【短編】電脳世界(ここ)であなたを創り出す

ぺぐまがん

あなたのいない電脳世界

世界滅亡が間近に迫り、人類は社会学者、地球科学者、有機化学者、工学者、宗教家、そして無数のエンジニアによるチームを結成し、有機物の世界から解脱した世界を創り出すことに成功した。こう言うと聞こえは良いが、要はコンピュータの世界に人間の意識を避難させ、生まれ育った地球のことなどは忘れてしまおうという、なんとも浅はかな人類脱出計画だ。今この瞬間、私の意識は電子の地面、電子の土を踏み歩いており、元の世界の本物の土──今頃は太陽の熱で焼かれているだろうか──の上を歩いた感覚など、とうに思い出せなくなっている。

私はその計画に起用されたエンジニアのはしくれだった。私達の作ったこの世界には、元の地球の人口を許容するだけのキャパシティが備わっている。とはいえ、人類の約半数は地球で死に、もう半数はコンピュータへの意識転移に失敗して死んだため、もはやこの世界はがらんどうとなってしまった。転移に成功した者たちには、一足先に転移していたエンジニアたちの失敗を咎める気力など残されていなかった。まだ、この世界には予期せぬバグがいくつも隠されていたにもかかわらず、である。結局、私以外の人間は程なくしてこの電子の世界で自己を保てなくなり消滅していった。その一人が私の夫だ。

人類を迎え入れるはずだったこの方舟は、私にとって広すぎた。誰かの存在が必要だった。夫を蘇らせようと決意したのは、そんなところからだ。



普段拠点として寝泊まりしている場所から少し出向いた先に、人だったものの体や記憶、その人だった全ての要素のデータが塵となり、降り積もった場所がある。さながら砂塵の吹きすさぶ砂漠だろうか。そこで私は毎日、誰とも知らぬ塵、夫かもしれない塵を掻き集めて、夫のコードを形成していくのだ。

最初は、夫の顔を作ろうとした。目線は鋭かったような気がする。いや、私に向ける眼差しだけは優しかったか。鼻の形は?……そうだ、私は夫の鼻を好きだったはず。鼻筋がよく通っていて、鼻先は上を向き、いいや、下か?唇はどうだったか。ある時ハッとして、自分の手を見つめる。彼の唇を撫でる手の感覚が思い出せなくなっていることに気がついたのは、その時だった。この電脳空間に長く居すぎたせいか、彼の顔が分からなくなっていたのだ。それでも毎日土を捏ねていたが、ついに夫の顔は完成しなかった。


彼とのキスの味。夫の肩に顔を埋めた時の匂い。お互いを確かめ合うようにいつまでもハグをしていた記憶。体の感覚を頼りに土を練り続けた。いつか、彼の姿そのものを思い出せることを願っていたのだが、そんな直接的な感覚すらも忘れていく一方だった。ああ、彼と私の立場が逆転したら、彼もこうして私を求めてくれるのだろうか。

彼の言葉が思い出せない。彼と暮らした日々が思い出せない。私が仕事に行く時にいつも見送ってくれた、彼の表情が思い出せない。彼と暮らした家のベッドで目覚めた時の、陽光の暖かさが思い出せない。彼の名前が思い出せない。何か足りない。何もかも違う。彼が思い出せない。日が経つにつれて、だんだんと。



かつてのエンジニアたちのおかげで、この電脳空間にも、朝夕や四季は存在した。機械的な夜が来て、機械的な朝を迎える。今日も、コードがむき出しのベッドで、C++の特徴がそのままの天井を見上げて目が覚めた。この空間における一番の失敗は、優秀なデザイナーを起用しなかったことかもしれない。地球ではありえないこの場所のこの光景に、嫌でも夫のいない現実を突きつけられる。

私は夫に会いたい一心で、彼のプログラムを書き続けた。塵は形を変え、人の形となる。あるいは、人の形とならないものも。彼の失敗作は、空腹を満たすため、あるいは口寂しさを紛らわせるために食った。自分が完全に正気ではないことを自覚しつつも、行き場のない衝動をぶつけるように、夫の断片を口へと運んだ。目鼻の形の違う夫。髪の色の違う夫。私の名前を呼んでくれない夫。何が違うとも、もはや分からない夫。すべて片端から食い尽くしてやった。彼の痕跡すら残されていないこの方舟の中で、彼と1つになりたくて、その指に、頬に、肩に、腕にかじりついた。 味のない塊を嚥下する度に、夫との記憶が蘇った気がした。それも、次の朝には忘れていた。




