馬場の男と一杯のエール

桃波灯火

馬場の男と一杯のエール

 ベイル王国城下町の一角、とある酒場にて落ち着きなく視線を彷徨わせている男が一人。


 私は彼の名を知らない。そもそも知る必要がない。男はそれくらいとるに足らない男であり、王国ではありふれた存在であった。


 しかし、今日はこの不審な動きだらけの男が主人公。よって少しだけ格上げしてみてもいいだろう。


 彼はとある貴族家に仕える従者。他に粒だてる要素はない。一般大衆人の設定としては十分だろう。


 ――おっと、酒場の店主が男に話しかけるようだ。


「あんた……お茶でいいのか?」


「え、えぇ。ちょっと気分ではないんです……」

 困惑気味に尋ねる店主に対し、男は抑揚の消え去った言葉で返す。顔は下げたまま、店主と目を合わせないさまは活気にあふれる酒場の中では非常に浮いている。


 コイツ、薬やってるんじゃねえだろうな。店主はそんな考えが頭に浮かんだが、指摘して面倒ごとになるのを嫌がって何も言わない。


「嬢ちゃん、いい飲みっぷりだなぁ!」

 さらには男から逃げるように隣の客に水を向けると、「サービスだ」と言って一杯のビールを差し出した。


「ありがとうですわ、感謝感激ですわ!」


「そんな喜ばれるとまたサービスしたくなっちまうな、ガハハ!」

 店主は大層変わった語尾の女の言葉に違和感を表すことなく、上機嫌に笑う。そして女も店主に合わせて笑った。


「お気持ちは嬉しいですが、何度もサービスを受けるのは性に合いませんの。それ相応の対価をきっちりと払わせてほしいですわ」

 ひとしきり笑ったのち、女は少し声のトーンを落とし真面目を醸して言うと懐から金貨を一枚取り出した。


「もう五杯、頂戴な。おつりはいらないですわよぉ!」


「飲むねぇ嬢ちゃん! だが、それは出来かねるな。釣りは残しておくからまた次来たときに使ってくれや」

 店主は金貨を受け取るもそれを背後の酒棚に置く。店主の言葉に両目をパチクリさせた女は少しの間をおいて、ニッと口の端を上げた。


「そういう粋な感じ、好みですの! せっかくだしそのお金からあなたに一杯、おごらせてくださる?」

 今度は店主が目をパチクリさせる立場だった。


 店主は一瞬だけ逡巡する様子を見せたが、ここで断ってはノリに関わると思ったようだ。すぐに女に出したのと同じ酒を取り出してコップに注ぐ。


 店主がコップを持ったの確認すると、女もコップを持ち上げ「アルタ神に」と告げる。店主もまた「アルタ神に」と続けた。


「「乾杯!」」

 店主と女がコップを突き合わせ、少しだけ酒がこぼれてお互いの手にかかる。しかし、二人は気にせずに口を付けると、喉を鳴らして酒を味わいだした。


「うまい!」


「うまいですわ!」


 店主と女の二人はほぼ同時にコップを空にすると、二人で笑い合う。


 一方、隣に座っていた男は――


 (なんでこんなところにがいるんだよぉぉぉぉゎ!?)

 

 青白い顔の裏で烈火のごとく叫んでいた。ちなみに、青白い顔の原因は今もなお悲鳴をあげる自身の腹の所為である。


 この男、とある貴族の家で馬の世話をしているのだが、新人ということもあって気苦労が多い生活をしていた。


 馬に関する知識は人並み以上に持っているのだが、如何せん緊張しいであらゆる場面において満足に実力を発揮できたためしがない。


 その性格もあってか今もなお周りと打ち解けることが出来ておらず、貴族家独自の慣習にも慣れきっていないので失敗を積み重ねてもいた。


 そのせいでストレスを貯めており、今日はその解消もかねて酒を飲みに来ていたのだが、


 (まさか脱走? こんな夜に? お嬢様が一人で!?)


 隣で店主と盛り上がっている町娘風の服に身を包んだを横目でも見ることが出来ず、ひたすらに前を向き、震える手でお茶を飲む男。彼は焦っていた。


 そも、新人の男はお嬢様と話したことはない。しかし、遠目でお嬢様を見ているだけでも持ち前の聡明さや奥ゆかしさを感じ取ることは出来た。


 そのイメージと今となりに座っているお嬢様のイメージがあまりにもかけ離れており、繋がらない。


 そして貴族と関わった経験も少なく、お嬢様が深夜に一般市民が集まるような酒場に来ていた時の対処法など分かりはしなかった。


 (上司に報告? でもそんな荒唐無稽な話、信じてもらえるか……。もしかしたら虚偽だとして罰、果ては解雇……?)


 男は混乱する頭で思考を巡らす。


 (じゃあこのまま見なかったことに……。でも、もし今お嬢様に何かあったら疑われるのは俺じゃないか!?)


