鏡の中へようこそ!

 部屋に入ってランドセルを置いたわたしは、自分が映りこまないように、遠巻きに姿見を眺めた。

 さっきの鏡は、ただの見間違いだ。動くなんて、ありえない!

 だから、大丈夫。

 そう思いこむためには、鏡に映った自分を見て、ほら大丈夫! って納得しなきゃいけない気がする。


 わたしは、そおっと姿見に近づいた。

 この姿見は、わたしのお母さんのお母さん――母方のおばあちゃまからいただいたものだ。

 お母さんは、ちょっといいところのお嬢さんだったそうで、小さいころに遊びにいったおばあちゃまの家は、お城のような豪邸だった。

 そこで、わたしはすてきな姿見を見せてもらった。

 まるで、おとぎの世界に出てくるようなヨーロピアンスタイルの装飾がついた、すっぽりと全身が映る楕円形の大きな鏡だ。


 ひと目で気にいったわたしは、キラキラとした瞳で鏡をのぞきこんでいた。

 すると、おばあちゃまは笑いながら言ったのだ。


「これは大事な鏡だから、いくらかわいい孫の頼みでも譲れない。そのかわり、そっくり同じ鏡を、十歳の誕生日にプレゼントしてあげよう」


 おばあちゃまは言葉どおり、去年の十歳の誕生日にプレゼントしてくれた。

 わたしにとって、とても大事な宝物だ。

 その姿見が、いま不気味なオーラをだして、部屋のドアの横に立てられている……。


「考えていても、仕方がないよね! 大丈夫大丈夫。ただの見間違いなんだから」


 わたしはそうつぶやきながら、覚悟を決めて、鏡の真正面に立った。

 鏡のなかのわたしは、どこもおかしくない。

 白地に花柄のプリントがされた長袖Tシャツと、落ち着いたピンク色の膝丈のフレアースカート姿だ。

 ほっとしながら、わたしは鏡の表面に顔を近づけた。


「――うん。いつもと変わらない。ただ、わたしが映っているだけ……」


 鏡の中のわたしも、同じように口を動かしている。

 全然、問題なんてない。


「な~んだ。わたしったら、なにもないのに驚いて、ばかみたいよね」


 そう言いながら左手をあげて、指先でつつくように、鏡の表面をなぞって……。

 ぎくりと、手が凍ったように固まった。

 わたしは、鏡の中の自分が、青いシュシュで髪をまとめていることに気づいたのだ。


 ――その瞬間。


 鏡の中のわたしは、にこっと笑みを浮かべると、わたしの左手をつかんで引っ張った。

 あっという間に、わたしは鏡の表面をすり抜ける。

 そして、暗くて青い空間へ引きずりこまれた。


「ひゃあ! なに? ここ? どこなの? やだ! 溺れちゃう!」


 うろたえながら、わたしは手足をばたばたさせる。

 けれど、足が地面につかない。

 地面というものが見当たらない、周り一面が宇宙のような青い空間だ。

 わたしは、海の中を漂っているかのように浮かんでいる。


「大丈夫! どこにも落っこちないし、溺れもしないわよ」


 もうひとりのわたしが、目の前で大きな口をあけ、けらけらと笑う。

 わたしは、彼女がまだわたしの左手を握っていることに気がついた。

 あたたかい?

