第06話 プレラッティの魔術書のラテン語写本
「フォ、フォ、フォ。ジュヌ、エテュ・シノワ(お若いの、あんた中国人かい)?」
メフィストフェレスのような老人は、灯の黒髪を見て、そう問い掛けてきた。
「…………。ノン、ジぅヴィヤン・デュ・ジャポン(いえ、日本出身です)」
母音が少し強調された、日本語訛りのフランス語で灯は応えた。
まさか、こんなところで、第二外国語として大学で履修してきたフランス語を話す機会が訪れるとは灯も予想外であった。
「フォ、フォ、フォ。ボンっ! ジぅコンプらン(あいや! わかった)」
そう応じた老店主は、使い込まれた茶色の革鞄の中から一冊の本を取り出すと、それを開き、小声で何やらブツブツと唱え出した。
何を言っているのか、灯には殆ど分からなかったのだが、それでも、わずかに捉える事ができた幾つかの単語から、老人が口にしているのが〈ラテン語〉である事が察せられた。
それから、手にしている本を開いたまま、老人はこう話し出した。
「いらっしゃい、おワカいの。ナニをおモトめで?」
「なんでっ? どうしてっ!?」
その白髪の店主の口からいきなり日本語が飛び出た事に、黒髪の灯は驚きを隠せなかった。
「フォ、フォ、フォ。ワシがニホンゴをしゃべっているコトがヘンかい? おキャクさんにアワせただけジャよ」
「は、はい……。ま、まあ……。日本語、御上手で……」
「まあ、ワシのは〈ち~と〉じゃがな」
「えっ!? 『ちょっと』?」
この御老体は〈ちょっと日本語が話せる〉って意味したかったのかな? そう思っている灯に、老店主が再び問い掛けてきた。
「フォ、フォ、フォ。ところで、ナニをおモトめで?」
「そ、その……、肌色の本を……」
灯は老店主に問われるまま、書台に平置きされている、肌色表紙の本を指差した。
「フォ、フォ、フォ。このホンにミリョウされるとはのぉう。これは……」
空いていた方の手で、灯が指差した本を掴んだ老人は、その古本の来歴を徐に語り出した。
*
灯を魅了した肌色表紙の本は、ラテン語で書かれた〈写本〉で、十五世紀にまで遡る事ができ、その最初の所有者は、「百年戦争」末期の一四二九年五月の「オルレアン包囲戦」で「ジャンヌ・ダルク」に協力し、その後、フランス元帥になった、 ブルターニュ地方ナントの大貴族、「ジル・ド・モンモランシー=ラヴァル」であるらしい。
「ジル・ド・モンモランシー=ラなんとか? 誰ですか、それ?」
「そうじゃな、こっちのナマエのホーがトーリがよいかな?」
老人は、写本の最初の所有者の名を言い換えた。
そのジルなる人物は、 「レ」という領地の男爵であった事から、「ジル・ド・レ」とも呼ばれていたそうだ。
「その名なら知っています。でも、〈ジル・ド・レ〉と言ったら……、たしか……、シャルル・ペローの『青髭』のモデルになった、あの有名な……」
元帥に任じられたものの、ジル・ド・レは、一四二九年九月の「パリ包囲戦」の後、ジャンヌと別れ、自身の所領に戻った。
一方の、ジャンヌは、一四三〇年五月の「コンピエーニュ包囲戦」で、「ブルゴーニュ派」に捕らえられ、翌年、一四三一年五月三〇日に、ルーアンにて火刑に処された。
ジャンヌが捕囚になって以降、ジルの心は病み、そして彼女の死後、その精神は完全に崩壊してしまったようだ。
かくして、ジルは、ナントを中心とする地域で、少年達を誘拐し、虐殺した、という。
やがて、子供の白骨が発見された事によって、十年にも及んだジルの犯罪行為が露見し、一四四〇年の十月に遂に、ジルは絞首刑になり、さらに、その死体は火刑に処されたのだった。
少年達の誘拐・虐殺を繰り返した一四三〇年代の十年間は、ジルが、錬金術や黒魔術の研究に傾倒した期間でもあった。したがって、少年殺害と黒魔術とが無関係であるようには思えない。そして、この時代のジルの魔術的ブレーンこそが、フィレンツェ近郊のピストイア郊外出身の錬金術師「フランチェースコ・プレラッティ」であった。
