第07話 グラムメールが先かグリモワールが先か
岩波内会場にて、パリ・セーヌ河沿いの〈ブキニスト〉風の古本の露店商から、ラテン語の写本を贖った灯は、一刻でも早く、どこか落ち着ける場所でその戦利品を見てみたくてたまらなくなっていた。
だが、「神田古本まつり」の開催地近くの喫茶店や、靖国通り沿いのブックカフェなどは、平日の昼間とはいえ、会場近くという事もあって、どこも愛書狂たちで一杯で、座って落ち着ける場所が見つけ難い状況にあった。
そこで、灯は「九段下」にまで移動する事にした。
神保町と九段下は、メトロで一駅の隣接した街で、徒歩でも僅か十分程度で移動できてしまう。それにもかかわらず、九段下の「武道館」でライヴに参加した人たちは何故か神保町の飲食店で打ち上げをしないし、神保町の古本屋やスポーツ用品店、あるいは楽器店で買い物をした、それぞれの専門店の特徴的な袋を手に下げた人を、九段下で見掛ける事もまた少ない、そんな印象を灯は抱いている。
まるで、それぞれの界隈の人が互いに住み分けをしている、というか、あたかも、街と街との間に走っている地理的な境界上に不可視の壁が築かれているようにさえ思えてしまう程なのだ。
とまれ、「専大通り・雉子橋通り」を渡って、首都高が走っている辺りにまで来ると、古本街っぽさはあまり感じられなくなり、また、神田古本まつり帰りの本好きの姿も途端に見掛けなくなるのだ。
かくして、灯が落ち着いて本を開ける場所として足を向ける事にしたのが、九段下界隈、「内堀通り」沿い、「清水門」付近にある「千代田区区役所」の九階に入っている「千代田図書館」であった。
区立図書館ならば、おそらく神保町の買い物客で一杯という事はないにちがいない、と思ったからだ。
岩波内会場の辺りから千代田図書館までは、歩きで約十分、この間、灯は、このラテン語の本について考えを巡らしてみる事にした。
そもそもの話、このラテン語の古本って〈グリモワール〉だよね。
この発想を切っ掛けに、大学で履修した第二外国語のフランス語の最初の講義の際に、担当教員がこんな事を語っていた事を灯は思い出したのだった。
*
「これから約一年に渡って、みなさんのフランス語の文法を週二回担当する隠井迅です。
早速なのですが、僕の最終目標は、君たちを〈魔術使い〉にすることです」
「「「「「「へっ!?」」」」」」
「フランス語では、〈文法〉のことを、〈ラ・グラムメール〉と言います。英語における〈グラマー〉のことですね。そして、英語においても仏語においても、その語源は、ラテン語の〈グランマティカ〉です。
さて、中世ヨーロッパにおいては、文法といえば、それはラテン語の文法のことを指し示していました。
そして、フランスでは、ラテン語の〈グランマティカ〉を語源とする〈グラムメール〉といえば、それは、ラテン語の文法や、あるいは、ラテン語で書かれた書物のことを意味していたのです。
ちなみに、中世のフランスにおいては既に、ラテン語は、日常言語ではもはや使われなくなっていて、聖職者や学者など、一部の教養ある人間だけが理解できる言語となっていました。
だから、中世時代の一般人にとっては、ラテン語とは全くもって意味不明な言語以外の何物でもなかったのです。したがって、こう言ってよければ、一般大衆の目からみれば、分けの分からぬラテン語を用いている人間は、自分たちとは異なる存在で、ラテン語で書かれた書物は、判別不能な文字で書かれた、意味不明の書物に他ならなかったのです。
やがて、この〈ラ・グラムメール〉という語から、〈ル・グリモワール〉という単語が派生しました。もちろん、これは語源の可能性の一つなのですが。
さてさて、仏和辞典を持っている人は、〈grimoire〉という単語を引いてみてください」
先生は、少し間をおいて、学生に辞書を引く間を置いていたな。
「辞書の〈グリモワール(grimoire)〉の説明には、『判読できない文字、あるいは、難解な話や書物』、そして、『魔術書』という意味が載っていたと思います。
つまりです。
もちろん、比喩的な意味だとは思うのですが、ラテン語が全く分からない、中世時代の大多数の人間にとっては、意味不明なラテン語の文法など、まさに〈魔術〉以外の何物でもなく、いわんや、ラテン語を扱う者など、〈魔術師〉以外の何者でもなかった分けなのです。
そもそもの話、古代・中世時代は、現代に比べて圧倒的に識字率は低く、文字を扱うことができるのは限られた人間だけでした。こうした事情を考慮に入れると、口から発した瞬間に消えてゆく言葉を、記録として残すことができる文字は、それ自体、一般民衆にとっては、人の能力を超越した、ある種の超自然現象、つまるところ、〈魔術〉に他ならなかったのではないでしょうか。
そして、文字を使用するために体系化された法則こそが〈文法〉、〈グラムメール〉なのです。
まとめてみます。
語源的な意味において、〈文法〉とは〈魔術〉なのです。
さて、今この時、第二外国語を学び始めたばかりの君たちにとって、フランス語は、中世人のラテン語と同じで、そんな未知の言語の文法とは、こう言ってよければ、一つの〈魔術〉体系なのです。
つまるところ、一年という時間をかけて、君たちを、フランス語の文法使い、こう言い換えてよければ、フランス語という魔術、〈グリモワ〉の使い手にしたい、と僕は考えている分けなのですよ。
これから毎回、新たな〈術語〉を学んでいって、一歩一歩立派な〈魔術師〉に近付いてゆきましょうね」
*
「フフフ」
今、思い返してみても、実におかしな喩えをする先生だったな。
ラテン語で書かれたテクストは〈グラムメール〉、すなわち〈グリモワール〉、魔術書か……。
ちょっと待てよ。
先生の話によると、ラテン語のグランマティカの仏語であるグラムメールという語から、魔術書を意味するグリモワールという語が派生したって話だったけど、もしかしたら、実は、先に存在していたのは魔術書、グリモワールの方で、その魔術体系を意味するグリモワールから、文字による単なる言語体系が〈グラムメール〉と呼ばれるようになった、と考えられはしないだろうか。
大昔の事で、確かな資料はない分けだし、まるで鶏が先か卵が先かみたいな話だけど、思考を巡らせるだけなら自由だし、ね。
そんな事を思っているうちに、灯は、千代田区区役所に到着したのであった。
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