亡霊裁判

上雲楽

例外の者

 国連から某国の法整備のため、秘密裏に、安村と名乗るアドバイザーが派遣された。それからしばらくして、安村はその国で逮捕された。裁判を担当した奉行は、安村の考えがこの国に広がるのはもう避けられないと予期していた。この裁判で、後世に悪代官として語られるんだろうなと思ったが、金属の輪で拘束されたまま跪いた安村がドイツ語で、

「野蛮人どもが」と呟いたのを聞き逃さなかったので、今の自分の仕事をすればいいやと気楽だった。

 安村の罪は城田(仮名)の妹の抹殺だった。規定通り、決闘裁判を行う手筈だったが、政府からの暗の圧力があったので、役人たちは拘留した安村の皮膚に針を刺し、器の三分の二が満ちるまで瀉血を行う温情を与えた。しかし安村は依然として、

「誰もが生まれながらにして人間としての権利を持っている、と書き加えただけだ」と声帯を震わせ、自らの名前をサインしようとしたので、濁り、粘つき、沈黙した血液を沈黙という真理の代替として用いることができなくなった。やむなく血液は何度も破棄された。

 すべての言葉は必ず嘘を含み、裁判という真理の場では用いることはできない。死者と生者でも死者でもないものは言葉を持たないから真理に近い。だから決闘裁判では真実としての沈黙と、それを代行する決闘代理人が必須だったが、安村の依り代となるべき、黙し続ける者を見つけられず決闘が難しい。安村は生者でありながらわめきちらし、全身を偽証そのものへ変化させようとしていたので、役人は猿轡を与えて、少しの便宜を図った。

 城田の叔父は叔父と呼ばれているが城田と血縁はない。そのため依り代としては適切だったし、叔父は城田の妹を憑依させることに恍惚を覚えていた。

「私が生まれなかったのは十七年前の夏至の三日前です。その十月十日前に、父が精液を放ち、母はそれを飲みました。それ以来、私は、兄の胎内で成長し続け、音楽を聴いたり、光を見たり、木陰に埋もれたりしていました。そのまま黙していましたが、そこの、外国人の、アドバイザーが、黙る者と話す者に区別を設けたから、私がいることの歴史に断絶が生まれて、ただの、木霊でいたのに、黙するから、死者って言われました。人殺しは死んだ方がいいと思います」

 そうメッセージを放つことは叔父にとって容易だった。沈黙は、声に限らず、光を発することでも破られる。メッセージは主に顔から発され、顔が受け取るものである。このすべては失わなければならない。叔父は決闘代理人の家系の伝統として、鼻と耳を削がれ、瞼を縫われているから極めて闊達かつ優秀なメッセンジャーだった。安村は鼻で笑いながら叔父の声を聞いていたが、自分の存在に精液の根拠がないかもしれないと昔から考えていたことを思い出した。もちろん、自分が生者であるなら、生物学的な父母が存在すると理屈では理解しているのだが、安村は父も母も知らなかった。だから、安村は子供のころから、自分に存在していた母は自殺したかわいそうな人なのかもしれないと妄想して自分を慰めていた。

 叔父のメッセージに対して安村は騒々しすぎた。連日の瀉血で朦朧とした頭でも、

「存在しない者は殺せるわけがない」などとスピーチを続けた。傍聴人は呆れを通りこして怒り、小石を投げつける人もいた。

 城田の妹の発生は精液に根拠づけられていると裁判で主張されているから、死者でも生者でもない者としては、厳密に「城田の妹」として定義されてしまうため、絶対的な沈黙からは遠い者だった。しかし城田は、妹が一切のメッセージを送らないことを理由として、妹の非存在を確信していた。死者か生者であれば、メッセージを放ってしまうからだった。メッセージは必ず欺瞞を含み、善くないから、可能な限り沈黙しなければならない。意志もメッセージも持たなかったはずの妹の清らかさを、安村は凌辱した。安村の提案の一つに、この国に住むすべての生者の名前を網羅したリストを作ることがあった。当然、自分の父が生者か死者かなんてわからないし、名前を持たない者が大多数であるし、自らを生者だと主張させる野蛮さは耐えがたい。このおぞましい計画は現在でも施行されていないが、名を名乗る子供は増殖を続けており、いずれこの法に従うしかないのかもしれない。

