第05話 十二店ある!

 カレー専門店〈グッディ〉が在る細道から、「さくら通り」と「靖国通り」を繋ぐ路地まで歩み進んだ灯は、岩波内会場の本の回廊の、さくら通り側の出入口の真ん前で仁王立ちすると、会場の方に視線を向けた。


 二つの「岩波」のビルに挟まれた路地の両脇に設置された古書が置かれたワゴン、その一つ一つは、幾重もの〈愛書狂〉の半円によって取り囲まれ、人垣の僅かな隙間から、琴線に触れた本を見出した人の何本もの腕が、まるでゴム人間の腕のように伸びている様子が見て取れた。


 どの書店のいかなるワゴンも盛況だ。

 それにもかかわらず、である。


 灯が立っている場所から最も遠くに位置している、靖国通り側の最奥左の一角にだけ、周りに人がいる様子が全く感じられないのだ。


「全然、人がいないように見えるけど、あそこに在るのは一体どこの書店なんだろう?」


 訝しんだ灯は、「岩波内会場」のワゴンの配置図の上に視線を落とした。

 その図像によると、靖国通りの左最端は〈足塚書房〉のワゴンのはずである。

 

 〈足塚書房〉といえば、「すずらん通り」界隈に店舗を構えている、演劇・美術・音楽・芸能の本を中心に取り扱っている日本唯一の古典芸能・日本音楽の専門書店で、この店のワゴンに人っ子一人集まっていない、というのは考え難い。


 もしかしたら、角度の問題で、人がいないように見えているだけなのかもしれない。そう思った灯は、画面上にチラチラと視線を落としつつも、行き交うイヴェントの参加者達とぶつからないように注意しながら、人波を縫うように、靖国通りの方に向かって歩を進め、配置されているワゴンと店名を一つ一つ確認していった。


 他のエリアの図を見ていたとか、ダウンロードしたものが今回のものではなかった、という事はなく、どうやら、見ているワゴンの配置図に間違いはないようだ。


 やがて、路地の端付近にまで至って、灯は左側に〈足塚書房〉の二台のワゴンを確認した。やはり、何重もの人壁が築かれている。


 ところが、である。


「えっ、十二店目っ!」

 靖国通り側の最端に位置しているはずの〈足塚書房〉の隣にもう一つの書店があるのだ。

 そこは、この「岩波内会場」にあって異質な存在のように灯には感じられた。


 というのも、その店だけが、他の店のワゴンとは違っていたからだ。

 それは深緑色のブリキの箱で、つっかえ棒を支えにして、蓋に相当する部分を屋根にし、さらに、その深い緑色の壁には白いペンキで「1111」と書かれていた。


「え~っと……。この深緑色の屋台……、これは、そう、あれだっ! パリの〈ブキニスト〉だっ!」

 この深緑色の箱は、セーヌ河沿いの欄干に沿って立ち並び、『ユネスコ』の世界遺産にも登録されている、パリ名物の常設の古本の露店の外観に酷似していたのである。


 さらに、灯が思い出したのは、『西欧文化論』において、本の歴史が題材になった講義の回で、セーヌ河の古本店は、地図上の河の上、〈右岸〉の店舗には偶数、河の下、〈左岸〉には奇数の番号が振られており、その番号は、セーヌ河の流れ、東から西に向かって数が大きくなってゆく、と話されていた事である。

 もし仮に、この路地をセーヌ河に見立てた場合、右側が右岸、左側が左岸という事になるのだろうか?


 灯は、タブレットでパリの地図を参照してみたのだが、この店の番地が「1111」という四桁のゾロ目の奇数という事は、セーヌ左岸の西端、ヴォルテール河岸に面した西のロワイヤル橋辺りの店という設定になろう。


 それにしても、だ。

 この「ブキニスト」風の店は、靖国通り側の端という立地の良さに加え、他店と全く異なる深緑色の箱型の外観だけでも、古本まつりの参加者の興味・関心を引き付けそうなものだ。

 それなのに、箱の周囲に人っ子一人いないのは、実におかしな話である。


 そもそも、この深緑色の店がワゴンの配置図に載っていない事自体が奇妙なのだ。


 もしかしたら、この深緑色の箱はどこかの古本店の露店などではなく、イヴェント用のオブジェとして設置された、パリの古本店の模型なのかもしれない。

 それならば、ワゴン配置図に載っていない事にも合点がゆく。

 だが、その屋台には、他店同様に本が置かれているので、ただのオブジェではなく、やはり古本の販売をしている露店であるようだ。


「よしっ!」

 他に誰一人として客がいない店には近付き難さがあるのは確かなのだが、灯は意を決して、深緑の店を覗いてみる事にした。

 その店に近付いた瞬間、敷居を跨いで空間が揺らぎ、位相が転じたような不思議なな感覚を灯は覚えた。


 そしてさらに、その店の領域に足を踏み入れて初めて気が付いたのだが、そのブキニスト風の露店の右脇には、店主と思しき外国人の老人が、腹の上で両手を組んだまま、揺り椅子の背もたれに身を預けながら眠っていたのである。

「不思議だ。なんで、店の人がいるのに、ついさっきまで、その存在に気付かなかったのだろう?」


「こんにちは、ボンジュール! ムッシュー」

 その外国人の老店主がフランス人だという確証はなかったのだが、フランス・パリのセーヌ河のブキニスト風の店だったので、なんとはなしに、灯はフランス語で挨拶をした。

 だがしかし、灯からの挨拶に対して、老人からの反応は返ってこなかった。


「無反応か……。ま、いいか。ムッシュー、ちょっと見せてもらいますね」

 眠ったままの店主に、一応の断りを入れてから、灯は置かれている本の物色を始めんとした。


 だが、数多の古本が並べ置かれているというのに、その中のたった一冊の本に、灯の視線は吸い寄せられ、その本から目を離す事ができなくなってしまったのである。


 もしかして、これが運命の本との出会い?


 触れんとする手の先に在るその本の表紙は、ややくすんだ肌色をしていた。


「眩しっ!」

 その本に手が届かんとしたまさにその寸前、一筋の激しい太陽光が灯の顔を照らし、その両目を眩ませた。


「フォ、フォ、フォ」

 ようやく視力を取り戻した灯の目の前には、先ほどまで揺り椅子の上で眠っていたはずの老いた店主が、奇妙な笑い声をあげながら立っていた。そして、独特の笑いを止め、しばし灯の目をのぞき込むように睨め上げた後で、老人はゆっくりと口を開いた。

  

「トワ、トュ・ア・ショワジ ス・リーヴル(お前さん、この本をお選びかい)?」

 

「ま、まるで、メフィストフェレスみたいなお爺さんだ……」

 灯は、直感的にそう感じてしまっていた。

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