第02話 行列必至の神保町の老舗カレー店の欧風ソース:神保町の〈グッディ〉
十月三十一日・午前十時半――
一時限目の講義が終わるや、土門灯(つちかど・あかり)は教室を飛び出すと、大学最寄りの地下鉄の駅に急ぎ向かった。やがて五分もかからずに駅に着くや、「西船橋」方面行きのホームに降り、進行方向先頭部に向かって進むと、折よく到着した「東西線」の三両目に乗り込んだ。それから、「九段下駅」で「半蔵門線」に乗り換えると、そこから僅か一駅の「神保町駅」で下車したのであった。
列車の先頭車両に乗っていた灯は、ホーム端に設置されている階段を速足で駆け上がり、「A6」口、かつて「岩波ホール」が入っていた「岩波神保町ビル」に隣接している出入口から地上に出て、そのまま、神保町の有名カレー店に向かった。
そのカレー店は、神保町のA6口から数分の場所に位置している書籍センター・ビルの二階に在り、その正面出入口は、千代田区の目抜通りである「靖国通り」に面している。だが、灯の目的地である料理店には、大通り口からは入れず、建物の裏口に面している細い路地からしかアクセスできないようになっている。
「あっ! やっぱりか……。既に階段下にまで行列が……」
十時半の一限の講義終了後すぐに移動し、十一時の開店時刻前に到着し、開店凸しようとしたものの、細い階段の左側から続く整列した人たちが、既に、路地に面した一階の出入り口にまで食み出ているのが灯の視界に入った。
灯のお目当てのカレー専門店〈グッディ(Goody)〉は、昭和四十九年、一九七四年開業のちょうど半世紀の歴史を誇る神保町の老舗カレー店で、行列必至の人気店なのだ。
「まあ、開店五分前の到着じゃ、第一陣で入るのは無理な話だよね。この列の長さだと三陣目、運良く二陣目で入店できれば御の字かな」
そう独り言ちながら、列の尻尾に灯は加わったのだが、その後、開店時刻が過ぎると、行列はどんどん長くなっていった。
〈注文・提供・食事・会計〉に要する一組の店の滞在時間を仮に三十分だとした場合、二陣目が入店できるのは十一時半、三陣目は十二時となる。だがしかし、人気店への訪問だし、一時間以上待つことは折り込み済みであった。そもそも、この日の午後は丸々、古本の物色に時間を充てる事にしていたので、美味なるカレーの為の長時間の待機もスケジュール的には問題ない。それに、一冊の本さえあれば、一時間程度の時間など瞬く間に過ぎ去るものなのだ。
「さて、どれを読もうかな?」
灯は、カバンの中を見ずに、まるで〈ガチャ〉でもするかのように、適当に一冊の本を取り出した。
「あっ、これか……」
灯の手が掴んでいたのは、教養として履修しているラテン語の入門書であった。
そして、灯がその古典語の文法書を開こうとした時、階段の下にまで、店のスタッフがやって来て、灯にメニューを手渡した。
「どうぞ、メニューです。お待ちになっている間に注文する品をお選びください。オススメは〈ビーフカレー〉です」
そう言うや、背後の客の所に移動し、店員は同じ文言を繰り返すのであった。
この店〈グッディ〉は、少しでも回転率を上げ、客を待たせない為に、階段で並んでいる客から、入店前に注文を取るようにしているのだ。
しばらくして注文を取りに来た店員に灯は告げた。
「オススメのビーフカレーを中辛で」
この時点で列は少し進んでいて、灯がいる辺りの階段壁には、客の待ち時間の目安にする為にか、「お待ち時間は、こちらより およそ25~30分となっています」という掲示物が貼られていた。
だがしかし、列は思っていた以上にサクサク進み、予想入店時刻よりも早い時刻に灯は入店できた。そしてさらに、着席するや、二分後には、前菜としての〈茹でたジャガイモ〉が出された。
「えっ、はやっ!」
なんと、着席から僅か五分後には、注文したビーフカレーも提供されたのだ。
前もって注文を取り、おそらく、注文者の入店のタイミングを見計らいながら調理に入り、なるべく客を待たせないようにしているのであろう。
灯の目の前に在る容器は、ライスが平らに盛られた長方形の皿と、ランプのような形の、取っ手が付いた銀色のカレー・ソースポット、いわゆる〈グレイビーボート〉で、その縁にまでなみなみとカレーが注がれていた。
そして、カトラリーとして卓上に準備されていたのは、ポットからカレー掬うための横幅が広いレードルとスプーンであった。
灯は、レードルを使って、ポットからカレーを掬い上げ、それをライスに掛ける前に、普通のスプーンで僅かにカレーを取って、先ずはその味を確かめてみた。
「甘いっ! いや辛いっ! これが、甘辛いってやつかな?」
〈グッディ〉の初代オーナーは、フランス帰りで、留学の際にフランス料理店で働く機会を得て、そこで、フランス料理におけるソースの基礎を学んだそうだ。
英語において「ブラウン・ソース」と呼ばれているフレンチのソースは、フランスでは「ソース・エスパニョル(直訳するとスペイン・ソース)」と呼ばれているのだが、英語の名称通り、茶色系の、フランス料理における古典的なソースである。これは、フライパンにバターを溶かし、小麦粉を焦げ茶色になるまでゆっくりと炒めたルーを、日本料理における〈出汁〉に当たる〈ブイヨン〉、例えば、子牛から取った〈フォン・ド・ヴォー〉で伸ばしたソースで、肉や野菜の煮込み料理などに使われる事が多いようだ。
この〈ソース・エスパニョル〉にカレーの素材を加えたものが〈グッディ〉のカレー・ソースで、ここにさらに、香味材料として、リンゴを主とした様々な果物や、タマネギなどの野菜を入れ、煮詰めた赤ワインや、スパイスなどを加えた結果、〈グッディ〉のカレーは、〈甘さ〉の中に〈辛さ〉が認められる、独特のカレー・ソースになっているそうだ。
とまれかくまれ、このように欧州のソースをベースにしたカレーは、ジャンルとしては〈欧風カレー〉と呼ばれている、との事である。
灯は、一口、二口、さらに三口と、ポットからスプーンでカレーを直接口に運び続けた。
「あかん、あかん、これじゃカレー・ソースが先に枯れちゃうよぉぉぉ~~~」
あまりの美味しさに、このままでは、ライスに注ぐ前にカレーだけが無くなりかねない勢いだったので、灯は自制心を発揮させ、スプーンからレードルに握り替えると、バランスを考えながら、欧風カレーをライスに掛ける事にしたのであった。
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