 初め、安村は挨拶をしても誰も名乗らないことに違和感を持っていた。無理矢理名乗らせようと、脅迫めいたこともしそうになった。しかし、そのたび、

「娘さんたちの名前はなんですか」と返事されるので、聞くのをやめるようになった。

 安村は逮捕、尋問されている最中、

「なぜ娘を知っているんだ」と役人に尋ねた。

「娘さんから聞きましたよ。あなたは生者にしかメッセージを認めないつもりでしょう? 死者だって意志はなくてもメッセージは放ちます。生者でも死者でもないものは意志を持たずメッセージも放たないから、一つの嘘もないです。あなたがしようとしていることは嘘だらけで悪いことです」

「だから、決闘裁判で殺し合わせて、死者となって、黙った方が真理だって?」安村は小馬鹿にした態度をとろうとしたが、義憤にしか見えなかった。

「昔はそうでした。でも今は、ちゃんと決闘代理人を立てて亡霊の沈黙の深さを裁判で比べるんです。そういう歴史も知らず、ずっとおしゃべりしていて、ご自身の立場が悪くなっているのはご承知ですか」

「資料は読んだ。捏造と妄想にまみれた資料をな」

「ね? 言葉は嘘でしょう。私たちは正しいことをしたいし、あなたも正しくあってほしいんですよ」

「黙れ」と安村は言いたかったが、

「それが正しい返答です。お互いね」というメッセージが、交信されることを安村は直観し、目を固くつぶってその考えを忘れようとした。

 妹だとする沈黙は放った。

「私はいないままでいたかったのに、私に『私はいないままでいたかった』なんてメッセージを作らせるのは、私たちが知る欺瞞を増やすことだから、善くないことです。こんなの、私、意志がないのにメッセージを発する、死者になってしまった。死者を増やすことは罪です」

 安村は死者が増えることではなく生者が減ることにしか倫理的抵抗はなかった。リスト作成のテストとして、政府の、犬を司る副大臣に自らの家系図を書かせたことがあった。安村は見たことのない人や名前のない人に「死者」を示すマークのスタンプを押し、あるいは家系図の線そのものを消して、嬉々としていた。副大臣は、「私」が五人いると考えていた。「私」の五分の四が生者でも死者でもないから「私」は総体的に見れば肉体のやかましさが薄く、清いと信じていた。家系図に書かれた五人の「私」のうち、四人が消された。八人の父に「死者」のスタンプが押され、十九人のいとこが生者であると断じられ、副大臣は叫び声をあげ、うるさかったから収監された。副大臣には双子の娘がいると安村は認めたが、安村が自分に双子の娘がいるという妄想を繰り返していたことと無関係ではない。安村は、生殖の過程を省き、双子の少女が産み落とされていたのではないかと度々考えていた。

 安村が起草した法は政府が可決する前に、なぜか人々に知れ渡っていた。例えば、死者が発生し死者の持っていた財産が生者に遺贈されたら税金をかけよう、と安村は考えた。それを起草しようとしていたころ、肉屋の店主が、

「死者からの贈り物に税をかける知恵は、あなたの娘からのメッセージだから、その知恵自体に税をかけるべきでは?」と言われた。

「そんな法律まだない」「なぜその法律を知っている?」「私に娘はいない」「なぜ娘を知っている?」などと安村は返したかった。肉屋は二回瞬きをすると、店の奥に戻って、皮の剝がされた何かの肉を断ち切った。安村は、肉屋の娘が三日前にいなくなったことを思い出した。娘がいなくなったと肉屋が訴えて初めて娘の存在を知ったので、娘など最初からいないのかもしれないが。

