第17話 富士見二丁目四番地のカレー専門店〈にのよん〉

 初めて覚えた空腹に堪え切れなくなったかのように、火の魔神アイムは、腹に両手を押し当てていた。

「アイムさま、そんなに腹ぺこならば、今からボクと一緒に〈飯〉でも食いに行きませんか? まさにこの〈飯〉田橋界隈で」

 ドヤ顔でそう言って、灯は、魔神を夕食に誘ったのであった。


 十月三十一日・木曜日に、昼食として、神保町の欧風カレー専門店〈グッディ〉でビーフカレーを食べた灯は、晩飯は、飯田橋・富士見の「東京のお伊勢さん」近くのカレー専門店にて〈ディナー限定〉のカレーを食べよう、と当初から企んでいた。

 そもそも、その店の夜営業の開始までの時間潰しの為にこそ、灯は、夕暮れ前の東京大神宮にいたのである。

 もっとも、魔人の召喚や結界の件で忙殺され、飯田橋界隈で文字通り右往左往しているうちに、夕食の事をすっかりと忘れてしまっていたのだが、大音量で鳴り響いた空腹を告げる腹の虫によって、灯は、大神宮すぐ側のカレー店の事を思い出したのであった。


 時刻は二十時半数分前、目当ての店のラスト・オーダーは二十時半なので、ここからなら、ワンチャン、まだ間に合うかもしれない。


 富士見二丁目四番地に鎮座している東京大神宮の出口からJRの飯田橋駅方面に向かって約百歩、この神社と同じ区画に縦に長い雑居ビルが在って、その二階で営業している飲食店こそが灯の目的地たるカレー専門店〈にのよん〉である。


 その建物の間口は広くはなく、ややもすると店の存在に気付かずに通り過ぎてしまいかねないのだが、「大神宮通り」に面した入り口に、店のイメージ・カラーである〈薄い黄色〉の看板が出ており、それが目を引くので、黄色を意識して歩いてさえいれば素通りせずに済むであろう。


 灯が階段のステップに足を掛けた時、ちょうど店から人が出て来たので、灯は、アイムを腕で制して、食事を済ませ建物を出んとする先客を先に降ろした。

 建物の入口から二階へと続く急な階段は、人一人が通れる程度の幅なので、上り下りの客がかち合った場合には譲り合わねばならないのである。


 しばし様子を見ていたのだが、他の客が出てきそうな気配が無かったので、一人と一柱は二階に上がる事にした。

 店の扉を開けると、右手側がテーブルエリアで席数は四、左手側がカウンター・キッチンで、こちら側の席数は二、つまり、〈にのよん〉は全部で六席のこじんまりとした規模の店で、カウンター内では、女性スタッフが独りで忙しそうに働いていた。


 すなわち、〈富士見二-四〉に位置する〈にのよん〉は、いわゆる〈ワンオペ〉の店で、通常は平日のランチ・タイムにしか営業していないのだが、灯は既に二度この店を訪れた事があった。

 〈にのよん〉では、期間限定で、例えば、〈カレー海老〉のような特別メニューを提供する事もあるのだが、デフォルトのメニューは、シンプルに〈カレー肉〉と〈カレー野菜〉の二種のみで、この二種の〈あいがけ〉も注文可能である。


 以前に、灯が昼に訪れた時は、最初が限定の〈カレー海老〉、二度目の時が〈カレー野菜〉を注文したのだが、この二度の昼来店の際に気になっていた事があった。


 富士見二丁目の〈にのよん〉は、原則、平日の〈昼のみ営業〉の店なのだが、実は、週の後半の木曜日と金曜日においてのみ、昼に加えて夜にも営業しているのだ。そして、木曜と金曜の夜には、ディナー〈限定〉の品が提供されており、灯は、そのうち機会を得て、この限定メニューを味わいたい、と考えていたのである。

 その限定品こそが〈麺カレー〉で、これも、デフォルト・メニュー同様に、〈メン野菜〉と〈メン肉〉の二種類のみである。


 灯は、普段の木曜と金曜はゼミが夕方にあって、ラスト・オーダーの時刻までに飯田橋に出る事ができなかったのだが、文化祭の前日の木曜日のゼミが、指導教員の学会参加の為に休講になったので、ようやく、夜に〈にのよん〉に来ること叶ったのである。


 〈にのよん〉はワンオペ店という事もあって、事前に注文と会計ををするシステムで、かつ、支払いは、最近急に増えてきた〈現金以外〉決済店であった。神保町で、古書購入のために現金の持ち合わせが無くなってしまった灯にとって、この現金不可が逆にありがたかった。

 実は、財布を忘れた時などの万が一の事態に備えて、毎月こつこつと積み立て、限度額いっぱいの〈十万〉円までアプリにチャージしておいた、そんな過度の慎重さがここで役に立ったのである。


「こんばんは。二人なのですが、未だ大丈夫ですか?」

「いらっしゃいませ。大丈夫ですよ」

 ラスト・オーダー一分前に到着した灯は、挨拶の後、即座に注文を告げた。

「ボクは、夜限定の〈メン野菜〉を、サービスの〈ライス〉付きで。で、いま、扉の前にいるボクのツレの注文は〈カレー野菜〉で、ライスをは〈大盛〉でお願いします」

 灯が、人間の食事が初体験となるアイムの注文も済ませた後、屈みながらアイムが扉を開けた。


「いらっ………………………………………………」

 店のスタッフは、店に入ってきた大柄な男の赤い頭に角が生えているのを見て、「いらっ」以降の言葉が継げぬまま、目を大きく見開き固まってしまったのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る