8
八
朝起きたらとても寒くて、びっくりして布団でまるくなった。
誰かと一緒に寝るなんて大学生になってからはお泊まりとか、そういうのはよくよく思い出せばしてないなとか。ご飯とかくらいは全然、食べてもらったりして冬子さん語でいうなら「被験体」になってもらったのに。
靴も消えていて、冬子さんがここにいたのは幻なんじゃないかと私は錯覚していた。
確かに私と冬子さんはここで、ちょっと一緒に生活していたはずなのに。あったはずの冬子さんの物が全部なくなってしまっていた。
初めて会ったあのときから貴女はずっと笑みをたたえていて、穏やかで落ち着いていた。私の知らない話を教えてくれて、好きな物語の話になったら饒舌になって。
嫌われるようなことをこの一週間でしちゃったのかな。早起きして出ていくような事を。
リーネでどうしたのか聞けばすぐなのになんだか、なぜか聞くことが出来なかった。
どうしようかを考えて、後回しにしてたら二月の中旬になっていた。
すみそまの新刊はきっとおそらく出ているだろうなって思って、冬子さんとのやりとりを思い出してしまう。
どこで買おうなんてそれはもう、本屋さんだけど。
──あの本屋しかきっとないんだろうけど。
ちょっとずつ考えて分かったのは、冬子さんはとても思慮深くて、美味しいものが好きで、照れ屋さんでちゃんとしてて。
穏やかな生活にきっと憧れてて。ちょっとでも私は貢献……できたのかな?
「──おはようございます!」
また今日の私の日常が始まる。
始まれば冬子さんはいなくなるのが、いまは楽だった。
でも“全賭けスピリットベアー”の遠方から獣人の女の子が訪れた時みたく、あれは非日常だったんだなと思い知らされてしまうのが、ちょっと嫌だった。
まきのんがそろそろリーネで『すみそまどーだった今巻!』とか聞いてきそうだから、はやく買いに行かないとなって思う。詳しく聞いてくることは無いんだけど、アルシェピースをまた読みに来るときとかでバレちゃうし下手なウソはつかないほうがいいから。
冬子さんがいないといいな、気まずいから。
いややっぱ、いてほしいかな。
本屋さんまでくるとコミックスのある所まで、エレベーターで昇った。すみそまの新刊はちゃんと新刊の棚に表紙で置いてあって、バレンタインの特典らしきものもランダムでいっしょに入ってる、みたいなことが近くのPOPに書いてあった。
熱心なファンはだから大変なのかなって思ってつい、笑みがこぼれた。
それでつい姿を探してみるけれど、いなくて。
教えてもらったたむろの場所に行くと、ふわふわとした髪をまるで、垂れた犬の尻尾みたいに束ねた男の店員……園家さんがいた。同じパソコンを覗き込んでる眼鏡の人もいた。
「あの……」
「……ん? どうしましたか?」
「山上さんって今日いらっしゃいますか?」
「山上さんならお休み中ですよ。有給いっぱい溜まってたって言って消化してるみたいです」
「あっそうなんですか……! お仕事中しつれいしました」
「いえいえ。人手足りないってもし会ったら言っといてください」
「人手じゃなくて?」
「いやいやそういうからかい方はねぇ、よくないよメガネくんそもそもねえ」
「メガネ……」
冬子さんなら、そのまま誰にも言わないで居なくなってしまいそうだ。
ああこれが解釈とかそういう風なのかな。だってポミエちゃんならどんなに時間がない出立でも「お世話になりました」とかって紙に、残していきそうだから。
仕事を上がってしばらく待てば、丁度冬子さんの夜の勤務時間も終わって一緒に帰れる時間だから、せめて姿だけ見たいとか思って帰る時に何回か足を止めても、立ち寄ってみてもやっぱり冬子さんはいなかった。
====
「そういえば山上さんが懐かれたって言ってた子、この間来てましたよ」
「そうですか」
久々に会った園家さんは相変わらず儚さ全開だった。申し訳ないので休憩室に置いておいたお菓子をいっぱい食べて元気になってほしい。
すっかりと街がハートマークに埋め尽くされる日も過ぎて月末がきてしまった。
派手な有給消化でしたことといえば、積んでいた本の消化と好きな作品たちの読み直し。
とてもタメになるような、知識欲を満たす歴史の本だったり青空文庫だったり。
それとアルシェピースの読み返しだったり──今の自分の心をエグってくるような友情の物語とかも、少々。新規開拓で読み漁ったりもした。
決断をするということは、迷うだけの何かしら切り捨てて進むということ。
迷いなんてものは一つしかなく、ここ何週間かで突き放してもまだ迫ってくる。
まるで溶け残る春の、汚れて黒くなってしまった雪みたいに。
このままフェードアウトだっていくらでも可能なのに連絡先は消せずにいた。リーネを開けば出てくる沢山のやりとりが邪魔をした。先延ばしにすればするほど、この画面に浮かんでいるその日の日付が遠くなっていって、過去になって連絡をどんどん取りづらくなるのにね。
自分には連絡される価値も無い。だから連絡する意味なんてない。
作家でもないのに死を、そんな風に捉えてしまうような人間はきっとちょっとどうかしてると思われるはずだ。
それに現実でもそう当てはめてしまいそうで怖い。
現に私は千本木さんのことをそんな風に見ているような気がするのだ。知らないところへと踏み出す勇気……なんて言い方は似合わない。
道連れ《みちづれ》だよ道連れ。
人による個体差によるという事なんだろうと思うが、なら自分はそうと言える自信は無い。
「連絡とってないんすか?」
「いやとくにリーネには来てないですよ」
「そーですか。いやなんかグラウンドに迷い込んだ犬みたいにしょんぼりした感じでしたよぉ」
「あー……ありがとうございます」
うわ絶対可愛いけど可哀そうだ。クラスの人ら全校生徒窓から見ちゃうやつだ……。
こういうユーモアが私には足りない。
「ま、
「考えときます」
クソ真面目なら、縁切るなら切るでさっさと決めればいいのに。無駄に千本木さんの前で姿を作った私は一体、どこに行ったのだろう?
