第19話 辛さの無限ループ
「アイムさま、さあ、どうぞ召し上がれ」
カウンターから皿を受け取ってきた灯が、それをアイムの前に置いた。
円形の皿の上には、直接、黄色いターメリック・ライスが盛られていた。それは、御茶碗の中の米を皿の上でひっくり返したかのような、いわゆる〈丸盛り〉で、同じ皿の上には、盛られた黄色い玄米とほぼ同じ大きさの取っ手付きのコップのような丸型の器が置かれ、その容器の縁ぎりぎりにまで、アッつ熱の焦げ茶色の液体が注がれていた。
「汝よ、ワレはいったい何をどうすればよいのじゃ? 人の子の食べ物など食した事が無い故に、どのように食べたらよいのか皆目見当が付かぬのじゃが」
店内にいた他の客や店のスタッフが、アイムのその発言を耳にして、店の左奥に奇異な視線を送ってきているように灯には思えた。
「どう説明したらよいのかな? えっとですね……。その銀色の先が楕円形の道具、そうそれです。その銀の匙で食べる量を掬って、そのまま口の中に運び込むだけです」
「ふむ、汝よ、ここは、やって見せてくれぬか」
「えっ!」
食べるという行為は、あまりにも当たり前すぎて、それを他者に見せるように頼まれるとは、灯も流石に想定外であったようだ。
「わ、分かりました。それでは失礼をば」
未だ自分の注文した〈メン野菜〉が調理中だったので、灯は、アイムの前に置かれた皿の上に丸く盛られていた黄色い玄米の端っこを、自分の匙で僅かに掬って、それを食べて見せたのであった
「なるほど、理解したぞ。そのようにすればよいのだな。どれ、ワレも同じようにやってみようかの」
そして、銀の匙を握るや、アイムは、見よう見まねで、黄色いライスを口に運んでみたのだった。
「ふむ、このコクモツは、なんだか、硬くてパサパサしておるの」
「たしかに、その黄色いターメリック・ライスの米は白米じゃないですからね。説明書きにあるように、玄米なので、アイムさまがおっしゃるような触感なのはある程度仕方がないのです。
でも、カレーライスは、ライス単体ではなく、カレーと一緒に食べてこそ真価を発揮するのです」
「汝よ、カレーとは一体なんぞ?」
「その、ライスの脇に置かれている取っ手付きの容器に入った焦げ茶色の液体の事です」
「ふむ、どれどれ」
そう言ってアイムは、徐にスプーンをカップのような容器に入れるや、掬い上げた熱々のカレーを、口の奥の方にまで差し入れたのであった。
「ぐ、ぐわっ! なんじゃあこりゃああ! あ、熱いぞぉぉぉ~~~~。さらに、舌が痺れるぅぅぅ~~~! ひ、ひりつくぅぅぅ~~~! あと、なんか痛いっ!」
「それこそがまさに〈辛さ〉です」
このアイムの反応を見て、灯が思い出したのは、三年ほど前に知った次のような知識であった。
二〇二一年の十月に発表された『ノーベル医学・生理学賞」のテーマが、「人が熱や辛さを感じるセンサー」で、その当時、これと関連した記事を目にする機会が多々あった。
例えば、人はトウガラシを食べた際に〈辛さ〉を感じる。これは、トウガラシに含まれる〈カプサイシン〉によるものなのだが、この研究以前には、いったい、舌の細胞のどの部分がカプサイシンに反応しているのか判然としなかったらしい。
だが、研究の結果、人の細胞の表面には、〈カプサイシン〉に反応する〈カプサイシン受容体〉がある事が分かった。
しかも、この受容体は、辛さだけではなく、摂氏四十三度以上の高温に応じる事もまた判明したそうだ。つまり、一つの感覚センサーが〈辛さ〉と同時に〈熱さ〉にも反応する事の発見は実に画期的であったらしい。
たしかに、英語では、熱いも辛いも〈HOT〉と表現するのだが、これは、言葉の綾でも比喩でもなく、実は生理学的必然だったのである。
つまり、同じ感覚センサーが、辛さと熱さに反応する分けだから、冷めた辛い物よりも、熱い辛い物の方が、より辛く感じるのは当然なのだ。
そして、舌の奥深くにあるこの〈辛・熱〉センサーこそが「TRPV1(トリップ・ブイワン)」 なのである。
灯は、どこかで読んだ記憶があるのだが、そもそもの話、〈辛さ〉という感覚は、生物にとっては、食べてはいけない物に対する警告であるらしい。
それでは、何故に、人の中には、そんな危険な物を敢えて好んで食べ、美味しいと感じる者がいるのか、その理由がどうしても知りたくて、灯は様々な記事を貪り読んだのであった。
舌の奥深くにある〈三叉(さんさ)〉の表面にこそ、この辛みセンサーの〈TRPV1〉がある、という。そして、三叉にカプサイシンがくっつくと、情報が脳に伝わり、〈痛み〉として認識されるらしい。
つまり、辛さが痛みを伴うのは当然なのだ。
だから、とある研究者は、辛さは痛覚ではあるが味覚ではない、と語っていた。
??? それじゃ、辛い物が美味く感じるのは、どうしてなのだろうか?
実は、辛いという情報を〈痛み〉として受け取った脳は、肉体が損傷したものと認識し、その痛みの緩和の為に、快感をもたらす〈β-エンドルフィン〉という物質を分泌する。
そして、辛い物を食べ続けると、辛さへの耐性が付くだけではなく、〈辛い・痛い・快感〉という体験も繰り返され、やがて、脳が辛さを好ましい生理現象として認識するようにもなり、このように、辛さの経験を積み重ねこそが、人が辛い物が好きになる理由であるようだ。
さらに、である。
〈β-エンドルフィン〉は、油脂や甘味を含む物を食べた際にも分泌されるそうだ。
つまり、辛さが味ではないのは確かなのだが、〈味〉が付いた肉や魚と一緒に辛い物を食べる事によって、味の〈美味しさ〉と辛さの〈痛〉の掛け算で、快感物質である〈β-エンドルフィン〉のさらなる分泌が促進され、美味さの相乗効果が起こり得る、との事であった。
そして、カプサイシンの摂取は、辛さを痛みとして認識した脳に、快感成分である〈β-エンドルフィン〉を分泌させるだけではない。
内臓においては、消化管が刺激され食欲が増し、喉においては、〈嚥下反射〉が起こって、食べ物が飲み込み易くなる。
こう言ってよければ、辛い物とは、脳に快感を覚えさせ、食欲を促し、喉の通りをよくして、自体を次々に体内に運び込ませてゆく、という無限ループに摂取者を陥らせる、そんな悪魔の食べ物なのである。
「辛いっ! もう一匙!!」
突然叫びを上げた魔神は、天井を見上げながら、口から舌を飛び出させていたのであった。
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