだ。術まで教えねばわからんか? 私は見合い結婚の女房一筋で生きてきたので、方法論なんぞ知らんな」
「恋をするほどの時間がある覚えなんて、全くないことだけは間違いないね。ああ、それこそ親父のように見合い結婚ならば素直に相手に惚れられたさ」
今はそんな時代では無い。
だから、告白でもしろと?
そうすれば私は止まらなくなるぞ。
今でも窒息しそうな夢を見る。
これ以上、愛に溺れることは許されない。
日曜日だけはバレーを忘れて、手を繋いでデートをしてもよいと?
馬鹿馬鹿しい。
自分がそんな生活を送れるとは思えなかった。
そんなことを考えてしまう。
もし、自分が誰かを愛するとすればだ。
もっと。
「食らえばよい」
そう、そんな目も醒め渡るような愛だった。
曖昧な夢を破ってしまうような。
精神的恋愛(プラトニック・ラブ)ではない、肉欲的な欲求であった。
夢で見たように、小僧を殴りつけ、卑猥な言葉をぶつけて、そのまま襲ってしまうような。
いや、今の台詞は――
はっと、眼前を見る。
親父の台詞であった。
「食っちまえ」
もう一度、そう告げた。
今度は乱暴気味な言葉であった。
何を言っているのだ?
「禁欲の果てにたどり着く境地など、たかが知れたもの。強くなりたければ食らえ!!」
馬鹿な。
そう口にしようとして。
何故か、反論できなかった。
「不純異性交遊を薦めているのかい? 顧問とあろうものが?」
「私は理事長に『バレー部を強くするためにありとあらゆることをやってよい。君にはその権利を与える』と言われており、高校生の不純異性交遊が悪か善かなどというナンセンスな言葉は知らん。そんなものはストイックな昭和のスポーツ論から逸脱していない化石にすぎん」
言い切った。
不純異性交遊をしてもいいと言うのだ、この親父は。
私学とは言え、教師の癖に。
「いや、まだ出会って一ヶ月も」
「この先、その男以上の存在と巡り会える自信があるのか?」
自信はあんまりない。
生涯を駆けて後も、あれほどの男に出会える機会はそうそう無いように思えた。
だけど、初恋は実らない物とも言うし。
そんな乙女心が私には存在した。
なれど、親父はそれを明確に察知し、言葉のナイフで抉ってくるのだ。
「食え、りこ。食っちまえ。男にうつつを抜かしていては……などと説教をしてくる人たちもいるだろうけれども雌としての強さを求めるには、魅力的な男が必要不可欠の存在である。それを手に入れると同時に、バレーの強さもお前は得るだろう」
耳を塞ぎたくなるような台詞だ。
私にとっては魅力的な、それでいて否定しきれない言葉であった。
小僧が悪いんじゃないか。
私のまるっきり好みのような存在が目の前に現れたから、私はおかしくなったのだ。
そんな懊悩がある。
親父の台詞が続く。
「欲望のままに喰らい尽くせ! りこよ!」
「どうしろと!」
はねつけるように、言葉を返した。
具体的に、どうしろというのだ!
「密室に誘い込めば、お前に勝てる小僧などそうはいない」
そうだ。
それは確かにそうだ、小僧に力で負けるなどあり得ないだろう。
だけど。
「犯罪では? 嫌がる人を押し倒すのは良くないよ?」
純粋な疑問がある。
大前提も大前提の問題が眼前にあった。
その程度の良識は私に存在した。
存在してしまうのだ。
「そもそも相手の男はお前みたいな美人に押し倒されて嫌がるのか?」
「いや、そりゃ自分の美貌に自信はあるけれど」
よくよく考えれば、そうかもとは思う。
私が後頭部に胸を押しつけても、小僧は嫌がらなかった。
もし本気で嫌なら、私を押しのけているだろう。
あれ、襲っても小僧は嫌がらない?
「自信を持て、りこ。お前は私の優秀なバレー部員だ。お前だ、お前なんだ。数年後のオリンピックで、私の悲願であるオリンピックメダルを胸元にぶら下げているのはお前なんだ。だからこそ、お前には恋愛を知ってもらいたい」
親父は、本気で私の恋愛を応援している。
それがバレーの糧になると思っているからこそに。
私は、感動で打ち震えた。
「親父」
「行け、愛娘よ!」
愛娘。
今まで誰にも呼ばせたことが無いどころか、普段ならば親父に対してさえ反発を招く言葉であろう。
だけど、今だけは。
ただ今だけは、その言葉を素直に受け入れられる気がした。
「わかったよ。親父、日曜日のカラオケで小僧を襲うよ。ぐうの根も出ないほどに仕留めるよ!!」
「それでこそ、我が娘だ」
親父は、プレゼントでもするかのように、包装された薬剤を私に渡してきた。
その薬剤に何の効果があるのか、私には分かっている。
まあ、後でいつ飲んでおけば良いのかは聞くけれど。
「だけど、避妊だけはしっかりしなさい」
親父の言葉に対する答えはただ一つだけだ。
「イエス、マイコーチ」
私は全国最強クラスのバレー部員としての声を張り上げて、そう答えた。
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