2-5 ウサギの理想

「よっ、と!」

 目をつぶった明海あけみのイヌ耳がそんな声を感知した。同時に全身を衝撃が襲う。


 ただし、それは地面にたたき付けられる強烈なものではない。たくましい腕に優しく抱き留められる心地良いものだった。

 鼻くうを満たすは、かいだ覚えのある匂い。体を包む、ベッドみたいに大きく頼もしい胸板――身を委ねたくなる巨くに思わず顔をうずめてから、明海あけみは顔を上げた。


 目と鼻の先に現れたのは、せいかんとした大男の顔であった。

 彼の名を呼ぶ。「友優ゆうや!」


 呼ばれたクマは優しい笑みを――浮かべることはなしに、鬼の形相になった。

「お前ら、何やってんだ!」怒号が響く。

「わん!」イヌは反射的に体をはねさせ、耳を塞いだ。

 怒りの声が続く。「屋根の上でケンカなんて、危ないだろう!」幾らか声量は絞られていた。


「ケンカじゃないぞー!」反対の腕の中からネコが反論する。

 クマは片手で彼女の首根っこをつまみ、ぶら下げた。「ケンカかどうかなんてどうでもいい! 場所を考えろと言っているんだ!」

 ネコが「みぃ~」と鳴いて大人しくなる。尻尾もシュンと垂れた。


「ごめんなさい」兄貴分に真正面から正論をぶつけられ、明海あけみは素直に謝る。それから、思いも口にした。「助けてくれて、ありがとう」

 と、クマは鼻を「ふん」と鳴らす。「わかれば良いんだ」そんな一言の後、彼はイヌとネコを地面に降ろした。


 ネコがすぐさま距離を取る。

 振り返り、声を張った。「イヌ! 今回は、アタシの負けじゃないからな!」

 明海あけみは耳を疑う。「いや、僕の勝ちだろう! タッチしたもん!」

「そーだ、そーだ!」「にーちゃんの勝ち!」目撃者であるオコジョたちも加勢した。


 が、ネコは強情に首を横に振る。「アタシは足を滑らした! 事故だ! 実力じゃない! だから『なし』!」

 そんなバカな!

「『なし』じゃない!」

「なんだ、イヌのクセに! やるかー!」


「お前ら、反省しているのか!」雷のような声が落ちてきた。

 ゲンコツまで降ってきそうな空気に圧される形で口ゲンカは終了する。


 一秒ほどの沈黙の後、

「クマは、なんでここに来たんだ!」ネコは尻尾を振りながら見境なしに感情をぶつけた。すっかりご機嫌斜めである。

 対して、クマは何かしらの感情を体から排除するようなため息を挟んで答えた。「『裏で鬼ごっこするから来い』って誘ってきたのはお前だろう。部活が終わったから、来たんだよ」


 明海あけみは「そう言えば」と思い出す。学校でネコはクマとチーターを誘っていた。二人が放課後に部活があるのを知ったのはその時のことだ。

 そこでクマが後方へ振り返る。「お前らがどこにいるのかわからなかったけど、芽唯めいが探してくれたんだ」


 彼の向いた先――「裏」の寂れた路地に、背の高いチーターと、その腰ほどの身長の小柄な少女がいた。

 アルビノのつぶらな瞳は怖々と一行を見上げ、小さな手は片方を桃色のブラウスを着た胸に置き、もう片方の手は不安を押し殺すように赤のスカートの裾をにぎっている。そして、黒に赤みがかった髪からはフワフワの毛に覆われた耳介が伸びていた。

 小角こかど 芽唯めい。ト形目ウサギ科の動物人アニマンであり、親と共に「裏」に住む子供である。


「ウサギだ!」

「全っ然、気づかなかった!」

「お前、いつの間に来たんだよ!」

 キツネ、カワウソ、タヌキが口ぐちに言う。


「ク、クマと一緒に、来たの……」芽唯めいはビクビクしながらか細い声で答えた。「お兄ちゃんたちを探してほしいって、言われたから……声が聞こえる方向に、案内したの」

 彼女は怖がりで、誰に対してもオドオドした態度を取る。無論、「裏」の子供たちはウサギが来たことに腹を立てている訳ではないが、声が大きく言葉遣いも乱暴であるため当たりが強く見えがちだった。


