ジラ、またはウィリたち
芳岡 海
ジラ、またはウィリたち
アントンの姿を最後に見たこと、わたしは誰にも言うことができませんでした。
村の青年が姿を消してひと月が経っていました。
相変わらず、大人たちは低い声でひっそりといろんなうわさをしていましたが、わたしは母や姉にまとわりついてうわさを聞き出す気にはなれませんでした。
町から村に黒い車でえらい人がやって来ても、父が村の代表としてえらい人と話をしているときも、彼を最後に見たのは誰かとえらい人がみんなに向かってたずねても、わたしは何が起こったのか何もわからないという顔をしているだけでした。
おしゃべりで、知りたがりで、知っていることは何でも人に話して聞かせないと気がすまない子だったわたしが、です。
アントンは、村のはずれで森番として暮らしていました。若く、健康な青年でした。
優しくてユーモアがあって、みんな彼のことが好きでした。気むずかしく厳格な村のおじいさんも、わたしを見れば「お行儀が悪い」とか「お祈りに来なさい」と口うるさいおばあさんも、彼には優しく笑顔になりました。
手に工具を持って、物を作ったり木の手入れをしたり、たのまれて屋根を修理する彼の姿は村でいつでも見ることができました。
「そんなはしごを使わなくたって、あたしなら屋根にも木にも登れるわ」
勝ち気でおてんばなわたしがそんなことを言うと、彼はいつも陽だまりのような笑顔で笑ってくれました。
姿を消したアントンを、大人たちは遠巻きにうわさをしました。夜の森でウィリに誘いこまれたのだ。きっと、ジラが妖精になったのだと。
ジラのことはみんな泣きました。
ジラはアントンの婚約者でした。美しく優しい娘でした。しとやかで、いつも家で裁縫をしていました。白い肌で絹糸のようにほほえんでアントンを見つめていました。
かわいそうなジラ。みんながそう言いました。優しいけれど体の弱い人でした。その春先、数日続いた冷たい雨で体を壊して死んでしまったのです。花嫁姿をアントンに見せることなく。
かわいそうな二人。弱い胸いっぱいに、たくましい胸いっぱいに、お互いの愛を抱えていました。アントンが彼女を見つめるときの目は深く優しく、森の奥でひっそり水をたたえる湖の色をしていました。
ジラが死んで、森の前のお墓で、村のみんなで彼女にお別れを言いました。
アントンは優しくほほえんで人々の中に立っていました。いつもの陽だまりのようなほほえみはありませんでしたが、アントンは強いから大丈夫だ。みんなそう思っていました。
「帰り道は暗いから気をつけて、と、私にそう言ってくれたのよ」
ジラのお母さんが言いました。その日の夕暮れのあとから、アントンを見た人はいません。
妖精ウィリの伝説は、この村の誰でも知っています。
古い言い伝えです。結婚前に死んだ娘はウィリという妖精になり、夜の森を舞いおどり、若い男を誘いこんで死ぬまでおどらせ続けるというのです。
アントンがいなくなって村の人たちはうわさをしました。ジラはきっと夜の森を舞っている。妖精になって。葉っぱを透かす月明かりの下で。アントンは誘いこまれたんだ。
わたしは勝ち気でおてんばで、学校の成績だって優秀でした。村のことも森のことも何でも知っているつもりでした。そしてわたしの両親は新しいもの好きでした。何しろ村で最初にカメラを買って写真に写ったのはわたしの父なのです。
だからわたしは思っていました。妖精なんて作り話よ。たくましいアントンに古い言い伝えなんて似合わない。彼は一人になりたくて森にこもっているだけよ。
アントンの姿を最後に見たこと、わたしは誰にも言えませんでした。
それは夜の始めでした。
わたしは窓から月明かりを見ていました。アントンが五日も留守にしたままだと、大人たちがざわつき始めた頃でした。
わたしは村のことも森のことも何でも知っていたので、見つからずに家を抜け出ることもできましたし、どんな近道も知っていました。
森へ行こう、と思い立ちました。もちろん見つかれば叱られることはわかっています。
きっとわたしは探偵気分だったのです。森のことも彼のこともわたしにはわかるわ。言い伝えや迷信でうわさ話ばかりする大人たちとはちがう。自分の目で確かめよう、と。
外は満月でした。
森の小道は静かでした。森中が満足して眠っているかのようです。
大きな木々におおわれた森の小道はくらやみですが、わたしなら目をつぶっていたって歩けます。
小道を進むと、森の中に少しだけひらけた場所がありました。
そこに水がしたたるように月の光が落ちていました。光は白く、くらやみは濃くあたりを満たし、まるで世界にそれしか色がないようでした。くらやみが音まで包んでしまったように静かでした。
今思えばなぜそこに足が向いたのかわかりません。なぜそこで目をこらしたのか。アントンに出会えると思っていたのか。彼の、陽だまりのような笑顔に。
人影、というよりそれは光が動いたようでした。月の光がふわりとゆらぎました。光はふっと止まり、またゆらぎ、わたしがまばたきをひとつするあいだに姿となりました。
人の姿と気づいたのは、もう一人いたからです。
アントン。
わたしは暗い小道から見つめました。
光と影のように寄り添い舞いおどる、二人の姿が見えました。光はジラでした。絹糸のように控えめなジラは月の光そのものでした。消えそうに、けれども確かにくらやみを照らす月の光はジラそのものでした。
二人には喜びも悲しみもありませんでした。ただおどることがすべてというように。アントンのたくましさも、ジラのか弱さもありませんでした。白い光が夜に満ちていました。
二人はかわいそうだったのでしょうか。
おかしな話ですが、妖精のジラは今までで一番生き生きして見えました。弱い体から解き放たれ、愛だけを抱える存在となったジラ。たくましいアントンに守られるか弱いジラではありませんでした。
彼女に寄りそうアントンは不安や悲しみから解き放たれ、世界の誰より自由に見えました。
それが幸せでないと、誰が言えるのでしょうか。
誰より早く走れたり、高い木に登れるのが強いと思っていたわたしに、何でも知っているつもりの探偵気分だった子供のわたしに、それは二人が見せてくれた愛の強さでした。本当の心の強さでした。
二人の姿を、わたしは誰にも言うことができませんでした。
ジラ、またはウィリたち 芳岡 海 @miyamakanan
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