グラスの一杯
鈴ノ木 鈴ノ子
ぐらすのいっぱい
小雨の金曜日。
それは私にとってとても大切な日だ。
慌ただしい毎日、時間に追われる仕事、それらのストレスを抱えながらの帰宅。
もちろん、自宅には結婚して3年になる姉さん女房もいる。
妻は否定するが、美人で気立てのよい、私なんぞにはもったいないほどの女性だ。取引先の課長だった妻を、何とか口説き落として付き合い、そして結婚に至った。もちろん、仕事を続けている妻は私よりも帰りが遅いことも多い、家事は分担しているが、妻の分まで手伝っておくと理不尽にも怒られる。
『私がやるから、あなたは休まなきゃダメ』
そう言いながら心配してくれる妻に感謝して、そして妻を労いながら家事を一緒に済ませる。ゆっくりと風呂に浸かり、そして同じベッドで眠る。時には軽いスキンシップから枯れ野に火が放たれるように燃え上がり激しく求めあってから眠るときもある。腕の中で悶える妻の顔は愛しくて可愛らしくて、この上ない愛しさと、男として好いている女を手中に収めたような征服感に似た感情に満足して眠りにつくのだ。
新婚ではないけれど安定した夫婦生活もに満足している。
だが、時にそれで満足できないのも、男の性であるのかもしれない。
小雨の金曜日は、妻よりも早めに家を出る。
いや、妻がまだ眠りについているベッドから抜け出して、身支度を整えて静かに抜け出し、近所の喫茶店に向かうのだ。
「モーニングセットを1つ」
深めの珈琲とトーストと卵サラダとウインナーのセットを注文し、小雨の降る道路側の窓辺の席へ座ると外をゆっくりと眺める。
『今日、いつもの時間でいいかな?』
Rainでメッセージを送る。しばらくすると返信が帰ってきた。
『うん。少し遅くなるから、待ってて下さい』
その声を思い出しながら文を読み返し、その下に着いたハートマークを抱えたクマのスタンプに思わず頬が緩んだ。
「お待たせしました。モーニングセットです」
怪訝そうな表情で店員がセットを置いていった。
早朝、そして雨の日の平日の朝ということもあり店内は空いている。
朝の早い老人客が数人と、難しそうな参考書を読んでいる男子大学生、スマホを見つめる女子大生、そして、パソコンで仕事をしている会社員が数人、フランチャイズで店舗サイズは統一されている店内は広く、それだけ人が居ても閑散として見えた。
『ねぇ、今日は帰りにホテルに泊まりたいな』
お願いのスタンプと共にそんなメッセージが届く。
『いいよ、どこにする?』
『片田駅のシティーホテルがいいな、ほら、食事に誘ってくれたとこ、あのあとそのまま泊まったよね』
『ちょっと待ってね』
ブラウザを起動してブックマークから手慣れた手つきでホテルの空き状況を検索する。泊まったホテルはすべてチェックしてあるから呼び出すのも容易だ。禁煙で上階、空いている部屋を検索すると一部屋だけ空いていたので、迷わずに予約を入れる。自分のカードで決済して部屋を取り終えると案内のメールが届いた。
『とれたよ』
『やった!ありがと!』
そう返事が来て可愛らしい子熊のスタンプが続く。
『仕事、気を付けてね。行ってらっしゃい』
「そっちも気を付けて、じゃぁ、夜に」
『うん、いつものところでね』
少し冷めたモーニングセットを食べ終え、会社へと出社して何時もの通りに業務を卆なくこなしていく、新しいプロジェクトも順調で、作業を割り振った同僚や後輩のタスクも問題なくこなしているようだ。
「先輩すみません。ちょっと、ご相談したいことが」
「はいはい、どーしたの?」
弛んだ口調で席の隣に立った後輩の女性社員に受け応えると、元来からののんびり屋気質の声のせいか彼女の頬が緩んだような気がした。そしてほんのりと上気した頬に赤みがさしている。
「こちらなんですが」
