第09話 かつての麹町区と神田区

 灯は、書き間違えないように細心の注意を払いながら、古書上のラテン文字を、一文字一文字丁寧に手書きでタブレットに書き込んでいった。


 大学一年の秋学期以降、灯は、もっぱらタブレットを利用して〈デジタル手書き〉をしている。というのも、様々な科目を履修し、講義ごとにノートを使い分けていると、学期中に履修科目数と同じだけのノート・ブックを用意する事になるのだが、曜日ごとに大学に持ってゆくノートが異なるので、時として、持ってゆくべきノートを間違えたり、忘れたりする事もある。そういった時には、駅前の百円ショップや大学の生協で、ノートを新たに買う事になるのだが、こうした場合には、同一科目のノートが、中途半端に二冊以上になってしまう。また、ノートを忘れた日に、ルーズ・リーフを使った事もあったのだが、そうしたペラ紙は何故かどこかに消えてしまって、試験前など必要な時には、ほとんど必ず見付からないものなのだ。

 

 粗忽者の灯が、ノートを家に置き忘れない為には、全てのノートを学校に持ってゆくしかないのだが、だからといって、利用中の全てのノート・ブックが入った、重く嵩張る鞄を毎日持ち歩くのは大いなる負担だ。

 かくして、必要なノートを忘れない為に、夏休みの間に灯が思い付いた方法が、ノートのデジタル化だったのである。


 秋学期が入った最初の頃、灯は、ライティング・アプリを使って、講義内容をキーボードで打ち込んでいた。だが、タイピングは、講義のノート・テイキングには、不向きである、と灯は感じた。

 タイピングだと打ち間違いで書き直す事も多く、また、必ずしも直線的ではなく、話の流れが速い大学の講義においては、結局、手書きの方が、圧倒的にノート・テイキングに向いているように灯には思えた。

 かくして、灯は、講義のノートを、手書きでタブレットに書き込むようになり、いつしか、講義以外の場においても、灯は、タブレットの手書きノートを使うようになったのである。


 かくして、灯は、ラテン語の古本を、タブレットに〈手書き〉していたのである。


 書き写しが終わるや、灯は、目の前の〈写本の写本〉の内容を声に出して読んで確認してみたくなったのだが、図書館内という事もあって、声を出す事が憚られた。そこで、テクストの音読は、図書館を出てから行う事にして、デジタル・ノートを閉じると、ファイルに「『ゴエティア』ラテン語」というタイトルを付け、クラウドに保存した。


 腕時計を見ると、時刻は未だ三時にさえなっていない。


 灯は、夕方過ぎに、「飯田橋駅南」のカレー店で、夜営業においてしか提供されていないメニューを食べる予定にしていた。だが、その店のディナータイムの開始は五時半なので、まだまだ時間には余裕がある。


 手持ち無沙汰になった灯は、図書館をグルっと一巡りし、ここにどんな本が所蔵されているのか見て回った。


 やはり、千代田区の図書館という事もあって、他の図書館には認められない特徴として、〈千代田区〉関連の書籍コーナーが設置されていた。

 灯は、その中から一冊を手に取ってみた。

 

 実は、以前、神田川沿いを散策していた際に、神田川の早稲田の辺りに新宿区と文京区と豊島区が混在している地域があり、何故にこのように境界が入り組んでいるのか考えを巡らしてみた事があった。

 これが実に面白い体験だったので、以来、街歩きの際に、区の境界という不可視の線がどこに走っているのか、灯は興味を抱くようになっていた。

 そして、手にした本をパラパラと捲っている灯の目に止まったのは、千代田区の歴史に関する項目であった。


          *


 二〇二四年現在、「千代田区」と呼ばれている東京都の行政区分の一部は、戦前には「神田区」と呼ばれていた。ちなみに、旧字体では「神󠄀田區」と記していたそうだ。


 今現在、東京都は〈二十三〉の特別区によって構成されているのだが、それ以前の明治から大正を経た昭和初期、より厳密に言うのならば、一八七八年、明治十一年から昭和二十二年、一九四七年までの七十年間には、東京府・東京市の〈十五〉区時代、昭和七年以降の「大東京市」の〈三十五〉区の時代もあったらしい。いずれにせよ、「神田区」というのは、東京が二十三区になる前の、戦前の区名なのである。


 戦後、地方自治法が制定された際に、東京都の区は「特別区」とされ、この特別区の設置にともない、大東京市の三十五区は、二十三の区に再編成され、その際に、「神田区」は隣接する「麹町(こうじまち)区」と合併し、今の「千代田区」となったのだった。


 旧麹町区は、皇居の昔の呼び名である「宮城(きゅうじょう)」を中心とし、それをぐるっと取り囲むような、飯田橋、市ツ谷、四ツ谷、霞が関、有楽町、大手町、竹橋、九段下のエリアに当たっている。

 これに対して、もう一方の旧神田区は、今の千代田区の、例えば、神保町、お茶の水、神田、秋葉原などが属していた。

 そして、たしかに全てではないにせよ、旧神田区に属していた町には、現在、例えば、「神田神保町」、「神田三崎町」、「神田猿楽町」、「神田駿河台」、「神田錦町」、「神田小川町」、「神田美土代町」、「神田司町」、「神田多町」、「神田淡路町」、「神田須田町」、「神田鍛冶町」、「神田紺屋町」、「神田北乗物町」、「神田富山町」、「神田美倉町」といったように、町名の前に〈神田〉という冠が付いていたり、あるいは、「西神田」や「東神田」、ないしは、「内神田」や「外神田」といったように、町名に〈神田〉という名称が入っていたりしているので、〈神田〉という名の有無が、旧麹町区か旧神田区かの識別の印になっているようだ。


 とまれ、かつての麹町区と神田区が合併して、千代田区になった分けで、ついついイメージとしては、今の千代田区の真ん中辺りに、旧麹町区と旧神田区を分ける境界線が走っているような印象を抱いてしまうのだが、しかし、二つの区の境界を記した地図を目にした時、灯は驚いてしまった。


 その地図には、皇居を中心とした六角形のような形の旧麹町区があって、その右斜め上、北東部に、旧神田区が無理やり取り付けられたような格好になっており、さらに、神田区の広さは、麹町区の四分の一ほどしかなかったのだ。


 なんか面白い形だな。

 そう思いながら、灯は、明日は古本まつりで〈神󠄀田區〉の古地図でも探してみようかな、と思いながら、図書館を後にしたのだった。

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