第08話 ラテン語の『ゴエティア』を写本
九段下の「内堀通り」沿いに聳えている「千代田区役所」の九階に在るのが「千代田図書館」である。
この区立図書館には、千代田区民や、同区内の職場や学校に通っている人専用の座席も用意されているのだが、それ以外の閲覧席は、たとえ千代田区関連者ではなくても自由に利用できるようになっている。
灯は、自分が隣の新宿区の住民で、かつ大学も新宿区内という事もあって、はたして非千代田区関係者の自分がこの施設を利用してもよいかどうか、と考えて、初めて千代田図書館に足を踏み入れた時には大いに緊張したものなのだが、最近では、千代田区で用事があった時には、〈タイパ〉を考慮して、夜の十時まで開館している千代田図書館で勉強する頻度が高まっている。
夕方になると、千代田図書館は、放課後の中高生や仕事帰りの会社員で一杯になる場合も多々あるのだが、灯がエレベーターで九階まで上がり、図書館フロアに足を踏み入れたのが、まだ午後の早い時間帯という事もあって、すんなりと空席を見付ける事ができた。
トイレで入念に手を洗ってから、灯は、確保した机の上に自前の敷布を広げた。それから、辞書コーナーから取ってきた『羅和辞書』を机の右端に置くと、空いている左側で、購入したばかりのラテン語の写本を開いた。
神保町から九段下までの道すがら、灯は、端末のカメラ機能を使って、古本を写真に収めよう、と企んでいたのだが、区役所内は全て撮影禁止という貼り紙を目にして、撮影計画を取り止める事にした。
実は以前、自分の参考書をスマホで撮影している高校生が注意されている姿を目撃した事があった。たとえ、館内資料ではなく自分の所有物であろうとも、「館内撮禁」とは、つまり、そういう事なのだ。
中高生なら未だしも、大学生にもなって他者から注意を受け、公共の場で赤っ恥をかきたくはないものだ。
買った本の撮影は帰宅してからすればよい話で、図書館で、なるべく古本を汚損させずに、今すぐ書き込みをしながら読みたいのならば、それを書き写せばよい。
カメラもコピー機も無かった時代には、みんな、本の中身をノートに書き写していたはずだ。
さらに、である。
仏閣を訪れた際に、寺院で〈写経〉する機会があったら、自ら進んで写経体験に参加する、灯はそういった趣味趣向の人間なので、中世の欧州人が、〈原典〉を見ながら、一文字一文字書き写していった行為をトレースする事に〈ロマン〉を覚えてしまったのである。
そもそもの話、ブキニスト風の露天商から灯が購入したラテン語の写本は極薄なので、手で書き写すにしても然したる時間は要さないだろう。
老人によると、その本は、元々一冊だったものを七十二に分けたものであるらしい。
〈七十二〉っていったら、やっぱりアレだよね……。
中高生の頃に厨二病に罹患した事がある者ならば誰しも、〈グリモワール〉と〈七十二〉というワードから想起し得るのは、ソロモン王が使役した七十二柱の悪魔と、『ソロモン王の小さき鍵』とも呼ばれている、グリモワール『ゴエティア』なのではなかろうか。
『ゴエティア』とは、〈呪術〉を意味するギリシア語〈γοητεία(ゴエーティア)〉のラテン語形で、つまり、この本題からも明らかなように、この書は語の全き意味において呪術書で、具体的には、ソロモン王がいかにして悪魔を使役したのか、そして、各々の悪魔がどのような性質を有し、それぞれを如何に使役するかが書かれていたそうだ。
要するに、『ゴエティア』とは、悪魔召喚儀式に関する魔術書なのである。
〈ソロモンの七十二柱の悪魔〉というと、漫画やラノベ、アニメなど様々な虚構作品の中に繰り返し出てきているので、悪魔が登場するファンタジー・ジャンルの定番の設定であるようにも思えてしまう。だが、実を言うと、『ゴエティア』を含む、悪魔や精霊について書かれたグリモワールの合本『レメゲトン』という本には、七つの英語写本がある、という。
とまれ、この『レメゲトン』の英語写本は空想の産物などでは決してなく、現実に、イギリス・ロンドンの『大英博物館』や『ウェルカム図書館』に所蔵されているのである。
大英博物館に実在している『ゴエティア』の七つの英語写本のうち、作成年代が分かっている、最も古い写本は十七世紀の物らしい。だが、このタイトルが古代ギリシア語由来のラテン語という事は、実存する十七世紀の英語版の写本以前に、たとえ現存が確認できないとしても、ラテン語版やギリシア語版の『ゴエティア』の存在を示唆しているように思われる。
そもそも、ソロモン王といえば、『旧約聖書』の『列王記』に登場する、紀元前十世紀頃の「イスラエル王国」の第三代目の王で、古代イスラエルの最盛期を築き、かつ、堕落王としても知られている人物だ。
『ゴエティア』には、古代イスラエルの王たるソロモン王が使役した悪魔についての記述がある分けだから、『ゴエティア』の原典は〈古代ヘブライ語〉で書かれたものなのではなかろうか。
だから、今現在、書き写しているテクストは、古代ヘブライ語原典のラテン語版であるように灯には思えていたのである。
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