2-2 イヌの現実
「キャイン!」
耳元で「チュ」というウシ先生らしからぬ声が聞こえた瞬間、
上体を起こし、痛みが走った箇所である右側のイヌ耳を片手で押さえる。
周囲を見回せば、自室のベッド。
隣には、
「ん~」
幸せそうな寝顔のネズミ。
どうやら自分は、この侵入者にベッドも布団も奪われた挙げ句、耳をかまれたらしい。
異常な事象が同時発生しており混乱するが、とにかく、まずは、
「ねぇ、ネズミ、起きて! ねぇ!」侵入者の体を揺すった。
自分は昨夜、いつも通り一人で寝たはずだ。なのに、どうしてこんなことになっているのか。
半開きの口からのぞく前歯をコンコンとつついてみると、事情を知っているに違いない唯一の
「んあ……ふあぁ」ネズミは大きなあくびをし、丸い耳を動かした。とても気持ち良さそうで、憎たらしい。「イヌ、やっと起きたのか。チュ~」片手で目元をこすると、少しはだけた布団を再び首元まで引き上げ、ヌクヌクと身じろぎした。
「『起きたのか』は、こっちのセリフ!」
「んあぁ!
「ここ、僕の部屋だぞ! 布団も僕の! って言うか、どうやって入ったの!? あと、耳かじっただろう!」
黄色のロングティーシャツ姿をさらした少女は「チュ~」としょぼくれた声で鳴くと、渋々と身を起こした。「イッペンに色々と聞き過ぎだッチィ」
「色々とおかしいんだから、仕方ないだろ! どうして、ここにいるのさ!」
「そりゃ、お前が……」言いかけた少女は「ふあぁ」とわざとらしいあくびを挟む。「クッキーもらいに来たんだッチ」
「クッキー?」
「前に、『裏』に来た時の帰りに、くれたろう。アレ、美味しかったから、オイラ、また欲しくなったんだッチ。
でも、お前、全然『裏』に来なくなっちゃっただろう? だから、もらいに来たッチ!」
「あぁ……あぁ、そういうこと」
合点がいった。
先週、放課後に「裏」へツバメの話を聞きに行った帰り道、ネズミにお菓子をせがまれた。その時は持ち合わせがなかったため、仕方なくこの自宅まで案内し、棚に残っていたクッキーを一つあげたのだ。
自宅へ招いたのは、その時が初めてだった。その後は「裏」へ行っていない。
「玄関には鍵を掛けてたんだけど」
「家屋への侵入は野ネズミの専売特許だッチ!」
「どうやって入ったの?」
「秘密だッチ! チチィ!」
ネズミは誇らしげに前歯を見せる。
そんなバカな。窓? 天井? 家の場所を教えるべきではなかった。
「けど、なんで、ここで寝てたの? クッキー盗んで帰ったら、バレなかったじゃん」
「盗みは駄目だッチ! 『裏』の住民でも、やっちゃいけないことだッチ!」
「住居侵入も駄目だよ!」
「それは、まぁ、お前が許せば済むことだッチ」
「そういうもんじゃない気がするけど……」
「そういうもんだッチ! 部屋は狭いし荷物もないのに、文句だけは多い奴だな!」
「えぇ……」
ネズミの言う通り、部屋は狭い。ベッドから四歩も歩けば棚の前だ。
「サンキュ~」少女は早速袋を開け、カリカリと前歯で小さく削るようにしてクッキーを口に含む。モグモグと頬張ると、とろけた顔をした。「絶品だッチ~」
そんなに? ネコみたいに大げさな反応だ。
そんなことより、まだ答えてもらっていない質問があった。
「んあ? んん……」ネズミは、今度は考えるような間を置く。カリカリとクッキーを食べ、そしゃくし、えん下して、やっと言葉を発した。「起こすのも悪いかなって。起きるの待ってたら、ウトウトしてしまったッチ」
布団まで奪うのはウトウトなどではない点は、もう無視した。
「朝は起きられんッチ! 昼や夕方に来て、お前が出掛けてたらどうするッチ! それに、そこまで待ってられないッチ!」
筋が通っているようで通っていない気がする。
「そんなに欲しいなら、自分で買いなよ」
「お前からもらうのが良いんだチュー!」
「ひどい!」
「それに、お前が元気かどうかも」ネズミはまた言葉を切った。「いや、話し相手になってやろうと思ってな」
またしても、言っていることがどこか支離滅裂だ。どこまでが本当でどこからがウソかもわからない。正直、話していて疲れる。
「っ……」
息をのむ音が聞こえたきり、ネズミの口が止まる。「なんだとー! チチィ!」とか言うと思ったのに。
意地悪な返事だっただろうかと思うと、心が痛んだ。そもそも勝手に侵入した相手が悪いのだが。
と、
「そ、そう怒るなって!」ネズミは急に大きな声を出す。
「あ、ごめん!」相手はすぐに謝り、片手を口元に運ぶ。
本当に申し訳なさそうな顔をしている。自己中心的な行動をする割に、その反応は意外だ。
「まぁ、なんだ、甘い物でも食べて、機嫌を直すが良いッチ!」
ネズミはティーシャツを捲り、下に履いている紺色のハーフパンツのポケットから小さな袋を取り出す。
差し出された透明フィルムの中身は、青、黄、紫など色とりどりの金平糖だ。
「え」
「ひ、一つだけな!」相手はソッポを向いて答えた。「こ、こっちも、金平糖が余ってたから、やるッチ!」
お菓子が欲しくて、もらいに来たのに? 侵入してベッドを使うような奴が?
本当の目的は、何だ? 何か別の企みでもあるのか?
それにこの金平糖、未開封だ。余り物ではないぞ。
素直に喜んで良いのだろうか……。
思考を巡らせ、あまりに怪しい「裏」の住民をジッと見詰める。
しびれを切らしたのか、紅潮した横顔がこちらへ戻ってきた。
「か、勘違いするなよ! こんなマズい物、お前にお似合いってことだッチ! その、なんだ、実はこれ、拾ったもんだッチ! お前、うるさいから、こんな物を食べて、腹でも壊して大人しくなれッチ!」
「ええ! なんだよ、それ!」
ちょっと良い奴だと思ったのに!
しかし賞味期限は超えていないし袋が破れている様子もなかったため、一つもらうことにした。
落とし主には悪いが、美味しくいただいた。
ネズミも口の中で金平糖を転がして、頬を緩ませている。
マズいと言っていたのに、よくわからない奴だ。
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