 向かうところすべてが地獄。八方ふさがり。一般市民の焦った頭では大した解決策が出るまでもなく、ただただ無為に時間が過ぎていく。


 そんな折、


「待たせたな。ウチの名物、フロントリザードのかば焼きだ」

 店主がカウンターに皿を置く。


「あ、ありがとうございます……」

 曖昧な言葉と共に皿を受け取ると、男は思わず乾ききった口内で唾を飲み込もうと喉を動かした。


 フロントリザードのかば焼き。ストレス解消のためにやってきた男のもう一つの目的。


 この酒場はつまみとしてフロントリザードの料理が出されることで有名であり、その中でもかば焼きが一番の評判らしい。


 お嬢様の存在で本来の目的を忘れ去っていた男は、かば焼きから香る焼けたタレの匂いに少しだけ冷静になった。


「ほれ、嬢ちゃんも」

 

「ありがとうですわ!」

 お嬢様は笑顔で皿を受け取ると、文字通りの舌なめずりを見せる。大きく見開いて輝かせた瞳はその料理に対する期待感を如実に示していた。


「これが食べたかったのですわ、来た甲斐がありましてよ!」

 男はお嬢様の盛り上がりですぐに現実に叩き戻された。男の悩みは目下留まることを知らないのだ。


 再び男が腹痛と混乱で動かなくなる中、お嬢様はかば焼きへと手を伸ばす。下品にフォークをブスリと刺し、そのまま持ち上げた。


「――! そうでしたわ」

 お嬢様は何かを思い出したように言うと、美しく丁寧な所作でかば焼きを刺したままのフォークを置く。


「もう一杯用意してほしいですわ」

 俗っぽくクイッと杯を傾けるしぐさ。


「まだ残ってるじゃねぇか。まぁ、こっちとしちゃ嬉しい限りだが」

 店主はそう言いつつも手早く用意をすると、お嬢様の正面に酒を置く。しかし、お嬢様はそれ見て首を振った。


「私ではないですわ。こちらの方に出してくださる?」

 お嬢様は微笑を浮かべつつ手で隣を示す。


「……え?」

 数舜ののち、呆けた声を漏らす男。


 そう。お嬢様が示したのは隣で青い顔が黒くなり始めた馬場の男であった。


「こ、こいつか?」


「えぇ、そうですわ」


「……ほれ、嬢ちゃんからだ」

 店主は顔面に疑問符を張り付けたような表情を隠せないまま、酒を男に提供する。男は男で状況に付いていけず、困惑しながらもとりあえず酒を受け取った。


 よく冷えた酒だ。城下町でこんなに冷たい酒があるなんて、と男は考える。


 大抵は生暖かい酒と酔えば食べられるというレベルのモノが提供されるのが常。男のように稼ぎが少ない人らにとっては当たり前と言える感覚だ。


 男は酒の冷たさを認識し、初めて俺は良い場所に来ていると自覚をした。


 その気持ちは本来、この店に来た時点で感じられたもの。初めに酒を頼んでいればすぐに気が付いただろう。


 しかし、それは隣のお嬢様に気が付いてしまったせいで叶わなかった。


 酒を見て無意識に唾を飲み込む男。


 こいつはここにきて改めてお嬢様と出会ってしまった自身の不運を呪うと同時に、奇妙な感覚にもとらわれていた。


「この方、最近ウチの馬場で働き始めたのですわ。こんな場所でせっかく会ったのですから、一杯ご一緒したいですわ」


 お嬢様のおかげで酒がめちゃくちゃ美味しそうに見える、と。


 本来、それはおかしい話である。男にとってここでお嬢様と遭遇しようがしまいが、料理と酒にありつく未来は約束されていたモノだった。


 それは男が自らストレス解消のために巷で有名な料理を食べに行こう、と決めたから。


 しかし、男はお嬢様のと感じている。


 不測の事態に瀕する中、ふと気が付いた酒の冷たさ。言うなれば救い、だろうか。


 それは高ストレスからの解放を意味しなくもない。


 冷静に考えればお嬢様が引き起こした無自覚のマッチポンプと言えるような状況。


 乱高下すらない気持ちの低空飛行を続けていた男にとって、上がった先が牢獄であろうと地獄であろうと関係がなかった。上がれた、その感覚が救いと思えたのである。


 お嬢様は酒を見る目に力が宿った男を見てふわりと微笑むと、自身のコップを持ち上げる。


「ごめんなさい。私、あなたの名前をまだ知らないのですわ」


「トーマス、です」


「じゃあトーマス、お酒を飲むならやることは一つですわ」


「アルタ神に」

 お嬢様の言葉を受けてトーマスが言う。


「アルタ神に!」

 トーマスの言葉にお嬢様が深く頷く。


「「乾杯!」」

 二人は思いっきりコップを突き合わせた。そして両者はすぐさま胃に酒を流し込んでいく。背中を、首を、反りながら喉を鳴らして一気にグイッと。


 それはそれは良い飲みっぷりである。


「トーマス、今日一日お疲れ様ですわ!」


「お嬢様も、お疲れ様です!」

 

 二人は笑顔で頷くと、「「もう一杯!」」と喉を震わせた。

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