第12話 太陽よりも熱きもの、落陽よりも紅きもの
帰宅後、自分が発した〈古ラテン語〉の読みの正確さを確認し、今後のラテン語学習に役立てる為と考え、ICレコーダーの録音スイッチを押してから、灯はテクストの音読を始めた。
これは、フランス語やラテン語を音読する際に、担当講師から幾度となく指摘されてきた事なのだが、単語や文字の読み飛ばしのようなケアレス・ミスを避ける為の方法の一つは、〈指読み〉だそうだ。これは、指で読むべき文字をゆっくりと辿りながら、読み飛ばさないように注意しつつ読んでゆくやり方で、その指の動きこそが音読の適正速度だという。
かくして、スマホに表示されている時計アプリをチラ見しながら指読みをしていた灯が、一文字も読み飛ばす事なく、千文字の古ラテン語のテクストの最後の一音を読み終えたのは、ちょうど、太陽の上端が地平線の下に沈んだ〈十六時四十七分〉の事であった。
まさにその時――
灯は、突然、場の〈空気〉が一変したように感じた。
気付くと、それまで境内にいた参詣者が一人もいなくなっていた。まるで、灯を軸に結界が張られ、人払いが為されたような印象であった。
そして、それまで何も描かれていなかった境内の石畳の上に、突如、図が現われ始めたのだ。
まず最初に、石畳の中央部に大きな真円が描かれると、その内側に、もう一つの円が現れた。
それから、その内側の円の左側半分には、大文字の〈D〉を逆向きにしたような半円が出てきて、そこには、小さな白抜きの〈○〉が四つあった。そして、円の真ん中には、細長い〈D〉が出てきて、〈○〉は上下の先端部にあった。最後に、円の右側の三分の一には、算用数字の〈3〉を鏡映しにしたような〈ℇ〉、そうギリシア文字の〈エプシロン〉と、その右側に〈I〉が出てきて、この〈ℇI〉には四つの〈○〉があった。
それから、外円と内円の間の〈外堀〉のような部分、その二重の円における十二時の位置に〈A〉、四時の方向に〈I〉、八時の方向に〈M〉の文字が現われたのだった。
それは、まさにラテン語の古書に描かれ、つい先だって、灯がタブレット上でトレースした図形そのもので、こう言ってよければ、タブレットの中の図が現実空間に飛び出た、そう、〈AR(拡張現実)〉みたいな現象であった。
こうして、石畳の上で図が完成すると、描線が赤く輝き出し、その描線から焔が起ち上がった。
「幻覚ではないのか……」
風が運んで来た確かな熱を灯は頬で感じていた。
まるで〈紅蓮華〉だ。
灯がそう思った瞬間、地平線に沈んだ瞬間の太陽から放たれた、昼の最後の陽光が、上方の空を紅く染め上げ、一際強烈な太い光の筋が、赤い空を切り裂いた。
紅(く)れた世界に裂け目が入ったみたいだ。
こんな印象を灯が抱いた瞬間、その裂け目から放たれた強烈な緋色の光の筋が、目から〈内〉に入ってきて、灯は気を失ってしまった。
やがて、意識がはっきりし始めた灯の聴覚に重々しい男の声が届いてきた。
「疾く応えん。汝か? ワレを召喚せし者は?」
それから、鮮明さを取り戻した灯の視覚が、石畳の図形内に立つ美丈夫を捉えた。
視線を下げると、その男の足元には蛇がいて、その蛇の上に男は乗っていた。
「灼烈……」
男の髪は、その右手に握っている剣から立ち上がっている炎と同じ紅色で、燃え立つ烈しい炎が具現化したかのようであった。
「神、いや、もしかして悪魔?」
目の前の美しい男の顔には〈二つの星〉が描かれ、頭には、牛の如き二本の角が生え、さらに、炎髪の何本かは、男の足下にいるのと同じ生き物、蛇のように見えた。
「人の子よ。ワレの質問に応じよ」
「……。その……、あなたを呼び出したのが自分かどうかの確信はないのですが、この古い本に書かれている文字を声に出して読んだのは間違いなく自分です」
本を男に差し出しながら、そう灯は応じた。
炎髪の男は、灯が手に持つ、肌色表紙の本の上に視線を注ぎながら言った。
「ふむ、たしかに、これは『ゴエティア』の複製本の断片で間違いなさそうだな。召喚術行使後の魔力の残滓が確かに感じられるわ」
「ということは、あなたは、本当に、そ、ソロモンの一柱なのですか?」
「ワレの事か?」
声を出さぬまま、灯は、何度も首を縦に振った。
「汝よ、召喚する対象も知らぬままに、ワレを呼び出したのかぇ? 呪文の中に我が名が刻まれていたであろうに」
「自分、〈古ラテン語〉を読む事はできるのですが、その……。意味はまるで分からなくて」
「『〈コラテン語〉』じゃと? 呪文それ自体は、ダヴィドやソロモンの時代に使われていた〈イスラエル王国〉の言の語なのじゃがの。ふむ、なるほど、この本に書かれていた文字は、その「コラテン語』とかいう代物で、イスラエルの言葉の〈音〉だけを記録した写しだったのじゃな」
「……多分、おそらくは……。ところで、あなたは、七十二柱の何れなのですか?」
「ふむ、よく聞くがよい。太陽よりも熱く、落陽よりも紅き、序列第〈二十三〉位にして、魔界の大公爵……」
ここでその炎髪の男は間を置くと、炎の剣を握っていない方の、左手の親指で自らを指しながら、こう続けたのだった。
「アイム・アイム」
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