藍色の星
柔らかな青い光が揺らめく水槽の中で、『魚』たちが静かに舞っている。海の底のように暗い室内で、私と伊藤はその光景を見つめる。
私達の眼前では、石や水草といった海中の環境を正確に模した水槽の中、多くの海洋生物達がゆっくりと、揺蕩うように周回している。
銀色の鱗で覆われているためか、『イワシ』や『アジ』といった魚の体躯を、時折照明が反射し、眩い光を私の網膜へと届ける。
先ほど見た灰色の海よりも、美しい青さを纏った水槽。
しかし、何故かこの小さな海の方が、『死』に近いような気がした。
「小さな墓標だな。これは」
「素敵な表現ね」
通路を歩く人々の足音が、深い静寂の中でかすかに響く。巨大な『エイ』が泳ぎ、底へとゆっくり沈んでいくように見えた。暗闇の中で青白く輝くその姿は、まるで死への旅路を辿る魂のようだ。
その姿を見ると、ふと疑問が浮かんだ。
「この魚達は生まれた時からここにいたのか?」
「子供みたいな質問ね。けど、正直私もわからないや」
「そうか」
水槽から視線を逸らすと、伊藤はロングスカートを翻し、何も言わずに前を進んでいく。私は、無言でその後を追った。
一際人気な、実際に魚を触れられる場所を抜けると、『クラゲ』という軟体動物の水槽の前で、伊藤は無言で立っている。この一角は、まるで人々の記憶から欠落しているかのように、私と伊藤沙耶がいるだけだった。
彼女の視線は、水槽の中で漂う『クラゲ』に向けられている。
私は、その横に立って同じく『クラゲ』を眺めた。
まるで重力から解放されたかのように、その生き物は静かに浮遊し、時折ふわりと光を受けて白い皮を反射する。
「……さっきの話の続きだけど」
隣にいる伊藤が、ぽつりと呟く。彼女の声は、水族館の冷たい空気に溶け込むように響いた。
「思い出したことがあって、貴方を待つ間、小学生の頃に始めて見た、アイドルの動画を見返したんだ」
「ほう」
私は、クラゲの入った水槽に手を触れた。海水によって冷たくなったガラスの感覚が指先から脳へと伝達する。
「初めて見たのは、ライブでもインタビューでもなかった」
「じゃあ、何で見たんだ?」
水族館の中に漂う静寂と冷たさは、まるで世界がすでに終わりを迎え、生命たちがその余韻の中で溶けていくかのようだ。人間もまた、こうして死を待つだけの存在なのだろうか。そんな考えが、頭をよぎる。
「センターの子が、ライブの緊張で過呼吸になる動画」
『過呼吸』とは、ニンゲンの呼吸が異常に速く、または深くなりすぎる状態の事を指す。それにより体内の二酸化炭素の濃度が低下し、血液のpHが上昇することによって、さまざまな身体的および精神的症状を引き起こすのだという。
過度のストレスによって、目眩や動悸、呼吸困難などの症状を引き起こすのだという。
そんな症状は、『アイドル』という絢爛な業務とは関係なさそうと思うが。
「それを見て、お前はどう思ったんだ?」
「美しいって思ったの」
————この女は何を言っている?
ニンゲンが生きる上で必要不可欠な呼吸機能の障害など、絶望的な恐怖を伴うはずだ。 なのになぜ、何故それを美しいと言える?
「今、何言ってるんだコイツって思ったでしょ」
「……思ってなどいない」
考えを読み取られているのか、と一瞬硬直しそうになるが、私たちのように同族の思考を共有する機能など、ニンゲンには備わっていないはずだ。その為に、争いや戦争が起きるのだから。
伊藤は、「あっそ」と不躾に反応すると、さらに続ける。
「多くの人々の希望として、過呼吸にもなりながら痛々しく耐える少女。その姿は、小さい頃の私には夜空に煌めく藍色の星みたいだったの」
「その歪さは、どちらかと言うと『凶星』じゃないか?」
「あはは。言えてる」
苦笑する伊藤。
「そのアイドルは今、何をしているんだ?」
「死んじゃった。絞首自殺」
伊藤がぼそっと口にする。
「そうか」
私が返答すると同時に、先ほどまでゆっくりと動いていたクラゲの一匹が、力無く動きを止めた。
「そのニュースを思い出して、ずっと心の底に眠っていたものがわかった」
青白いクラゲだったものが、力無く水槽の下へと沈んでいく。
「アーティストはね、自らの死をもって完成するの。私は世界中の人間の心に傷を与えるような死に方をして、アイドルとして完成したい」
「それが、自殺したい理由か?」
「そう。だから、貴方にはこの世の全員の記憶に残るような、死に方を一緒に探して貰う」
視線を感じて、伊藤の方に首を向けると、伊藤の大きな瞳は、藍色の星のような煌めきを放っていた。それは、ここに来るまでに見た宇宙のような暗さと、目の前の水槽に注がれた海水のような、透き通った冷たさを携えている。
私は、その幽玄な光を灯した瞳に、言葉なく立ち尽くしていた。
————この形容し難い感覚を、『美しい』と言うのだろうか。
カナリア 復活の呪文 @hukkatsunojumon
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