プレラッティと言えば、ラヴクラフトの〈クトゥルフ神話〉に出てくる『ルルイエ異本』という魔導書の断片をイタリア語に訳出した人物とされ、その本はパトロンであるジル・ド・レの物となったのだが、彼の処刑後、数世紀の時代を経た十九世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトに所有された、という。
「でも、おやじさん、プレラッティの魔導書って、たしか、〈クトゥルフ神話〉の、しかも、日本のテーブル・トークRPGにおいて追加された設定で、史実をベースにした伝奇的事実じゃないはずでは?」
「フォ、フォ、フォ。おワカイの、ヒのナいトコロにケムリはタタナイように、ムからユウはウミだされず、たとえオハナシだとしても、オオくのバアイ、モデルとなったジジツがあるモノなのダよ」
「なるほど、『青髭』だって、モデルのジル・ド・レが存在しますしね」
「そのトーリっ! プレラッティがもっていたのが『ルルイエ』のイタリアごヤクというのが、たとえフィクションだとしても、カレがマドーショをショユーしていたジジツがインスピレーションのゲンセンになったのはアリうるハナシなのダよ」
さらに、その老店主によると、ナポレオンが手に入れたプレラッティの魔術書の写本は、ナポレオン帝政の崩壊後、紆余曲折を経て、七月王政期には、小説家バルザックの所有になったのだが、後に、借金まみれのバルザックは財産を差し押さえられ、やがて巡り巡って、パリのヴォルテール河岸に在った骨董屋に流れてきたらしい。
「そのコットウヤこそが、ナニをカクソウ、ワシのセンゾなのジャ」
さらに老人は続けた。
「プレラッティはヘブライごでカかれたマドーショのゲンテンをモっておったのジャが、ジルにワタシたのはラテンごのシャホンで、まさに、オマエさんをトリコにしたホンは、そのラテンごシャホンの、ニンピソウテイホンのホウなのジャ」
「おやじさん、『ニンピソウテイ』って何ですか?」
「フォ、フォ、フォ。ヒトのカワのコトじゃ」
「えっ!」
ということは……、この肌色は、語の全き意味における〈肌〉なのか……。
「ワシのハナシをシンじる、シンじないはオマエさんシダイじゃヨ」
肌色の人皮装丁本の表紙を、じっと見詰めたまま動かいない灯の姿を見て、老店主は、日本人の若者が恐怖で立ち竦んでいるように思ったらしい。
その本が急に恐ろしく思えたのは確かなのだが、しかし、老店主のホラー話を聞いても、灯の所有欲が減じる事はなく、かえって〈厨二〉魂の焼け木杭に火が付いた灯は、ますます、その本が欲しくてたまらなくなっていた。
「オヤジさん、これをボクに売ってくださいませんか?」
「このホンとデアったジテンで、もはやハンブンはオマエさんのモノだよ」
「ありがとうございます。それで、お幾らなのですか?」
「オマエさんのサイフのナカのゲンキンぜんぶ」
「えっ!」
「ヨウは、このホンに、オマエさんがどんなカチをオくかってハナシじゃ」
灯の財布の中には、今回の古本まつりの軍資金として用意した十万円が入っていた。しかし、ここでその全てを老店主に支払ってしまった場合、この後、他の古本店で文庫本一冊すら買えなくなってしまう。
財布の中身の現金全部と言われて、灯が件の本の購入を躊躇っている様子を見て、老人は言った。
「おワカイの。フルホンとのデアイいは〈アイエンキエン〉にして〈イチゴイチエ〉じゃよ。そのトキにテにイれないと、ツギのキカイはなく、ニドとはデアエないものなのジャ」
そう言われて、灯は決断した。
「よし、買います」
かくして、灯は、財布に入っていた万札全て、十万円を老店主に渡し、その人皮装丁のラテン語の写本を手に入れたのであった。
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