おとなたちにはナイショだよ? ~鏡の中のメルヒェン~
くにざゎゆぅ
鏡の中のわたしが勝手に動いた!
「
「うん、また明日ね」
クラスメイトの女子が、まだ椅子に腰をおろしたままのわたしたちに向かって、元気に手を振りながら教室を出ていく。
わたし――
親友の
一緒に帰るわたしは、早智の隣で待っている。
五月の連休が終わった、爽やかな季節。
わたしと早智は、小学五年生の一組。通う小学校は、一学年二クラスで、五年生にもなると、同じ学年で知らない子がいない。
とくにいじめもない、平和でのどかな小学校だ。
ようやくランドセルに教科書を入れ切った早智が、わたしの横で勢いよく立ちあがった。
「日咲、お待たせ! 帰ろうか」
「うん」
わたしもうなずいて立ちあがる。
そして、机の上に乗せていたピンクのランドセルを、よいしょと背負った。
わたしと早智は、並んで教室を出る。
そして、ゆっくり廊下を歩いていると……。
急に後ろから、わたしはふたつにまとめていた髪の片方を引っ張られた。
「きゃあ!」
びっくりしたわたしは、髪を押さえて悲鳴をあげる。
そんなわたしを、後ろから追い抜きざまに、ガキ大将の
「日咲! 明日はドッジボールで、オレの足を引っ張るんじゃねーぞ!」
そして、そのまま流星は、子分の男の子を数名引きつれて駆けていった。
「もう! 男の子って乱暴なんだから!」
流星の姿が見えなくなった廊下の向こう側に向かって、早智は、こぶしをあげる。
それから振り返ると、早智はわたしに、ぷくっと頬をふくらませた顔を見せた。
「大丈夫? 日咲」
「うん」
自分の代わりに怒ってくれた早智へ、わたしは情けない笑顔を向ける。
早智は、黒髪でさらさらのショートボブがトレードマークだ。
わたしは、少しクセのある栗色の髪を、耳の後ろでふたつに結び、お気に入りの赤いシュシュをつけている。
引っ張られて形が崩れた髪を、わたしはゴムで縛りなおした。
そのゴムをおおうように、赤いシュシュをつける。
わたしは、とくにいじめられているわけではない。
流星は、勉強は良くも悪くもないが、運動神経が飛びぬけていい。
ちょっと目つきが鋭くて野生児っぽいけれど、よく見たらカッコいいと女子のあいだで評判の男子だ。
五年生の中では、女子も男子も逆らえない威圧感があるリーダー格――ガキ大将となる。
そんな五年生はみんな、男女ともに仲がいい。
休み時間は、ほぼクラス全員でドッジボールをしている。
三十人ほどのクラス内でふたつに分かれて、「日」という字のコートで中の人にボールを当てる、あのドッジボールだ。
ドッジボールでは「命」がひとりにひとつ与えられる。
そして、この小学校の特別ルールで、ボールを当てると、この「命」が当てられた人から当てた人へ移動する。
当然、ドッジボールに強い子はいくつも「命」を持つし、数が増減しない「命」であるため、何日も何週間も、休み時間ごとにドッジボールは継続されていく。
ドッジボールが終わるときは、「命」が片方のチームへ全部移るか、さすがにみんなが飽きてきて「そろそろドロケイにしようぜ」と声があがったときだ。
わたしは今日の昼休み、同じチームである流星からの外へのパスボールを受けそこねて弾き、相手チームにボールを渡してしまったのだ。
そのせいで、境界線ぎりぎりにいた流星が速攻で当てられ、四個持っていた「命」が三個に減ってしまった。
流星は、そのことを怒っているのだろう。
「仕方がないよ。わたし、ボール球技って、本当に苦手だから」
「それでも、流星のあんな言い方ってないよね。髪を引っ張るなんてひどい!」
「あ……。でもびっくりしただけ。痛くなかったし」
そう言って、わたしと早智は、ふたたび廊下を歩きだした。
わたしには、秘密がある。
でもそれは、周りからすれば小さなことだろう。
けれど、わたしにとっては、人生と日常生活を左右する大きなことだ。
わたしは、利き手を矯正しているのだ。
左利きから右利きへ。
小学校に入る前に、それまで握り箸だった左手を、正しい持ち方の右手に変えた。
並んで食べたときに、隣同士でぶつからないようにするためだと教えられた。