そういって差し出されたファイルには、現在進行形のプロジェクトのタスク表と、彼女の分担区分のスケジュールが印刷されており一部に付箋が付けられている。中東情勢の緊迫化で外国からの船便が遅れており資材が揃わない。それを狙って丁度、国内で製造している会社が売り込みに来たらしく、若干の値上がりは避けられないが、それに発注を掛け、輸送分の資材を別現場で使用したいとのことであった。
「強度などは問題ないの?設計や設備や製造は?」
「問題ないと全部署から回答を頂いてきました。品質保証などのデータも取り揃えてあります。自社と発注元のサンプル比較も終えています」
書類にはすべての問題点が洗い出されており、その下に事細かにクリアできていることを示すデータが添付されている。
読み終えて問題がないことを確認すると、その最後のページに可愛らしい子熊の付箋が付けられていた。
『飲み会をしようと思います、奥様もお連れ下さいね』
付箋と取って頷くと彼女の顔が漫勉の笑みを浮かべている。
我が社よりも3倍も大きな業界最大手の課長として采配を振るう妻に彼女は心底入れ込んでいるのだ。書類を返してそのまま業務を続けてゆき、午後に厄介ごとが2,3件ほどあったが、どれもこれも対応がうまくいったので終業時間には業務がすべて終わることができた。
「先輩、小雨の金曜日は帰りが早いっすね」
「まぁな」
オフィスビルのエレベータを待っていると、ちょうど外回りから帰ってきた後輩とすれ違った。帰りに寄ったトイレで髪や衣服の乱れを直して出社と変わらない姿に整えているから、妙に気合が入ったようにも見えたのかもしれない。
すれ違いざまにそんなことを言いながらエレベータに乗り込んで1階のボタンを押した。少しだけ気が急いている気もするが仕方のないことだろう。
ようやく、この時間になったのだから。
外は小雨は止んでいないから、鞄から折りたたみ傘を取り出して駅へとゆっくりと歩いていく。帰り道沿いにある洋菓子店でマカロンのセットをいつもの通りに購入して意気揚々と足早に人波に流されるように向かっていく。
あのマカロンはあのホテルで食べたのだ。
久しぶりにそれを分け合うのも良いのかもしれない。
可愛らしい唇がそれを食べるさまを想像すると思わず吐息が零れた。
電車に揺られて2駅ほど離れた駅で降りる。
小雨は止んでいないから再び傘をさして駅前の道を歩きながら、宿泊予定のホテルを通り過ぎて、小さな雑居ビルの地下へ続く階段を下りていく。
【BAR 水晶】
刻を感じさせる綺麗に磨かれた扉と、脇の机の上には季節の生け花が添えられて、その前に店のプレートがそっと添えられている。
「いらっしゃいませ」
顔の見慣れた初老のバーテンダーがゆっくりと此方に挨拶をしてくる。頷きながら扉を背にするように配置されたバーカウンターのいつもの席に腰を下ろす。
「今日はどうなさいますか?」
差し出されたおしぼりで手を拭き終える頃合いを見計らったようにバーテンダーから声が掛かった。
「そうですね、じゃぁ、ミネラルウォーターでお願いします」
「ああ、今日はその日でございましたね」
こんな失礼な注文もないだろうが、心得てくれているバーテンダーは、山梨より取り寄せた天然水を冷蔵庫から取り出すと、クリスタルガラスのグラスに注いでから、磨かれた摺り硝子のコースターの上に置くと、優しい手つきで私の前へと差し出された。
光が反射してそれ自体がまるで水晶のように光り輝いているのが美しい。
「どうも、今日は多分、飲みたい気分じゃないかなと思うのです」
「なるほど。ですが、どうですかな、天気予報が外れる様に、時にはカンも鈍ることがございますよ」
「え?」
