第五話 イシュタル神殿

 巨大な石造りの城壁に囲まれた王宮は、この国の権力の中心地だ。


 そのすぐそばには、一際高くそびえるイシュタル神殿の姿があった。


 神殿は日干しレンガを幾重にも積み上げて造られており、下から順に、少しずつ幅が狭くなっていく階段状の形をしている。


 足元の石段は神殿の正面へと真っすぐ伸びていた。


 ナブリアは、石段の脇に設置された小さな泉に歩み寄った。透き通った水面に、自分の姿が映る。静かに手を合わせると、こう唱えた。


「身を清め、心を浄化したまえ」


 祈りをささげた後、ナブリアは木でできた手おけに柄杓ひしゃくで水をすくい、静かに口をすすいだ。冷たい水が喉を通り、全身に清涼感が広がっていく。


 ラビアも続いて泉に近づき、同じように祈りをささげ、身を清めた。


「イシュタルの祝福に感謝します」


 ナブリアとラビアは、最後にそっと手を合わせた。


 ナブリアは石段に足をゆっくりと踏み出した。ラビアもあとに続く。


 石段の両脇には、色鮮やかな花々が咲き誇っている。


「ねえナブリア。ナムタル様ってかっこいいわよね」


「ええ、お兄様はすごいのよ。お父様の跡を継ぐんだって」


 石段を登りきると、ナブリアの目の前に神殿の入り口が姿を現した。


 入り口を飾るのは、堂々たる両開きの木製扉だ。扉の表面を見れば、イシュタルの神話をモチーフにした繊細な彫刻が、職人の卓越した技術を物語っていた。


 扉口の両脇には、青銅製の獅子ししの像が、威厳を持ってそびえ立つ。扉口の上部は、アーチ型に湾曲した美しい曲線を描いている。さらに明けの明星のレリーフが配され、荘厳さを添えていた。


「アイルム様も素晴らしい方だわ。いつも穏やかに人々に接していらっしゃる」


「お父様はイシュタルの最高神官なんだって。いつだってウルクのために、身をにして働いているの」


 ナブリアは、神殿内部へ足を踏み入れた。目に飛び込んできたのは、日干しレンガで造られた壁面だ。壁一面に、まるで朝焼けを思わせる濃淡のグラデーションが広がっている。


 そして壁の隅々にまでイシュタルの象徴である明けの明星と獅子ししの彫刻が丹念に刻まれていた。日干しレンガ特有の素朴な質感と絶妙に調和している。


 床のあちこちで、ひざまずいて祈りをささげる人々の姿がある。ナブリアの耳に、さまざまな祈りの声が届く。ときおり混じるすすり泣く声は、どこか切なげだ。


 広場にそびえ立つのは、イシュタルの壮麗な石像だった。ナブリアの身長の二倍はあるだろう巨大な像は、日干しレンガで築かれた神殿の壁とは対照的に、純白の輝きを放っていた。


 石像の周りには、花が途切れることがない。訪れた人々が、女神への感謝と祈りの思いを込めて手向たむけるのだ。愛らしいスミレやチューリップのブーケ、純白のユリの花束、小さな子供の手でつまれたカラフルな花々――辺りには、ハッカの涼やかな香りが漂っている。


 そのとき、ふいに聞き慣れた声がした。


「ナブリア、ラビア、そこにいたのか」


 そこにはナムタルのりりしい姿があった。


 額には銀の髪飾りが輝き、真新しい白いローブが美しくきらめいている。


 ナムタルは安堵あんどの表情を浮かべながら、そっと二人に歩み寄った。


「心配していたんだ。でも、無事でよかった。かの魔物の件は聞き及んでいる。ナブリア、ラビア。お前たちの勇気ある行動を、イシュタルもきっと喜んでおられるはずだ」


 ナブリアの胸に、温かいものがこみ上げてきた。きっと女神イシュタルも、あの戦いを見守っていてくださったのだ。そう思うと、自然と顔がほころんだ。


 ナムタルは、そっとナブリアの頭に手を乗せて、慈しみ深く微笑んだ。


 その手の温もりに、ナブリアは思わず頬を赤らめてしまった。


「ラビア、これからもナブリアの良き友であり続けてほしい」


 ラビアは、その言葉に恥じらいながら深くうなずいた。


「さあ、奥へ参ろう。お父様は、お前たちの無事を誰よりも心配しておられた」


 ナムタルに優しく背中を押され、ナブリアは神殿の奥へと導かれる。


 神殿の奥で、ナブリアの目に飛び込んできたのは荘厳な祭壇の姿だった。ゆらめくろうそくの炎が、神秘的な雰囲気を醸し出している。そこで祈りをささげる神官たちの姿に、畏敬の念を抱かずにはいられない。


 そして、凛然りんぜんとたたずむ一人の背中を見つけたとき、ナブリアの鼓動は高鳴った。


 輝く金の額当て、威厳に満ちたたたずまい。日に焼けたたくましい体格は、今も健在だ。ナブリアは自然と背筋を伸ばした。


 ふいに振り返り、こはく色の瞳でナブリアを見つめる。その眼差しは、優しく温かい。


「ナブリア、よくぞ無事で戻ってきてくれた」


 頭に乗せられた父の大きな手に、ナブリアは込み上げる涙を抑えきれなかった。

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