第七話 「橘部長の昼休み」


 普段、昼食は学食にて済ませている。

 だいたいは谷垣と二人で軽い雑談を楽しみながら――最近は橘部長がどんな人間かを尋ねられている。

 眉をしかめる質問であった。

 僕はそのようなサークルクラッシャー事件の過去に対するゴシップや偏見の類が嫌いであると最初は答えたが、もちろん友人である谷垣もそのような事を好む男ではない。

 あくまで、僕のことを心配してとのことらしい。

 橘部長の人柄を聞いて、僕に関わる人間が悪い人ではないと安心したいだけで、誰に喋るつもりもないとのことだ。

 逆に、そう悪い人ではないらしいと多くに弁明して欲しいならば、野球部内でやるけどね。

 そう言ってのけた。

 谷垣は本当にいい男である。

 友人として、心の底から誇らしく思う。

 だから、僕は橘部長について喋った。

 四月下旬に入部して、まだ三週間にも満たぬが色々とご指導ご鞭撻を頂いている。

 多くは小説の初歩に関することで、まあ段階的執筆手法についてやら。

 先輩が実際に試しているプロットの産み出し方、オススメの執筆指導本の紹介。

 資格の漢検や文章検は、取っておいて創作の損にはならんということ。

 色々あるが、そんなことを小説に全く興味の無い谷垣に話しても仕方がないだろう。

 彼が聞いているのは橘部長についてであるし、その行動について話題を選ぶべきであった。

 なんだ、部活に行けば、いつも橘部長が手ずからに菓子とお茶を給仕してくれるとか、良い面を話そう。

 後輩の僕がやると言っても、全く手伝わせてくれないとか。

 時々、受け渡しで手が触れた際に、ぎゅっと手を握ってくる時があるとか。

 その際は思い出したように「(部を)辞めないでくれ。約束だぞ」と告げてくること。

 昼休みは部室で一人孤独飯を嗜んでいるので、谷垣との昼食後はたまに心配になって見に行っていること。

 昼食を終えて一人で紅茶を飲んでいる部長の姿は、部室のドアを開けた瞬間は本当に寂しそうに見えること。

 僕が出向いた時には、咲いたばかりの薔薇のように嬉しそうに微笑んでくれること。

 いそいそと、僕の分の紅茶も入れてくれること。

 まるで、いつ僕が来ても大丈夫なように紅茶一杯分のお湯がケトルに残されていること。

 そういった僕の、橘部長の行動への感想に対して。

 少し沈黙した後に、谷垣は答えた。

 

「重くね?」

 

 一言であった。

 それ以外に言葉の必要は無かった。

 だから、僕も一言で答えたのだ。


「重いな」


 橘部長は何かが重かった。 

 本当にあの人はサークルクラッシャーの件において、全くの無罪なのだろうか。

 彼女は自身の高身長と、銀縁眼鏡姿に加えた痩身について女性的魅力は全く皆無であると考えていたようなのだが、その黒髪は鴉の濡れ羽のように色濃く美しさを現している。

 容姿は端麗であり、厭世的な雰囲気と眼前の存在を疑っているかのような鋭い目つきなどは、かえって神秘的な調和により一種の美術的儚さを表現していた。

 肉付きが悪いことは否定しないが、彼女を美しくないと言える人間などおらんだろう。

 その上での、あの手を握る癖はなんとかならんのか。

 さすがに元々あった癖ではなく、こうすれば相手は喜ぶのだろうと、相手側から手をよく握られることで身についてしまったもののようだが。

 正直、あの細い手に握られると折れそうでいて、それで柔らかく、どうにも異性を感じてしまう。

 その状態で、少し高い視点からあの鋭い目つきで、こちらの顔色を窺ってくるのだ。

 長身からくる圧迫感と、それでいて媚びるような視線。

 どうにもエロティシズムを感じるのだ。

 女性に免疫のない文系男子などはイチコロだろう。

 まあ、そんなんで勘違いする方が常識的に考えて悪いか。

 僕は思考を打ち切り、谷垣にもう一度告げた。


「重いのは認めよう。だが、精神的に不安定にもなるだろう。しばらく一人きりの学園生活を送ってきたんだから。学校内で腫れ物扱いだったんだぞ」

「まあ、それもそうか。だが、お前がその精神安定剤になる必要もあるまいに」


 別に橘部長はメンヘラと言うわけではない。

 あくまでも環境により、一時的に精神が不安定になっているだけなのだ。

 第一、その重さは僕にとって負荷というほどではない。


「指導して貰っている御礼もある。尊敬できる先輩だ。まあ、そのうち誰にでも明るい笑顔を見せるようになるだろう」


 僕は現状を楽観的に考えているのだ。

 そもそも橘部長がそのように「重い」のは僕に対してだけでなく、大和さんに対してもそうなのだから。

 ただ、昼休みに訪れるお茶一杯分の差があるだけなのだろう。

 そう言い終えて、谷垣との昼食を終える。

 時間もあることだ、今日も部室に向かおう。








 ※





 すっ、と部長が立ち上がり、そのまま手を伸ばす。

 紅茶一杯分のお湯が残されていたケトルが沸騰し、ティーバッグに熱湯が注がれた。

 橘部長が給仕してくれたそれを受け取り、少し冷めるのを待つ。

 部長はどうやら小説を読んでいたようで、その中に魅力的な表現がいくつかあったらしい。

 本には数枚の付箋が貼られていた。


「さて・・・・・・なんだ。今日も君が来てくれて嬉しいよ」


 咲いたばかりの薔薇を見たように、橘部長は微笑んだ。

 部室窓のカーテンは開け放たれており、日光浴でも楽しめそうなくらいに日差しは眩しい。

 その眩しさの中に、美しい黒髪の橘部長がいる。


「今日は何を話そう?」

「今お読みになっていた小説のことは?」

「良くないな、そういう話題は。小説以外のことを話そう」


 文芸部なのに?