「ウサギの耳はすげぇもんな! イヌのにーちゃんより遠くの音も聞こえるんだろ!」とオコジョ。

 その隣でモモンガがうなずく。先ほどの墜落が相当痛かったのか、「半べそ」をかきながらティッシュで顔を拭いていた。


 それはさて置き、思いがけず話題に挙げられた明海あけみは耳を立てる。「僕だって、遠くの音ぐらい聞こえるよ!」

 負けん気から言っておいた。言ってはおいたが、動物のイヌの可聴範囲が20~30メートルであるのに対し、ウサギのそれは数キロメートルにおよぶとされている。もちろん、実際に音を手掛かりに他者を探す際は音の周波数や振動の吸収体の有無も因子になるが、単純に耳の形状による集音効果を比べた場合、イヌに勝ち目はないのだ。


 心の中で悔しさをかみ締めたところで、気を取り直す。

 明海あけみは「恩人」に歩み寄った。

「でも、芽唯めいのおかげで助かったよ。クマを連れてきてくれて、ありがとう」

 ウサギはか弱くはかないたたずまいでも、動物人アニマンとして優れた能力を宿した頼れる友達だ。小さな頭をなでてやる。


「……うん」

 うつむいた女子は、消え入りそうな返事とは裏腹に、朱に染めた頬を緩ませて幸せそうだった。内気なウサギは自身で明言こそしていないが、頭をなでられるのが好きなのだ。

 つまり、頭をなでてやることは、イヌとしての洞察力にもとづいたウサギへの最良の恩返しである。


「お兄ちゃんたちは……その、大丈夫なの?」ふと芽唯めいが尋ねた。

「大丈夫って?」

「声をたどってる時……『うおおぉ!』って、すごく恐い声が聞こえたから……」眉をハの字にしたウサギがネコへ体を向ける。「お姉ちゃんも……変な声、出してたよね?」


「う……」明海あけみは適切な返しを見つけられなかった。

「き、聞き間違いだぞ! アタシは、変な声なんか出さないぞ!」ネコも無理のある否定をする。

 ただ、イヌとネコの気持ちは同じだ――プライドを賭けた「鬼ごっこ」の末に屋根から転落したなどと格好悪い事実を正直に言う訳にはいかなかった。


「え、えっと」ネコは目を皿のようにして、その場にいる一人ひとりの顔を順々に見る。

 ウサギ、チーター、クマ、イヌ、次いでキツネに差し掛かると、

「お、お前らぁ!」急にネコが叫んだ。

 イヌは耳を塞ぐ。


「アタシを捕まえられなかったんだ! 負けたんだから、大人しくお耳をハムハムさせろ!」

 ネコはまた突飛な意見を言い出した。

「え! 何それ!」矛先となったキツネが耳を隠してオコジョを見る。「そんな約束、聞いてないぞ!」

 オコジョは全力で首を横に振った。「いや、そんな約束してないよ! ねーちゃんが今、勝手に付け足したんだ!」


「ネコ! だから、僕の勝ちって言ってるだろう!」イヌも重ねて反ばくする。

「うるさい! うるさい、うるさーい!」

 ネコは顔を真っ赤にしてワガママを貫く姿勢を崩さない。

 「とにかく話題を変えたい」という意図はわかるが、よりにもよってこちらが譲れないことを言い出すとは……。


「おい、お前ら!」

 ほら、またクマが怒るぞ……。

「うるさいッチ!」


 チ? 果たして指摘したのは、クマの低い声ではなく甲高いものだった。

 明海あけみは、釣り上げられる形で声の方へ顔を向ける。


 見上げた先は、自分とネコが「戦い」を繰り広げた屋根の下――そこにある窓が開け放たれ、その部屋の主が顔をのぞかせていた。

「今、何時だと思ってる! 近所迷惑も甚だしいッチ!」


 怒り心頭に発するその人物は、他ならぬネズミである。

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