2-14 ウサギの現実

 イヌがネズミと初めて出会った切っ掛けは、ウサギだった。

 ウサギと一緒にいる時に、彼女が「誰かが泣いてる」と言い出したのだ。


 耳をすますと、夕方の風に乗って誰かの声が微かに聞こえた。

 明海あけみは声に誘われるまま「裏」の街を歩いて主を探し、とあるマンションの最上階までのぼる。ウサギを置いてきてしまったことに気づいたが、戻る気にもなれず、更に階段を上がって、鍵の掛かっていないドアを開けると屋上にたどりついた。

 オニゴッコでも来たことのない場所。大きな貯水タンクを見上げて「こんな所があるんだ」と思った。


 殺風景な景色の中を、たくさんの室外機の先まで歩いたところで、フェンスにしがみ付くような体勢でむせび泣く少女を発見した。膝をついた両脚に力はなく、網目をつかむ両手も、ただどうしようもなく手に取れる物にすがりついているようだった。夕陽を浴びる頭の上で揺れる大きくて丸い耳が、彼女が動物人アニマンであることを語っている。

 悲痛な声を上げ続ける子供は、明海あけみが背後に近づくまで他者の接近に気づかなかった。


「どうしたの?」

 驚かせないようできるだけ優しく言ってみたが、気遣いも虚しく相手はビクッと体を跳ねさせ、逃げようとするみたいにフェンスに背中を押し付ける。

 イヌは慌てて、自分は無害だと伝えるつもりで手の平を肩の高さで掲げた。「恐がらないで! 鳴き声が聞こえたから、どうしたんだろうって思って、来ただけなんだ」


 丸耳の少女はしばらくこちらをにらんだまま「えぐ、ひぐ」と声を漏らすと、観念したのかどうなのか、「うぅ~」とうなって目をきつく閉じる。大粒の涙が頬を伝った。

 それから十秒ほど、明海あけみが何もせず見守っていると、

 ポツリとか細い声が「弟が、いなくなった」とつむいだ。


 動物人アニマンの少年の中で、冷たい何かが湧き上がる。「悪い奴に、さらわれたの?」

 対して少女は首を横に振った。「連れてったのは、警察だ。特区ズーの決まりで、送還された」

「そうかん?」想像とは違ったが、どうにも体がこわばる。安心していい内容ではなさそうだ。


 少女は鼻をすすってから続ける。「ママが特区ここで産んだ子だけど、動物人アニマンじゃないから、特区ズーの外に出された」

「出されたって……外へ出されたら、どこへ行くの?」

「オイラが知るかよ!」

 イヌは耳を下げて「ごめん」と言う。


 相手は怒鳴って勢いがついてしまったのか、数度「ひっく」としゃくり上げてから息を吸い込み、大声を出した。「例えば処分されたって、オイラたちにはわからないんだ!」

 突然のことでイヌ耳をかばうことができなかった。手遅れながら耳を塞ぎ、ジンジンする痛みが引くのを待つ。同時に、頭の中を貫いた単語を反すうした。「処分……」

 「処分って、どういうこと?」と聞くことはできなかった。


「う……うあああん! あああああん!」

「えっ。ちょ、ちょっと!」

 少女がまた大泣きを始めてしまった。


「おにーちゃん?」

「あ、芽依めい!」

 後ろからウサギが声を掛けてきた。今になって追いついたみたいだ。

「この子、さっき泣いてた子なんだけど、話してる内に、また泣いちゃって……」

「いじめたの?」

「違うよぉ!」


 結局、落ち着くまで時間がかかった。ウサギが袖を引いて「お座りしよ」と促すと、少女は案外素直にその場に腰を下ろした。幼い少女は、位置の低くなった丸い頭を優しくなでてやりながら「お名前、なに?」と尋ねて「ネズミ」という名まで引き出した。女の子同士の方が、気持ちが通じるものなのだろうか。

 明海あけみが思わず「すごいね」と口にすると、ウサギは「お母さんだったら、こうするかなって思って」と照れ笑いを浮かべて小首をかしげる。ナデナデは、ウサギも大好きだ。恥ずかしくて誰にも言えないが、実はイヌも。