 それに、すごく実体感のある手だ。


「えっと……。あなたは、鏡の中のわたしなのよね?」

「ふふっ」


 目の前のわたしは、イタズラめいた笑みを浮かべる。

 そして、うれしそうに口を開いた。


「わたしはミヤ。いつも日咲――あなたを鏡の中から見ていたわ」

「ええ? いつも、鏡の中から? わたしを?」

「そうよ。だから、こうして話ができてうれしい!」


 ミヤは、わたしそっくりの顔で笑った。

 そして、両手でわたしの両手をにぎり、ぶんぶんと振るように握手する。

 それから、思いだしたように言葉を続けた。


「あ、この空間では、日咲が着ている服とおそろいにしているけれど。願えば、どんな衣装にでも一瞬で着替えられるのよ!」


 そう言ったとたんに、ミヤはわたしから手を放して、くるりと一回転してみせた。

 たちまち、ミヤはひらひらとしたレースに縁取られたドレス姿に早変わりする。


「うわあ、すごい!」

「ね! すごいでしょう!」


 そう言ってポーズをとったミヤは、すぐにくるりと回って、わたしとおそろいの元の服装に戻る。


「でも、せっかく日咲とペアルックなんだから、いまはこっちの服装がいいわ」


 ミヤは、うれしそうに笑う。

 そのとき。


「いい加減にしてくれないかな。ミヤ。時間がないんだ」


 突然背後から声をかけられ、驚いたわたしは飛びあがった。

 そしてようやく、この青い空間にもうひとり、別の誰かがいることに気がつく。

 振り返ると、あきらかに不機嫌そうな表情を浮かべた男の子が立っていた。


 わたしよりも年上で、たぶん中学生くらいだろうか。

 まるで人形かと思うくらい整った顔をした、カッコイイというより、きれいな男の子だ。

 ハイネックの白いセーターに細身の濃紺パンツ。

 ポケットのついた、薄手で長めのチェスターコートをはおっている。

 まるで雑誌から抜けでたモデルみたい。


「あ、ごめんごめん。うれしくって、つい」


 叱られたミヤは、けろりとした表情で、赤い舌をぺろっと見せる。

 そして、男の子がいることで固まっていたわたしに向かって口を開いた。


「日咲。彼はイツキ。時間がないから単刀直入に言うね」

「え? なに……?」


 こわごわと聞き返したわたしの前で両手を合わせると、ミヤは笑顔で告げた。


「日咲。これから、わたしとイツキのお手伝いをしてほしいの。お願い!」

「え? これから? お手伝いって? どんなこと?」


 呆気にとられながら、わたしは聞き返す。

 すると、苛立ったような口調で、イツキが答えた。


「ミヤの推薦があったら、きみに手伝ってもらおうと思ったんだ。足を引っ張る真似だけはするな。もう時間がないから行くぞ。説明は向こうについてから改めてする」


 そして、イツキは泳ぐように、青い空間の中を移動しはじめた。


「わたしたちも行こう。日咲」


 そう言って、ミヤは右手でわたしの左手を取る。

 そして、イツキのあとを追いかけるように泳ぎだした。

 手をつないでいるから、わたしとミヤははぐれない。

 それに、バタ足で思う方向に進めるみたいだ。


 ふと気になって振り返ると、わたしが鏡の中へ入ってきた楕円形の白い穴が、遠くなっていく。

 離れていく不安が表情に表れたのか、ミヤが声をかけてきた。


「大丈夫! ちゃんと送り届けるわ。それに、この鏡の中にいるあいだは、時間は止まったままだから安心よ。元の世界に戻ったら、時間が進みだすわ」

「え? 時間も止まっているの?」

「そうよ。だから安心してね」

「うん」

「ねえ、日咲。あなたって左利きでしょう?」

「え? ――うん」


 わたしは、小さくうなずく。

 すると、いまさらながら、ミヤは大きな発見をしたように、目を見開いて言った。


「わたしは右利きなの。前髪の流れる方向も、あなたと逆なのよ。本当にわたしたち、鏡に映っているみたいに左右対称なのよね」


 そして、面白そうにくすくすと笑った。


 暗くて青い空間の中は、落ち着いて見渡すと、白くて四角い穴がいくつも浮かんでいる。

 宇宙の中の、大小に輝く星のようだ。

 そのなかで、赤い光があふれた四角い穴が、イツキの前方に、ぽっかりと開いているのが見えた。その赤い光が、しだいに大きくなってくる。

 やがてイツキは、辿り着いたその穴に手をかけると、一気に向こう側へ飛びこんだ。


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