第二話 「カロリー爆弾」
廊下を歩きながら、こう考えた。
智に働けば腹が減る。
情に棹させば腹が減る。
意地を通せば腹が減る。
とかくに人の世は腹が減る。
夏目漱石の『草枕』を、腹減り交じりに冒涜するのだ。
腹が減る。
男子高校生というものはとかく腹が減りやすく、生涯でもっともカロリーを必要とする季節である。
どうしても買い食いせねばならぬ。
それも昼食時にではなく、休憩時間にも食べねば体が持たぬ。
学校側にも理解があり、特にスポーツ特待生を大量に抱える高校の必要設備として、学食と売店がこの高校は非常に充実していた。
友人である谷垣とは、腹が減った際はじゃんけんなどをして負けた方が売店に出向くという契約を結んでいる。
本日は僕が敗北した。
ゆえに、学食の自動販売機にて惣菜パンを買わねばならぬ。
谷垣はカロリー爆弾である『厚切りシュガートースト』を所望している。
よく売り切れるのだ、これが。
売り切れていたからといって旋毛を曲げるほど谷垣は狭量ではないが、それにしたって買えることにこしたことはない。
足早に廊下を進み、学食へと辿り着いて自販機に歩いたところで。
「ほへ」
こちらを向いて変な声を出している身長190cmの女性がいた。
大和さんであった。
自販機の前で『厚切りシュガートースト』を美味しそうに頬張っている。
ちらり、と自販機の在庫に目をやる。
残念、売り切れだ。
谷垣には代わりの物を用意してやらねばならん。
それにしてもだ。
「・・・・・・」
大和さんは僕のことを見つめて、それでいてどうしようかなと。
少し首を捻らせて、何か思考停止した表情である。
口元はモグモグと動いていて、トーストを咀嚼中である。
なんだ、どうした。
見つめられても、こちらは困るのだが。
自販機の前からどいて頂いて、パンを買わせて貰わねば困る。
そのようなことを考えているが。
「・・・・・・1日5000キロカロリーは摂らないと、体が持たないんです」
大和さんが言葉を発した。
どうも、自販機の前でカロリー爆弾である『厚切りシュガートースト』を口にしていた言い訳のようである。
言い訳がしたかったようなのである。
いや、そりゃあそれだけ体格が良ければ、腹だって減るであろう。
仕方ないことじゃないかな。
そう言おうと思ったが、ちと迷った。
彼女は何故唐突にこのような事を言い出したのであろうか。
「・・・・・・」
少し、沈黙で返す。
彼女が言い訳した意味を考えなければならない。
考えて、女心に鈍い僕の頭でたどり着ける結論は一つ。
休憩時間に、食事を見られたこと自体が気恥ずかしいのであろう、と。
そこまで考えて、言葉を返す。
「食べてる割には痩せてるように見えるけれど」
口にするのは欺瞞そのものであった。
大和さんは別に痩せていない。
かといって太っているというわけではなく、ムチムチとしたグラビア体型であるのだ。
彼女の胸は大きく、尻はデカく、太腿は太かった。
「え、そうですか? 初めて言われましたよ。女友達も親も食べ過ぎだって言うんです」
彼女は驚愕した目で僕を見た。
親御さんぐらいは言ってやれよ、痩せてるって。
まあ痩せてはいないけど、太ってもいないのだから。
「まあ、食べてる方が健康的だよ。僕もちょうどお腹が空いて自販機で何か買うところだし」
「あ、そうなんですね」
大和さんがシュガートーストを手に持ちながら、身を引く。
僕は惣菜パンを適当に二個買って、ブレザーのポケットに突っ込む。
谷垣には好きな方を選ばせればよかろう。
もぐもぐと、相変わらず大和さんは咀嚼をしている。
よい食べっぷりだ。
「それじゃあ」
僕は会釈して立ち去ろうとするが。
「なんで庇ってくださったんですか?」
ふと、奇妙な事を聞かれた。
何の話だ?
意図が理解できない。
思考が一瞬停止するが、大和さんとの関わりなど少ない。
先日の事であろうとすぐに思い至った。
「あのバレー部とバスケ部の主将の話ですか?」
「はい。あの地獄姉妹から庇ってくださった時のことです」
「地獄姉妹?」
なんだそのネーミングセンス。
「バレー部主将二年、時透りこさん。バスケ部主将二年、時透りせさん。二人合わせてこの高校では地獄姉妹と呼ばれているそうですよ。双子だそうです」
「あまり似ていなかったけれど」
「二卵性双生児だとか。りこさんはショートボブ、りせさんはベリーショートですから。女性の印象なんて髪型で大分変わる物ですよ」
そういうものなのだろうか。
男として、女性には見識が浅いのでよくわからぬ。
女性とお付き合いしたこともないのであるからして。
そのような言い訳をしたい。
「それで、聞き直しますが。どうして庇ってくださったんです? あの時私は、ああ、まあ仕方ないし地獄姉妹のどちらかに押し切られてしまうんだろうなあと諦めていました。何せ、クラスメイトの視線が怖かったので」
「視線が怖い?」
「お前のせいで騒がしくなり、クラスが迷惑をこうむっているとその・・・・・・」
くだらぬ。
そんなことを考えているクラスメイトなどいないし、いれば僕は軽蔑する。
大和さんに悪い点など何一つないではないか。
押しかけてきた地獄姉妹にすら、軽蔑すべき点はない。
彼女たちさえ欲得あれど、半ば善意混じりの行動でさえあった。
だが、それを大和さんには言わぬ。
さすがに「くだらんこと」と言うべきではない。
「最終的にはバレー部かバスケ部のどちらかに入部し、アスリート選抜コースに転入することもやむなしと考えておりました」
犬歯で唇を軽く噛む。
その方が良かったのではないか?