ある朝のこと。彼のことを考えるのに必死で、いつの間にか、自分の名前も分からなくなっていることに気が付いた。消えていった者たちも、こうして自分を保てなくなっていったのだろうか。「自然に還る」などと死を言い表すことがあるが、自他の境が分からなくなり、自分が溶け出すように消えていくこともまた死なのだろう。私にも死期が迫っている。そう思うと、砂をこねる気も起きなかったが、足だけはいつのもようにあの死者の砂漠へと向かっていった。

あの上空を黒く舞う砂塵の中には、罪を犯した恋人が囚われているのだろう──昔の文学作品になぞらえて、ふと、そんな事を考えたからだろうか。それとも、死期を悟って、目線が空に向いていたからだろうか。普段塵を捏ねている時には気が付かなかったが、上空にある砂塵のテクスチャーの隙間から、大きなデータの塊、それも見覚えのある診断プログラムが覗いているのを発見した。それはかつての脱出計画の際に使われたもので、コンピュータに意識を転送する際、個人の戸籍や容姿、思考や意思決定のパターンなどをすべて記録し、転送後にデータの取り違えがないかを診断することができる(因みに、転送後に取り違えが発覚してもどうすることもできず、死ぬ)。このプログラムが残っているということは、彼が転送されてきた際の、彼自身のデータも残っているのかもしれない。もしかしたらそこから、彼を復元できるのでは……一筋の希望が私の心を照らした。





なんとか診断プログラムを家へと持ち帰り、ファイルを解凍して中身を開く。人類滅亡間際に急ごしらえで作られた、簡素なUIのフレームが目の前に広がった。

「こんにちは。私は診断プログラム。電脳世界へようこそ」

簡素な挨拶ののち、そのプログラムは、ご用件はなんでしょう、とまるで私が意識転移直後の新しい住人であるかのように尋ねてきた。本当は管理者権限でデータを確認すればいいだけなのだが、パスワードを紛失してしまったのでそれも不可能だ。結局、自身のデータから夫への個人データへとアクセスするのが手っ取り早いと判断し、自分自身に診断プログラムを実施することにした。なにせ最近は私自身のことも判然としないのだ。自分のことが分かれば、彼のことも何か思い出せることがあるだろう。

「あなたの診断を開始します」

診断が開始されると、全身に緑色の光が照射され、気分を和らげるためのクラシック音楽が流れ始める。選曲がドヴォルザークの「新世界より」(ピアノアレンジ)なのは何かの冗談かと思ったが、重厚感のある曲調がこれから状況が好転する前ぶれにも思えて、不思議と心は軽かった。これからはただ前だけを見ることができる。無いはずの心臓が早く脈打ち、世界が走馬灯のように遅く感じられた。


しばらく経ち、診断が完了致しました、と機械が私の目を覚まさせた。横になった筈はなかったのだが、いつの間にか眠っていたらしい。プログラムは初め、以前住んでいた国、県、町の名前を始め、私と夫の住所をピタリと当てた。次に、出身地、生育歴、家族歴、学歴、現病歴などを言い連ねるのだが、まだ上手く頭が働かないようで、私は機械の言葉を上手く飲み込むことが出来なかった。その後の言葉に頭を殴られるとも知らずに。







「以上の結果から、あなたの性別は男性。お名前は────」


長い診断の末に機械が弾き出した私は何者か?という問いへの答えは、夫の名前だった。私が、夫…………ハッとして、自分の顔を触る。瞼から鼻、鼻から唇へとゆっくり指を伝わせた。覚えのある、懐かしい感覚と共に。ありえない。そんなはずはない。そう感じつつも、どこまでも沈んでいくような絶望が、はたまた希望が、私の体をつき動かすのが分かった。

診断プログラムを終わらせ、ここでの生活では不要だと思いしまい込んでいた鏡(現実世界と違い、鏡の演算は大変なので極力見ないようにしていた)を引っ張り出す。そこに映し出されたのは私の求めていた顔だった。そうだ、これが夫の顔。夫の髪。夫の腕。あの顔に会いたかった。あの髪にもう一度触れ、あの腕に手を回し、共に歩いていきたかった。長らく使っていなかった声帯を震わせ、言葉を紡ぎ出し、”この”顔に投げつけた。

「私を置いていくなんて」

ああ、声すらも私は彼になってしまった。できるなら私の声で、私の姿で、私の記憶で彼と会いたかったのに。



私は夫を作り続け、出来上がった失敗作を食い続けた。自分の中に、夫の要素を取り込み続けていた。そして、いつしか私は彼自身になっていた。私には何が足りなかったのか?今や、夫に足りないものは妻だった。

もはや彼自身となった私は、私を欲していたのだ。

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