2-7 ヒトの理想

 野村のむら 章吾しょうごは緊張していた。

 何度経験を重ねても、はどうにも慣れない。本心をごまかすようにタバコをくわえ、火をつけた。

 まずは一口、ゆっくり吸い込む。口と鼻が煙で満ちる。有害物質が脳へ回れば、次は有益な事象だ。喫煙で「うまい」と思ったことは一度もないが、集中力が高まるのは確かである。


 狭い車のルーフに向かって、煙と雑念を吐き出した。

 透き通った思考の中で、すべきことを考える。

 厚生労働省の職員である彼には、果たさなければならない使命があった。


 厚生労働省は、国民生活の保障・向上と経済の発展を目的として社会保障や労働環境、人材育成を担う組織である。働き方の多様化や労働環境の是正が叫ばれる中、生活保護制度と外国人技能実習制度の両方を管轄するこの組織は、更に「動物人アニマン管理特区の整備・運営」という大役を背負うことになった。

 この背景には、日本にほん政府の「動物人アニマンの研究を強烈に推進する」という意向がある。遺伝子工学と細胞工学を活用することで、動物人アニマンの能力や特性を再現できる可能性があった。無論、この意向自体は世界各国どこにでも存在し、動物人アニマン研究に割り当てられる予算金額を単純比較すればアメリカや中国ちゅうごくのそれに日本にほんは遠く及ばない。


 しかし日本にほんには、人工多能性幹細胞を筆頭に、細胞の分化を研究するための技術と設備が整いつつあった。この優位性と動物人アニマンの新規性、そして医療、スポーツ、軍事――もとい防衛とあらゆる分野へ応用できる可能性に目を付け、政府は国家プロジェクトとしてタスクフォースを発足させたのだ。

 動物人アニマンを一括で保護・管理する特区ズーを設置するのにも、「人と金の動きを連動させて把握・調整するシステム作りに慣れている」という厚生労働省の強みが活かされた。マイナンバーカードか、海外で動物に埋め込み状態を検知するマイクロチップなども利用できればより簡単に管理できたそうだが、前者は総務省の管轄であり縦割り行政の壁が推進を阻害する上に、運用はまた内閣直属の別組織であるデジタル庁が専任するため、各組織の利害を一致させるのに時間を要することから諦めざるを得なかった。後者についても、相手が野生動物ではなく「外見が人間に近い生物」であることから、反対意見を懸念して却下されている。


 こうしたう余曲折もありつつ、日本にほんは治安の良さと外交戦略の強さを発揮し、世界の動物人アニマン保護・管理を担う役割を受託した。残るは法整備と土地の確保である。世界的に動物人アニマンという呼び方が定着した生物に、法律の都合でわざわざ「特別保護対象個体」という名称を新たに付けた上で、特別保護対象個体の収容・生活の場とする特区ズーを設置し、特区ズーに常駐する「厚生労働省特別保護対象個体管理特区特別管理局」なる出張所を立ち上げた。人間と区別しなければならないルールも、例外的な対応であることを示すべくき帳面に「特別」という表現を該当箇所に毎回付ける「ならわし」も満足した日本にほん人らしい名付け方だろう。


 この国は、動物人アニマン研究を独占する権利を勝ち取ったのだ。自動的に集まる個体をサンプルとして、様々な目論見で集まる予算と裏金を使い、需要の高まり続ける研究を競合もなしに推進する。こんなにも安泰な開発事業が他にあるだろうか。

 日本にほんがリーダーシップをとる時代が来たかに思えた。


 ところが、黄金のような期待に水を差す問題が発生した。

 野村のむらがこの場所で緊張する羽目になったのは、そのためである。

 ハンドルの十二時の位置に両手を置き、腕の間へ額を沈ませた。

「くそ」

 そんな発声だけでは、暗たんとした気持ちまでは放出できない。


 と、そこへ、

「おい、来たぞ」後部座席から呼び掛けが。

 ルームミラーで車内をうかがうと、管理局の同僚である鈴本すずもと 大賀たいがの大きな体が窓の外へ向いていた。両手をガラスに付けた姿は、まるで飛行機の離陸を初体験する子供みたいだ。


 そんな新鮮で楽しい時間なら、どれほど良かったことか……。

 ――否、成功体験にするのだ。

 日本にほんがそうしたように、俺たちも、勝ち取るのだ。

 これ以上、


 車の前方から、小学一年生ぐらいの外見の男子が駆けてくる。何かから逃げているらしい。鬼ごっこか隠れんぼでもしているのだろうか。


 特区ズーの住民は車に乗らない。自動車免許は人間に付与される物だからだ。それ故に、特区ズーで車を見る機会はほとんどない。管理局員が移動の際に使用するぐらいである。

 自分たちが乗り込んでいる黒塗りのセンチュリーも当然、特区ズーの子供にとっては珍しい代物だ。


 だから、幼い子供は道端に停車している車に近づく。

 未知の物に対して、恐怖心よりも興味が勝るから。


 「なんだ、これ」と顔に書いたようなほうけたアホ面が首をかしげた。

 髪をかき分けて生える茶色の丸耳は、仮装ではなく本物。

 動物人アニマンである、何よりの証拠。


 ……考えてみれば、こんな場所に人間の子供なんかいるはずがないか。

 必要な確認は済んだ。

 「狩り」を始める。


 が車の運転席をのぞき込もうとしたところで、野村のむらは勢い良くドアを開いた。き帳面加工の施された板を通じて、小さな鼻っ面をへし折る感触が伝わってきた。時代の要求に応えて車両の部品は軽量化されてきたが、大人の手に掛かればいとも簡単に暴力の道具になる。

 鈴本すずもとが後部座席のスライドドアを開き、倒れ込んだ子供の胸倉をつかむと無理矢理に起こした。

 数秒前のバカ面が、今は泣き顔で鼻血を噴き出している。何が起こっているのか理解できていないのだろう。


 筋骨隆々とした鈴本すずもとの巨体は、難なく動物人アニマンを車内に連れ込む。

 その様子を見届けると、野村のむらは安心して運転席のドアを閉めた。

 日頃のニュースでは野生動物を相手に人間がなす術なく命を奪われる事例も報じられるが、現実では、ほとんどの場合、ヒトが、造作もなく、動物を殺めているのだ。


 生殺与奪を握った俺たちが、

 霊長目ヒト科の生物が、

 どうして、

 

 野村のむらはハンドルを握り締める。


 後は、コイツを目的地に運ぶだけ――


 ドンと音が鳴る。振動が伝わってきた。

 スライドドアが閉じられた音ではない。

 車が何度も揺らされた。


 おい――


「おい、暴れるな!」鈴本すずもとが声を張る。

「離せ! 離せよ! このぉ!」


 ウソだろう――

 人目はない。

 ターゲットは子供だ。

 しかも不意打ちでひるませた。

 の中でも、最も順調だったのに。

 どうして!


「くそ!」鈴本すずもとが獲物を片腕に抱えたままスライドドアに手をのばす。

 ようやくドアが閉じられる。

 その直前、


「誰か! 助けてー!」獲物が叫んだ。

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あにまる☆すとらいく むささび @musasabi1000

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