 辺りが薄暗くなった頃に、ネズミはすすり泣く声を途切れさせ、自力で深呼吸した。

 もう我慢の限界だったイヌは口火を切る。「弟が警察に連れてかれたって言ってたね。話を聞かせて」

 ネズミはムッとした顔でソッポを向いた。「どうして、お前なんかに……」


「僕は『お前』じゃない」明海あけみは言い返す。「明海あけみ 晴人はると

「……」理解に時間を要したような間を置いて、動物人アニマンの少女はこちらを見た。「動物の名前じゃ、ないのか?」

 明海あけみはしっかりとうなずく。「特区ここに来た時は『イヌ』って言われたけど、僕は明海あけみ 晴人はるとなの」

「……」ネズミは目を丸くしたまま、固まった。げっ歯目は危険を感じるとフリーズすると聞いたことがあるが、今回は単純に驚いているだけだろう。明海あけみも、この話をして驚かれることには慣れている。


 少年は構わず質問を重ねた。「君は?」

「っ……」我に返ったように目をぱちくりさせたネズミは、不機嫌なフリをするみたいに口をへの字にする。「さっき、言っただろ」

 明海あけみは身を乗り出した。「良ければ、本当の名前を教えて。僕、みんなに聞いてるんだ。人間の名前で呼ばれたい人はいるのかなって思って」

 ウサギを見て「ね、芽依めい」と言う。本名が小角こかど 芽依めいであるウサギは笑顔でうなずいた。


 その様子を見ていたネズミは、数秒間じっくりと上目遣いでイヌをにらんだ後、つぶやくような言い方で告げる。「中井なかい 千尋ちひろ


 明海あけみはうれしくなった。「チヒロって、呼んでいい?」

「駄目!」ネズミは即座に拒否し、激しくかぶりを振る。

 明海あけみはショックを受けた。「どうして?」

 勝手に期待したのはこちらだが、なんだか裏切られた気分だ。


 ネズミは逃げるようにフェンスへ顔を向けて答える。「……もう、オイラには関係ない名前だッチ」

「そんなことないでしょう。名前は、お母さんや、お父さんとのつながりだよ。

 僕にとって、名前は、とても――」


「ママはとっくに死んだッチ!」

 強い語気でさえぎられた。

 明海あけみは、とっさに言葉が見つけられなかった。


 死んだ?

 どうして?

 特区ここで死んだの?

 どうなったら、特区ここで死んでしまうの?


 相手が本能的な恐怖で言葉が出せずにいるのには気づかないまま、ネズミが話す。

「死体は見てないッチ。ただ、ある日、帰ってこなかったから、そういうことだと思ったんだ。

 ママはネズミの動物人アニマンとして特区ここへ来て、特区ここで暮らす内に、何人も子供を産んだ。オイラも、その一人。

 けど、動物人アニマンだったのはオイラだけ。

 みんな……みーんな、


 いなくなった。

 連れて行かれた。

 死んだ。


 これらは、どう違うの?

 それとも、同じなの?

 もしかして、誘拐されるのと――


 心の底からあふれてくる質問を、しかし放つことはできない。

「ここはだッチ」ネズミが断言する。

「どういうこと?」尋ねたのはウサギだ。

 イヌは、のどが引きつったようになって、いつまでもしゃべれなかった。ただ、恐い話をする動物人アニマンを見詰める。


 ネズミの片手がフェンスをギュッとつかんだ。

「実験に使われて死ぬのを待つだけの、容器」

 見るみる内に網目がゆがんでいく。動物人アニマンとしての筋力に恵まれ、声を震わせるほどの怒りを宿しても、大切な人を守ることはかなわなかったのだ。


 特区ズーへ来た時、ヒトの大人に言われた。

「あなたは、これから安全に暮らすことができます。もちろん、自由ですよ」

「たまにお医者さんに体を診てもらいましょうね。大丈夫、病気がないか調べるだけです」


 特区ズーの学校で、先生に教えられた。

特区ズーは、動物人アニマンのためにヒトが用意してくれた楽園です」


の」

 ネズミが涙声で言う。

「楽園なんかじゃない……!」


 突き放す言葉の矛先が誰なのかはわからない。

 後ろにいる僕ら?

 この場所を作ったヒト?

 それとも、

 動物人アニマンという存在を生んだ神様?


 弱者ぼくらを守ってくれるはずの街の姿が、

 

 ゆがんでいく。くずれていく。

 暗黒が、迫ってくる。


 この街は、どうして僕らを裏切るのだろうか。

 どうして、ヒトも、大人も、

 こんな場所を信じろと教えるのだろうか。


 望んだ訳でもなくヒトでなくなった僕らが、

 どうして、

 他の生き方を許してもらえないのだろうか。


 イヌとウサギは痛々しい現実を聞かされた後、まるでもう用済みと言わんばかりに「お前ら、どっか行け!」とキバをむいたネズミに追い払われてしまった。何となく、ネズミの止めようのない感情に触れてしまったのだとわかり、従う他なかった。


 そしてその後、彼女の過去に触れることもできないまま現在に至る。

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