 と疑問を表情に浮かべたが、橘部長は険のある声で僕を見咎めた。


「アンテナは小説だけではなく色々な方面に伸ばした方が良いよ。別に経験したことしか作家は書けないなんて事は無いが、小説だけに絞るとろくな事にならないというのが私の見解だ」


 そう、私のように。

 最近はめっきりスランプだったりするのだよと口にする。

 今は新人賞の書籍化作業を終えて、新作を書いているのだが上手くいかないらしい。

 橘部長は一年生のサークルクラッシャーとして扱われた苦痛を元に、小説を完成させた。

 胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり。

 それは文学においてもそうであった。

 努力や才能だけではなく、苦痛というスパイスが加わってこそ、部長は小説を書き上げたのだろう。

 男性の友情とはこうあって欲しいという願望が、彼女のブロマンス小説を生み出した。

 それが僕の見解であった。

 だからといって、部長に何か次の創作のための苦渋を飲んでほしいとは思わんがね。


「・・・・・・では何か別な話題を。先輩は電車通学でしたっけ?」

「いや、徒歩だ。この近所に住んでいる。そうでなければ遅くまで部室に残ったりしないさ」

「個人的には、女性があまり深夜に帰宅するのもどうかと思うのですが」


 いくら近所で徒歩通学とはいえ、橘部長の魅力では変な男につきまとわれるかもしれん。

 サークルクラッシュした自覚がないのだろうか、この人。


「ここらへんは治安が良いから大丈夫さ。学校近くの商店街を通って、自宅のマンションまですぐそこだからね。それに、こう見えて結構足は速い方だからね。いざとなれば走って逃げるさ。それとも、何かね」


 橘部長は厭世的な笑みを浮かべ、囁くように口にした。


「遅くなったときは、いつでも君が家まで送ってくれるかね? ああ、家には入れずにマンションの玄関で送り返すがね」


 橘部長は、こちらをからかうように魅力的な笑みを浮かべた。

 僕は答えた。


「別に構いませんが・・・・・・」


 そんなことで橘部長の安全が買えるなら安いものだろう。

 負担ではない。

 僕はこれでも本気で心配しているのだ。

 

「・・・・・・」


 橘部長は厭世的な笑みを潰し、次にきょとんとした顔をする。

 今までの交友では見せたことのない、珍しい表情だ。

 そんなことを言われるとは、全く思わなかった。

 考えもしていなかったのだと。

 そんな表情で固まり、沈黙した後に。


「ん、そうか」


 ひとまず理解した素振りを見せているが。

 おろおろと、何を言うべきか困惑しているのは手に取るように理解できた。

 そんなに変なことを口にしたか?

 

「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな」


 橘部長は、何かを完全に理解したといった表情である。

 何か、中学生の国語の教科書で聞いたことのあるような呟き。

 ヘルマン・ヘッセの短編小説「少年の日の思い出」だったろうか。

 その登場人物のエーミール構文で呟いた。

 人の心を破壊する強烈な台詞である。

 僕、何か取り返しの付かない悪いことでもしたのだろうか。

 これでも後悔のない、誰にも恥じぬ生き方をしてきたつもりなのだが。


「君、注意しておくが、そのように何の欲得もなしに優しさを不用意にふりまくものではない。人は皆、勘違いをする。それを痛いほど理解させられたのが私だ。その私が言うのだから、少しぐらいは改めたまえよ」

「はあ」


 何を言っているのかよくわからないが、仰るとおり橘部長にだけは言われたくない台詞ではあった。

 貴女とて不用意に女性の魅力をぷんぷんとさせているだろうに。

 まあ、橘部長が意図してのものでは無い点については同情するが。

 僕はこのように生きてきたので、もうこのようにしか生きていけない。

 自分が少し変人であることぐらいは、自覚があるのだけれど。


「ところで君、彼女はいるのかね」

「今までの人生で出来た覚えはありませんね」

「そうかね」


 意外だよ、いや、かえって当然といえるのかも。

 独り言なのか、僕に言って聞かせているのか。

 どちらかはよく分からないが、橘部長は何度か思考をまとめようとして言葉を口にした。


「それでは、遅くなったときは家まで送ってもらうようにしようか。何、二人して帰り道で10分足らずの会話をするのも良いだろう」

「おや、本当に近いんですね」

「近いよ。本当に、そこまで心配される必要もないんだがね」

 

 橘部長は、苦笑するように呟いて。

 そろそろ冷めた頃だろうと、紅茶を飲むことを促す。


「まあ、君が送ってくれるというならば、女性としての自尊心も沸き立つというものだ」


 そうか、彼女はいないのか。

 橘部長がそうカラカラと笑い、微笑む。

 その表情は憂いを消し去ったようであったが、どこか重たくも感じた。

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