第八話 「りこ先輩と朝練」
「闇部活」という言葉がある。
言い換えれば自主練なのであるが、スポーツ庁のガイドラインを破っているから「闇部活」だ。
法的な拘束力はなく、違反に対する処罰などはない。
だから、まあ実際のところスポーツ強豪校は守っていないのだ。
平然と朝練が行われている。
僕は朝活として、自主勉をするために一時間早めの登校を心がけているのであるが、学校に入った際などは「アーーッ」やら「サーーッ」といった張り上げた声の鼓舞激励が聞こえている。
体育館からのバレー部の声であった。
どうにも気になる。
はて、そういえばバレー部の応援に来いと、りこ先輩からは言われていた。
とはいえ、「闇部活」に顔を出してもよいのだろうか?
あれはおそらく大会や放課後に顔を出せという意味でなかろうか。
そんなことを考えながら、自主勉に打ち込む。
国立大の文学部に進みたいのであるからして、偏差値はどうしても必要であった。
次第に、体育館からの声が消えていることに気づく。
集中している内に、朝練はとうに終わったようである。
「よう! 本当に朝から来てるんだな。真面目か!」
僕以外誰もいない教室に、りこ先輩が現れた。
小豆色の制服ブレザー、赤のネクタイにチェックスカート姿。
ふくよかな胸に押されてネクタイは浮き上がっており、その体は女性的な理想ラインを描いていた。
「朝練は終わったんですか?」
「もちろん。今日もチームメイトは素晴らしい仕上がりであった。私もだ」
りこ先輩が背後に回り、僕の両肩を掴んだ。
バレー部主将の、大きな手の平の質感がブレザー越しに伝わる。
まるで僕にリラックスでもさせたいかのように、そのまま肩揉みを始める。
「たまには応援に来てくれないか?」
「闇部活に顔を出しても良いのですか?」
「その闇部活という言い方は良くない。ただの朝練だ。そもそも朝練は全員やってるんじゃなくて希望者だけだぞ。応援に関しては顧問から許可を得ている」
その朝練が禁止行為なわけですが。
そう言おうとしたが、ほのかに汗の匂いを鼻に感じる。
りこ先輩の胸元、スポーツブラから漂っているものと思われた。
女性的なそれをどうしても意識してしまい、僕とあろうものが軽く動揺して口を閉じる。
りこ先輩はそれに全く気づいていないのか、話を続ける。
「そもそも、アスリート選抜コース生徒が逆に練習以外に何をすればよいと? すでに寮生活で生活管理されてるんだぞ。試合に勝つためにだ」
「外出は厳禁なのですか?」
「そこまで厳しくない。日曜に遊びに行くことぐらいは自由さ」
それ以外はずっと練習しているのだけどねと。
日曜日だけは休養日さ。
やがて僕への肩揉みが終わり、手が僕の胸元へと伸ばされる。
抱擁である。
僕は椅子に座っているため、スポーツブラ越しの胸がそのまま僕の後頭部に押しつけられた。
「小僧、日曜にどこかへ行こうか。私はカラオケに行きたい」
「お金は?」
「そんなものはない。小僧が出せ」
凄いこというなこの人。
平然と『出せ』という言葉を口にした。
これでは要求ではなく、命令に近い。
「お断りします。奢り自体はやぶさかではありませんが、命令される覚えはない」
「小僧」
抱擁に力が籠もる。
胸がより強く押しつけられ、後頭部が圧迫された。
「どうして、小僧はいつも私が欲しい答えをくれるんだ?」
僕の返答は失敗だったようである。
りこ先輩を喜ばせてしまったようだ。
というか、何故この返答で喜ぶのか、りこ先輩の心がわからぬ。
彼女の心は複雑怪奇であった。
「・・・・・・りこ先輩、胸が当たっています」
「スキンシップだ、こんなもの。愛情ホルモンが分泌されるぞ。オキシトシンと呼ばれるものだ。脳下垂体から分泌されて、精神を安定させ、私と小僧の気分を最高潮まで押し上げる。私など毎日のようにチームメイトとは抱き合っている。そんなことより、カラオケだ」
続いているのか、カラオケの話。
まあ奢るのは別に良いし、谷垣と毎週のように遊んでいるわけでもない。
今度の日曜に出かけるぐらいは構わないか。
谷垣は明確に四人と関わることを丁寧に「拒絶」しているので、誘うことはできないが。
「じゃあ文芸部五人で行きますか。りこりせ先輩の分は僕が出しますよ」
「何を訳の分からないことをほざいている? 私たち地獄姉妹と小僧、三人だけでだ。私たちはカラオケなんぞ行ったこともないからエスコートも頼んだぞ」
ええ・・・・・・と顔をしかめる。
僕は後ろを振り向こうとしたが、ガッチリとホールドされている。
離して下さいと、りこ先輩の手を振りほどいて、背後を見た。
りこ先輩は少し残念そうに手を離して、腕組みをしている。
「スキンシップは嫌か?」
「嫌ではないですが、その、なんと言うべきか」