生息域は一緒だから、最後にもう少しだけ頑張るべきなのだろう。
『本日夜の勤務終わり次第ベンチ』
もし今日千本木さんが仕事でなかったら迷惑をかけてしまう。いやそうでなくても。
結局自分の事しか考えてないじゃないか。来なくていいよ。
来なくていいんだよ。
====
もうすっかりとイルミネーションが取っ払われた夜の街は、洋風の街灯がお洒落にカールした頭に雪を乗せて街を照らしている。
身を切るような寒さの中で、山上はつとつと早足で、心臓にいやな汗をかきながら指定した場所へと向かった。
「ふゆ……山上さん。嫌われたかと思いました」
「そんな事ないですから。……話があるだけです」
ベンチに座って、待っていてくれていた千本木の顔は寒そうな色をしていたので、申し訳なくて目を逸らした。
仕事終わりがいつだったのかはたまた、家から出てきてくれたのか。聞くと後悔しそうなので山上は何も聞かないで、風邪をひく前にさっさと本題に移るべきだと判断した。
「千本木さん。貴女が、眩しいって思ってました。初めて見た時からこういうのが綺麗な人なんだなって思ってだから、私はいつからか貴女に焦がされて、燃やされちゃうと思った」
千本木が憧れていたのかもしれない、上辺だけの冷静さを保つのに丁度いい寒さだった。
合わせられなかった目を山上はしっかりと上げていく。
駆け抜けていったような三ヶ月。密度としてはスポンジのように空気まみれで、荒いものなのやもしれなかった。けれど社会人の山上からすればそれは当たり前くらいのことで、勧めていった本の手助けが大きくて、自分達のことを深くまで知る前に、もっと傷つく前に離れようとした。
いまはだから、終わらせるために来たのだ。
綺麗に断られて、全てが終わっていくために。
「それが嫌だったので。私あなたのこと放っといたんですよ、自分勝手でしょう」
ベンチに座っていた彼女は、山上のことを見上げてきた。
まだ伝えることがある。
これからは赤の他人ということ。自分はよくない人間なのできらきらまぶしい貴方といると、こちらが潰れて駄目なやつだと認知せざるをえないから私はあなたが、大嫌いですということ。
口をぴったり閉ざして山上は舌先を歯で刺激して、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出していく。ざりざりとした鈍い痛みが止めてはいけない勢いをどうにか落とさないようにするが、心臓はまだぞわぞわしたままだった。
「…………冬子さん」
急にすくっと立ち上がった千本木に、山上の身体が包まれた。
雪のおくるみを着たようにして、ひんやりと冷えていたはずのものが、触れた面から熱くなってくる。
少しだけ彼女より背丈が大きな女の子は、何故だか涙を流してている。
「私わけわかんないんですよ。きっとまきのんとかみゃーこがいなくなってもこんなことにならないって言えるのに……、ひどいことしたかなとか考えてでも、嫌われてなくてほんとによかったと思ってて……」
涙が流れる位に熱くて痛いのだろう千本木の目頭を、山上はハンカチで拭った。
鼻もほっぺも赤くして綺麗な顔が、可哀そうなくらいに痛々しいというのに涙はきらめいて、堂々として山上のことを見つめていた。包んでいた腕は二の腕のあたりに来て、距離は少し遠くなったのにずっと近くてあけすけとしているようだ。
「冬子さん、朝ごはんまだ最後の食べてないですよね」
「それに関しては……本当に申し訳ないと思っています」
「いいんです。ね、今日泊まりに来ませんか」
「いや、です……」
「私も冬子さんがいなくて焦がれてたんですよ」
「……おかしいですよそんなの、どうかしてる」
「してないです、きっと、大丈夫です」
「私はそんないい人間じゃないですよ、千本木さんみたいなきらきらな人がまぶしすぎる。だから離れたかったんです」
「私は、そうは思ってないから言ってるんです。じゃなきゃ今呼び出しもしない、はずでしょうきっと。
だめですか冬子さん。私と一緒にいてくれないんですか、もっと私のごはん食べたくないですか!」
「ご飯で釣らないでくれませんか……?」
「もうこれくらいしか私には無いです……!」
「…………」
言葉が出なくなった。千本木にはいろんな沢山のいい所があると、具体的にあの言ってきた感想みたく言えたら、どれだけいいだろうかと思うが詰まった。夢に好きな物にまっすぐな姿とかきれいなお顔とか、人の勧めた物をちゃんと読んでくれたどころかハマってしまった所とか、ちょっと露呈したポンコツっぽい所とか。
彼女が抱いたままの憧れでいてあげようと、思っていたところが形無しになりそうなものが自分から飛び出してきそうで。多分それはまだ一緒にいたいから言えないという姿に気付くと、山上はため息を吐いた。
拭い終わって胸元にあったハンカチを握る手をポケットに突っ込んだ。
「……釣られたんじゃなくて。違いますから」
「!」
「もうちょっとだけ、一緒にいてあげますから」
「ほんとですか……!」
──もうちょっとだけ。それを信じるならどうすれば、もうちょっとじゃなくなるんだろう。
──あなたは素敵だってことを伝えなくちゃいけないから。あと少しだけ。
ちみりちみりと雪が降っている。
降って、雪はふたりに染み込んでいく。
もこもこに着込んでいる山上のことを千本木はおもいっきり抱きしめた。
綺麗なものと死にたい ゆうはい @yuhai_sida
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