そういった僕の本音を吐くべきではないと察した。
「改めて御礼を申し上げます。本当にありがとうございました」
ぺこりと、大和さんが頭を下げた。
下げたが、まあ、僕の目線よりも彼女の頭は高い。
全く頭を下げられた気などしないのだが、そもそも彼女が謝意を示すこと自体が間違っているのだ。
あのときの、僕の行為は肯定されるべきだ。
そう思う。
「そして、改めて聞きます。どうして庇ってくださったんですか」
「逆に疑問だよ」
脳直で口から言葉は出た。
何故そのような疑問を?
庇って当たり前ではないか。
クラスメイトとて、もう少し親しい関係の人間がいれば庇ったと思う。
僕は大和さんの後ろ座席という縁があり、それでこそ庇った。
だから。
「理由など必要ない、僕は大和さんが嫌がっていることに確信を持っていたからこそ発言した。そんなもの当然の行動でしょう。理由だと?」
そう言ってのけた。
理由などあるものか。
だが、あえて言わんとするならば。
「人が困っていたら助けるのは当たり前のことではないですか」
常識的な良識という言葉に落ち着いた。
理由という理由はない。
のほほんとした綺麗事をほざくなと言う人もいるであろうが、僕は本心本意でそのように考えて生きてきたのだ。
今更この考え方を変えられぬ。
「当たり前・・・・・・そうですか」
大和さんは、咀嚼していたシュガートーストの一欠片をごくんと飲み込んだ。
まだ食ってたのか。
せめて飲み込んでから喋って欲しかったなと思いつつも、彼女は豊満な胸元に手を当てて呟く。
「いままで、私、庇われたことなんてなかったもので。失礼を」
「・・・・・・そうですか」
些か重い発言をしながら、僕はそれを流した。
彼女の人生の根底に関わるほどに親しくはないからだ。
どちらかと言えば、今は。
「金出せ、りせ。プロテインシェイクが飲みたい」
「いや、私も飲みに来たんだけど、100円しか持ってないよ・・・・・・。姉さんの分まではないよ・・・・・・」
何故か学食にある高機能プロテインサーバーの前で、言い争いをしている地獄姉妹の方が気になった。
何やってんだ連中。
「金だよ、金。金さえありゃあ何でもできるんだよ。金が無いとは、首を吊っているのとおんなじだ。貧乏に生まれるというのは、死んでいるのと同じことなのだ。お前も判っているだろう、我が妹である『りせ』よ」
「人は生まれ落ちた瞬間より親の立場により差別され、階級を区別され、その人生を生きていかねばならぬ。もし惨めな立場に産まれ落ちたならば、ありとあらゆる人間が自分を貶め、軽んじてくることに耐えていかねばならぬ。判っているよ、『りこ』姉さん」
正直言えば、地獄姉妹の人生観が凄く気になる。
何をプロテインサーバーの前で人生ドラマを始めているのだろう。
100円がないだけだろうが。
「誰か後輩からカツアゲするか・・・・・・」
「そうしたらいいよ」
胡乱な目で、りこりせ地獄姉妹が周囲を見渡している。
その仕草は神聖ローマ帝国時代の盗賊騎士もかくやと言ったところで、学食前に惣菜パンを買いに来ていた体育会系男子が「あなや」と驚きを漏らしながら逃げた。
逃げるなよ、スクールカースト上位ども。
ほら、誰もいなくなったから僕と大和さんしか残っていないじゃないか。
あ、地獄姉妹がこちらに近寄ってきた。
「小僧、100円恵んでください。苺味プロテインシェイクが飲みたいんです」
全国クラスの女子バスケ部主将からプロテインシェイクのための100円を要求されたことがあるのは、日本でも僕くらいではないかろうか。
「ジャンプしてみろよ、小僧。チャリンチャリンって鳴るのは知ってんだぞ」
どうでもいいが、なぜ地獄姉妹は僕のことを小僧と呼ぶのだろうか。
僕の名前も知らんだろうから、別に良いけどさ。
だが、ハッキリ言ってやろう。
「100円恵んで欲しいというなら、礼儀というものをわきまえろ」
「ほう。礼を尽くせと」
「さすが小僧だ。ふてぶてしい」
うんうん、と地獄姉妹が頷く。
彼女らは礼儀を但し、頭を下げてこう言った。
「100円恵んでください。ここで100円恵んでくれると、私の好感度ポイントが+1します」
「りこ姉はくうくうお腹が空いてるんです。貧民に施しを。空腹に憐れみを」
何のステータスなのか。
好感度は別にいらないが、100円程度恵むぐらいは別に良かった。
なんかマジで金がないみたいだし。
「・・・・・・奢ります」
僕は100円を譲った。
どうでもいいけど、りこさんの掌はバレー部なだけあって大きく、分厚かった。
ビンタされたら僕の体躯は吹き飛ぶだろう。
その瞬間、ぎゅっと手を握られる。
「有り難う。この恩は忘れぬ」
「断金の誓いを交わそう」
そんな重たいものいらん。
あらあら、まあまあと大和さんが微笑ましい表情でこちらを眺めている。
いや、100円カツアゲされてんだけど僕。
別にいいけどさ。
「じゃあ、クラスに帰ろうか大和さん」
「あ、ちょっと待ってください」
プロテインシェイクを買いに行く地獄姉妹を前に、大和さんは僕を一瞬だけ引き留めて。
「次の休み時間用に、コロッケパンも買います」
どんだけ食うんだこの女という僕を尻目に、大和さんは再び自販機へと向かった
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