2-9 裏の現実
周囲の民家から続々と住人が出てくる。
その目のどれもが周囲をうかがい、そして、車を見つけた。
「助けて!」
大人の数人は驚いた顔をし、残りは理解できていない表情をなした。
「黒い奴を止めてくれ!」すかさずネズミが大声で補足する。
と、大人らの顔色が変わった――その目に、明確な怒りが宿った。その激情の矛先は、無論「黒い奴」である。「子供さらい」は、すべての
彼らの足が車へ向かう。
今まさに、複数の大人が共通の目的を持った。
そして、その全員が、人知を超えた筋力や動物特有の能力を持つ
危険を察知したのか、車が急発進した。
が、逃走はかなわない。
車体が繰り返し大きく揺れ、その進路も右へ左へと大きくブレた。
何が起こっているのかイヌには計り知れない。
と、リアウィンドウが勢い良く破裂する。
同時にオコジョの小柄な体が飛び出してきた。内側から窓に突進して脱出したようだ。
道端に転がったオコジョを大人が保護する。
一方、車は子供を諦めたのか走り去ろうとした。
しかし路地の先には、大人の
よし、捕まえられるぞ!
尻尾があれば振っていたかも知れない。
そう思った。
その時、
車はわずかに路肩へ寄ったかと思うと、けたたましいドリフト音を上げながら一気に転回した。
フロントガラスがこちらを向く。
憎き車両と
その距離、10メートル足らず。
運転手と目が合った。
鬼のような形相。そう呼ぶのが相応しい表情の男は、細い目でイヌをにらんでいる。
その視線に乗る感情は、明確な殺意であった。
しまった――
気づいた頃にはもう遅い。
敵が動き出す。
前身する。
イヌへ。
ああ、駄目だ――
はねられてしまう――
きっと、痛い。
死んでしまうかも知れない。
予見する間に、漆黒の壁が眼前に。
僕も、
何もできずに、
いなくなってしまうの?
嫌だ。
嫌だ……!
思わずまぶたをきつく縛り、体を硬直させる。
間もなく、衝撃を浴びた。
耐えられず、地面に倒れ込む。
何かが覆い被さってきた。
ただし、それは獲物をひきつぶす残酷な重量ではない。
直前の衝撃も、前方からではなく、横からだった。
イヌの耳が、遠のく車の走行音を聞きつける。
イヌの鼻が、他者の汗の匂いを知覚する。
目を開くと、自分にまたがる、車よりもずっと小さくて軽いものを視認した。
「ネズミ……」
「大丈夫か!? イヌ!」対して叫ぶにも似た大声を出したネズミは、泣きそうな顔で男子を見下ろしていた。「間一髪だったッチ!」
鼓膜を貫くような高い声にイヌがとっさに耳を塞ぐと、彼女は気まずそうに「あ、ごめんな」と声量を抑えて謝罪する。
「それよりも、ケガはないか! ないよな!」小さな手が
「ケガは、ない」返事は事実だ。特に強い痛みは感じていない。少年は「多分」と付けたところで馬乗りにされているのを思い出した。「どいてくれれば、自分で動けるよ」
「うわあ! ごめん!」小さなネズミがまた大きな声を上げて飛び退く。
上体を起こすと、イヌはため息をついた。
誘拐犯を完全に逃してしまった。
「にーちゃん!」血と土を顔に付けたオコジョが駆け寄ってくる。「助けてくれてありがとう!」
「え? 僕は何もしてないよ」
「したよ! にーちゃんの声、黒い奴の中までめっちゃ聞こえたもん!」オコジョは活きいきと興奮した目で説明した。「俺、悪い奴に押さえつけられてたんだけどさ、ソイツがにーちゃんの声に気を取られてたから、暴れてやったんだ!」
「捕まる時に鼻をぶんなぐられたから、なぐり返してやったんだぜ! そしたら、悪い奴が鼻血ブーってしてた!」
とオコジョ。彼は鼻の穴両方から出血しているようだが、髪や服にもおびただしい量の血が付いている。一見、激しい暴行を受けた痛々しい姿だが、その実、悪党へ攻撃した際の返り血が大半のようだ。
「にーちゃんのおかげだよ!」
「そうなんだ」と感心半分に述べた後、イヌはネズミへと体を向ける。
「それなら、僕と言うよりネズミのおかげかもね」
「え?」
「は?」
オコジョに次いで、我関せずといった具合で距離を置いていたネズミも声を上げた。
イヌは意識して早口で話す。「車が逃げた先をネズミが教えてくれたんだ。ネズミ、すごいんだよ。建物の上まで一気に登って、ピョーンって別の建物にも飛び移っちゃうんだ!」
「……そーなの?」オコジョの発言は、どこか慎重だ。真偽を疑っていると言うよりは、別の要因があるようだ。
きっと、二人の間には、
気づきは、ただちに悔しさへと変わる――
どうして、誰もネズミの素晴らしさをわかってくれないのだろうか。
と、その時、
「ネーズーミー!」路地の一端から、誰よりもパワフルな声が響く。その主の正体は誰もが知っていた。ネコだ。
彼女は一同の近くまで(とてつもない走力で)来てから、言葉を加える。「お前、すげーな! どうやった!? あの、壁をパタパターって登るの! つい見とれて、追い掛けるのが遅れちゃったぞ!」
「お、お前までなんだッチ!」尻尾を立てたネズミは途中で声を裏返らせた。「オイラが何しようと、お前らに関係ないチュー!」ブカブカサイズのシャツの裾を両手でにぎり、赤い顔で賞賛を突っぱねる。
オコジョの容態を見に来たのであろう大人が近づいてきたが、問答を止めることはせず行く末を見守っていた。
「そんなことない」イヌは続く。「ネズミは、オコジョのために精一杯頑張ってくれた!」それからオコジョを見詰めた。
対する男児はコンマ数秒、半端に口を開けたまま静止した後、真一文字に引き結んで、うつむく。
悩むように1秒ほどの間を置いてから、ようやくオコジョはネズミへ向き直った。
小さな頭を下げる。
「助けてくれて、ありがとう」
一方のネズミも困惑を顔に出しながらソッポを向くも、無視まではできないのか後頭部に片手をあてて、気恥ずかしそうに「またさらわれないように、気をつけろよ」と返した。
不器用なやつだ。
「不器用だな!」ネコの大声が響く。
「なんだと!」
「オイラのどこが不器用だって!?」
2人とも反応した。自覚があるのかも知れない。
小動物たちの意地っ張りな態度をおかしく感じ、イヌは噴き出した。隣でネコも大笑いする。すかさず対面の二人がキーキー言った。
取り戻すことのできた日常をかみ締めながら、イヌは願う。
「こんなこと」は二度と起こらないでほしい。
みんなで平和に暮らしたい。
対等でありたい。
強欲なんかでは決してないはずの望みが、
どうしてこんなにもはかなく感じられるのだろう。
どうして、僕たちは――。
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