 安村は、誰か身近な人が、秘密の暗号を送っていると疑った。安村が逮捕されたのも、安村が決闘裁判を禁止しようと思った翌日だった。拘束されているころには、暗号ではなく、思考盗聴を疑っていた。安村の側近の生者たちは、姿は見えないのに迅速に安村の意図をくみ取る。風呂の前に身体を拭かれ、走る前に扇がれ、空腹の前に食事が届けられ、法を書き上げる前に可決され、可決する前に施行される。安村から見ると、静かすぎる現地の人々は小さな交信機でも仕込んで動いているようだった。だから、安村は現地に馴染もうとして、スパイ用の小型マイクを仕込み、人々のメッセージを受け取り、反応しようとした。だが、現地の人々からすれば、その行為は「見ているぞ」というメッセージに他ならなかった。安村の監視の目は、生者でも死者でもない者にさえ届いていると考え始めた。そうでなければ、生者と死者とそうでない者を区別しようとする安村の考えを理解できない。

 生命に溢れた若者が一人、安村に

「何を見ているんだ」と声をかけた。安村は、

「流行りのお菓子とか。ピンク色のキャンディー」と茶化して、その数時間後にはすべての商店でピンク色のキャンディーが並び、安村は吐き気がした。キャンディーは、娘の好物として考えていたものだった。ピンク色のキャンディーは、副大臣の喪に服すためだと店主たちは語った。削除した四人の副大臣を知るのは副大臣と安村だけのはずだった。

 裁判が始まってかなりの時間が経ち、叔父のメッセージが人々に満ちてきても、安村の依り代は全く見当たらなかった。

奉行は寛容に、生者であるという卑猥さに目をつぶり、安村自体の主張を受け入れるのが落としどころかもしれない、と思った。安村を死者とすることで、沈黙を発生させ、意志を永久にしようとした。決闘裁判では、当事者が共に生者として存続するから、このままでは安村が哀れすぎる。だが、傍聴している人だかりの向こうから、双子の少女が奉行の前に出てきた。

安村のしようとした「誰?」という無意味な質問の前に、奉行が「何?」と双子に聞いた。

「パパです」

「ママよ」

安村の方を向いて言った。依り代が現前したことを、安村以外の全員がすぐに理解した。

「あなたの意志は、語ることをやめたいと十分にわかっている。だけど、沈黙が意志になるのは苦しすぎる。あなたがいないことをここで発揮しなければ、死者になるよ」

安村は、お前たちに自分の何がわかると言いたかった。

「あなたにいない母親は、『私は死にます』というメッセージを残したね?」

「……なぜそれを?」

「安心する答えを与える。ただのコールドリーディング」

安村は、声をあげることなく涙を流し、うずくまった。それは、「私の意志はありません」というメッセージに似ていた。城田は、単語以前の奇声を発して、それを阻止しようとした。双子に見られていることも気にせず。

「わかるよ、あなたは、存在していてはいけない、呪われた人間なんだよ」と双子が言った。

「これで、決闘裁判が行えますね。よかった」と奉行は叔父と双子の決闘を命令した。存在しない者から死者になった妹と、生者のまま死者になろうとする安村のどちらが静かで、真理なのかは明白で、傍聴人はすでに興味を失ってまばらに帰って行った。叔父も、決闘の勝利を確信して、双子が、安村は存在過剰ですと懺悔するのを待っていた。

 だが、安村は、その場にうずくまり続けた。一週間ほどして一切動かなくなってからも、うずくまっていた。双子は言った。

「あなたが真理だから、私たちが、生み直してあげる」

 それから十月十日して、安村の起草した法がすべて施行された。安村が生者のためにもたらした法は、やはり死者と生者でも死者でもないものを無視していた。しかし、政府や市井の人々が安村の遺した意志とメッセージに反逆するには、あまりに皆静かすぎた。極めて正しく、新しい真理の場へ悲鳴をあげることができるようになった。何人もの子供が自らに名前を付けて自殺し、嬉しく思った人々も自殺した。安村が目に見えることも、耳に聞こえることもなくなった。叔父に限らず、何人もの決闘代理人が、亡霊などいないと告白して、私刑にあった。叔父は暗がりの中で柱に張り付けられ、薬品を打たれ、恍惚としながら肉を削がれ、生きているとはこういう感じか、と理解して、安村の意志とメッセージを憑依させた。瞼を縫いつけていた糸も断ち切られた。初めて開かれた叔父の目が強力なメッセージを放った。誰もが、その場で目を合わせたまま跪き、双子を苗床として、新たな生者が誕生したことに気が付き、祝福した。

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