「誰にでも、このようなことをすると思っているのか? 私がどんな男にでも抱きつく破廉恥な女だと?」
とんだ見当違いだと、りこ先輩が笑う。
まあやらないだろうな。
というよりも、そもそも。
「りこ先輩は男性のことが嫌いなタイプだと思っていましたが」
「・・・・・・嫌いだよ? よくわかってるじゃないか」
だろうなあ。
完全な予測であったが、当たっていたようだ。
殆どの男性に対して、ゴミ虫けらを見る目なのだ。
いや、さすがにそれは言い過ぎか。
どうも視線を合わせると、相手を睨み付ける癖がある。
多くの男性はそれを察してか、途中で視線をそらしてしまう。
地獄姉妹と呼ばれているが、二卵性双生児にして妹であるりせ先輩との違いはそこだ。
りこ先輩は男性に敵意を抱いている。
「誤解がないように言っておくが、女性が性愛的な意味で好きというわけでもない。チームメイトは大好きだけどな」
それも理解している。
別に女性に性欲的な意味で執着しているようにも思えぬ。
「他人様をあのような目でみるのは良くないと思います」
「顧問の先生には敬意を払っているさ。あれは大丈夫だ。私に優秀なバレー部員として以外の何の興味も抱いていないからな。だが、同年代はな。ああ、大人も別に好きというわけではないぞ」
どうしてそうなったのだろうか。
僕は考えたが、正直言ってそこまでりこ先輩の背景を知らない。
彼女に関わってからの時間が、あまりにも短いのだ。
その人生背景を推察するには情報が足りない。
「小僧が下級生でよかった」
だから、りこ先輩のこの台詞もどういう意味かよくわからないのだ。
鈍い方ではないという自覚があるが、察するにも限界点というものがある。
「せめて、まっすぐ目を見つめてくれる人が欲しかった。ずっと」
僕に話しかけているつもりなのか?
りこ先輩の言葉は呟きに近く、曖昧で、会話にはほど遠い。
その自覚もあったのか、話題は僕の行為へと移った。
「小僧は平然と見つめ返してきたな」
優しい声だった。
女性的な慈愛に満ちた声だった。
「初めての経験だったよ。そうだ、私の人生で初めてそんな目で見られた」
言葉には若干の興奮が含まれている。
性的な昂りが混ざっていると感じたのは、僕の勘違いであろうか。
「この気持ちがどういうものかわからないが、私は時々小僧の夢を見るようになったよ」
僕は未だに椅子に座り、半身を背後に向けたままである。
その肩に再びりこ先輩の両手が乗り、肩を揉んだ。
僕がその行為に連想したのは猫であった。
猫が毛布や布団を揉む「ウールサッキング」と呼ばれる行動。
猫が乳を飲む時に両手で乳房を押して、母乳を出す仕草の名残であった。
「小僧はそんな私を気味悪く思うかい?」
僕の思考は会話ではなく、猫の行動について飛んでいる。
自分の強さに自信がある猫は、ウールサッキングをしないと聞いたことがある。
りこ先輩は自分の強さに自信が無いのであろうか?
そんなことはないと思うのだが。
まるで、一時的に強さを手放したかのようである。
「答えてくれ」
「思想および良心の自由とは、心の中で何を考え、何を思うかは、他人から一切干渉されない自由と聞いた覚えがあります。夢も同じではないかと」
夢くらい好きに見れば良い。
どうすることもできないし、そもそもどのような夢なのかさえ質問できない。
僕の方にそれを尋ねる権利がなかった。
りこ先輩の夢は、りこ先輩だけの物である。
「言葉を濁すな。それは嫌いだ。嫌ではないと受け止めてよいのか?」
「どのような夢かもしれませんが――夢の中でも、もし逢えたら素敵なことかと」
それ以外に、何も言うべき言葉はなかった。
気味の悪さなど覚えるはずもない。
ならば、光栄であると返事をするべきであった。
「そうか、小僧は嫌じゃないのか」
「光栄だと思っています」
人心地が付いた。
そんな感触である。
まるで数秒、正気を失っていたかのような瞳をりこ先輩は見せていたのだが、今は元に戻っている。
「ならば、これからも夢を見るとしよう。小僧の夢だぞ」
「どうぞ、お好きに」
手が離れた。
僕の両肩を揉んでいた手が離れ、りこ先輩は本来の強さを取り戻した。
「それで、カラオケだが五人じゃないと嫌か?」
「嫌ですね」
「ならば仕方ない。文芸部で予定を決めよう。日曜を空けておいてくれ」
りこ先輩はそれだけ言い終えて会話への興味を失ったのか、背を向けた。
そろそろ他の生徒も登校してくる。
それを嫌がったのであろう。
「初めてのカラオケ、楽しみにしているよ」
「僕もです」
僕はと言えば、さて、勉強を再開するかと。
正直苦手な分野である数学に再び取りかかることにした。
後ろ髪を引かれるように教室から退室する、りこ先輩を見送った後に。
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