いつもなら笑って聞き流してくれるバーテンダーの声色が少しだけ嬉しそうに、そしてちょっともの悲しそうに、そして、何か言いたげにそう答えた。寡黙な方が珍しいと思いながら天然水に口をつけてゆっくりと口に含む。柔らかく飲みやすい口当たりで毎回ながら、水ではなくアルコールが入っているのではなのではないかと疑いたくなるほどの美味さだ。
グラスを置いたタイミングでドアが開く音が聞こえて、ヒールが床を鳴らす音がこちらへと迫ってきた。ただ、いつものヒールとは違う音であることが少しだけ気になった。
「遅くなった?」
「いや、今さっき来たところだよ」
そう声を掛けて隣に座った妻に微笑む。
しっかりとしたメイクにほんのり紅いルージュ、そして小さな水晶のイヤリングを付けたスーツ姿の凛々しく可愛らしい妻がそこに居た。
週末はデートして恋人気分で過ごしたい。
結婚して暫くしてから考えついた夫婦の遊びだ。
付き合っていた頃のように、互いに連絡を取り、ホテルを決め、そして、お酒を嗜んで微睡みのような淡い時間を過ごしてゆく。最初は中々できなかったけれど、今では手慣れたようにお互いにあの頃に戻れる時間として過ごしている。
「今日はどうされますか?」
少し含み笑いが聞こえてきそうな声でバーテンダーが尋ねる。
それは何かを確信しているようにも思えてしまうような言い回しだった。
「えっと、じゃぁ、彼と同じものを」
「え?」
「畏まりました」
恭しく聞いたバーテンダーが再び天然水を取り出して新しいグラスへと注いでゆく。
「今日は飲まないの?」
あっけに取られてそう聞き直した。妻は幸せが溢れだしそうなほどの素敵な笑みを浮かべて頷くと、こちらの手を取りそのまま自らのお腹の上に当てた。
「こういうこと」
嬉しさのあまり頬が緩んでいくのが分かる、それを見ていた妻が小さく頷いて微笑んだ。
「おめでとうございます」
バーテンダーが嬉しそうにそう言ってグラスを同じコースターに載せて差し出してから、一本の真新しいウイスキーボトルを用意していたかのように棚から取り出してカウンターの上に置いた。
「こちらはお2人へのお祝いでございます、ただ、宜しければちょっとしたゲームを致しませんか?」
「ゲームですか?」
不思議がる2人の声にバーテンダーが頷く。
「ええ、もうすぐ息子へとこの店を譲ることになっておりますので、お腹のお子様が成人されましたら、ご一緒にお飲みいただくのは如何でしょうか?」
「それ、いいかも」
酒好きの妻が嬉しそうに同意した。
同じように頷いて同意すると、顧客名の書かれたプラスチックのラベルが吊るされる。その下に文言が書かれていた。
【開封ご予約:20年後】
「楽しみでございますね」
「はい!」
バーテンダーの嬉しそうな言葉と、そして息の合った私達夫婦の言葉が店内に木霊したのだった。
あれから20年、そして、小雨の金曜日。
愛妻と愛娘を伴って、少し改装されたが席の配置は変わっていない【BAR 水晶】のいつもの席に腰を下ろしている。
卓上には微笑む先代のバーテンダーがカウンターに立つ写真が置かれ、そして目の前には封の切られたあのボトルが置かれていて、掛けられて色褪せた予約札が年月を物語っていた。
「ねぇ、パパ、ママ、紹介したい人がいるんだけど…」
少しスマホを操作してから、そう恥ずかしそうに頬を染めた愛娘に若かりし頃の妻の面影が重なる。妻を見ると話が通っているようで頷いているので、それに乗じる様に安心して同じように頷くと、やがて扉が開く音と共に緊張で顔が少し引き攣ったスーツ姿の若者が傘を持って姿を見せた。
今日の一杯は忘れられないものになる。
そんな予感を感じさせるように琥珀色のグラスの中で氷が音を奏でた。
グラスの一杯 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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