もうひとつは、文字を書く手を右手に変えた。
これも、日本語の文字の流れは右手がよいと教えられたからだ。
だからわたしは、ドッジボールでも右手で投げている。
これが、不格好でコントロールの悪い理由だと自分でもわかっていた。
けれど、五年生の中で、ほかに左利きの子がいない。
わたしはひとりだけ目立ちたくなかった。
小学校の門を出て、歩いて十分ほどで分かれ道にくる。
そのとき、思いだしたように早智が口を開いた。
「ねえ日咲、明日は、音楽の時間に歌のテストだったよね」
「うん」
わたしは、たちまち笑顔になって返事をする。
なぜなら、わたしは歌が好きだから。
引っ込み思案であがり症のわたし。
なにを言えばいいのかわからなくなって、おろおろすることが多い毎日。
そんな、なかなか思ったことが口にできないわたしだけれど、決まった歌詞なら、安心して歌うことができる。
そして、意外と大きな声を出すことが気持ちいい。
「日咲は歌が好きだものね。あたしは苦手。人前で歌うのって恥ずかしい」
「わたしも人前で歌うのは恥ずかしい……。けれど、テストだもの。全員が順番に歌わなきゃいけないから、頑張る……」
「日咲って、内気なわりには、いざというとき度胸があるよね」
アハハと声を立てて、早智は笑った。
つられてわたしも、大きな口を開けて笑う。
「それじゃあ、またね!」
「また明日」
わたしと早智はお互いに手を振って、それぞれの道を歩きだした。
「ただいま」
「日咲、おかえり」
わたしが玄関のドアを開けると、これから出かけようとするお母さんと鉢合わせた。
「おかあさん、いまから夕食のお買い物?」
「そうよ。今日はミンチが特売だから、ハンバーグにするわね」
「やったあ。ハンバーグ、大好き!」
「家に入ったら一番に、ちゃんと手を洗うのよ」
「はーい。いってらっしゃい」
出かけていくお母さんを見送ったわたしは、靴を脱いで家の中にあがった。
わたしが小学校に入学するころ、会社員のお父さんが手に入れた一戸建ての家だ。
一階にダイニングキッチンとお父さんお母さんの和室、お風呂とお手洗いと洗面台。二階には、一人っ子であるわたしの部屋と物置になっている部屋がある。
わたしは、階段の一番下の段にランドセルを置くと、洗面台に向かった。
石鹸をしっかり泡立てて、手を洗ってからすすぐ。
ぴかぴかになった手をタオルで拭きながら、わたしは鼻歌まじりに正面の鏡へ目を向けた。
平均的な身長と体重。
丸顔に、丸い目と普通サイズの鼻、小さめの口。
栗色の長めの髪は、赤いシュシュでふたつに結ばれている。
早智のようなつやつやの黒髪ではないし、彼女みたいな黒目がちで切れ長の目でもない。
それでも、それなりに、わたしは自分の顔は気にいっている。
でも、もう少し、早智のような表情の豊かさがあればいいかな?
そんなことを思いながら、わたしは鏡に向かって、唇の両端を両手の人差し指で、くいっと押しあげてみた。
おお、いい感じじゃない?
なんて自分でほめながら、本当に鏡の中の自分へ微笑みかけようとして。
――そして、わたしは気がついた。
鏡の中のわたしが、わたしに向かって片目をつぶってみせたのを。
「――ひゃあ!」
悲鳴をあげたわたしは、腰が抜けた。
その場で尻もちをつく。
床の上に座りこんだことで角度が変わり、鏡の中のわたしは見えなくなる。
けれど、立ちあがって、もう一度鏡の中をのぞきこむ勇気なんてない。
第一、腰が抜けて立てない。
初体験だよ! 腰が抜けるなんて!
わたしは這うように、わたわたと洗面所から逃げだして、廊下へ転がりでた。
「なんだったの? あれ、鏡の中のわたしが、勝手に動いていた?」
いつまでも座りこんでいるわけにはいかない。
落ち着いてきたわたしは、壁に手をついて、よろよろと立ちあがる。
そして、ランドセルを片方の肩にかけると、どうにか階段をのぼった。
自分の部屋を目指すわたしには、乗り越えなければならない試練がある。
それは、わたしの部屋には大きな姿見があるからだ。
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