第2話 美人の微笑
青。
美術界において、この色は聖母マリアを初め、「神」に関する数少ない聖なるものにしか使われない。逆に、赤や黄色、緑と言ったものは、マグダラのマリアなど、「卑しいもの」に良く使用される。
芸術という、本来貴賤のないものでも、描かれるモチーフではなく、絵の具にも「格」があるのである。
「教授、この絵は男性ではありませんか?」
「うん?」
アテネの小さな大学で美術を研究している教授の元に、受講生が小さな絵を持ってきた。教授はぎょっとして、一体どこでその絵を手に入れたのか、と問い詰めた。受講生は、教授の部屋に質問に行ったところ、鮮やかな復元をされているこの小さな絵を見つけたのだという。
「それは、研究するに値しないものだ。」
「何故でしょうか? このサインは初期の頃のミケランジェロの特徴をよく捉えています。私の卒業論文に使いたいです」
「だ、ダメだダメだダメだ!! それだけはダメだ!! 君の画家としての人生が絶たれる!!」
「そうでしょうか? この絵は素晴らしいと思います。絵の中の男性を思慕し、敬愛している様が伝わってきます。私のような青二才でも分かります。」
教授はその後も許可を出さなかったが、学生は譲らなかった。とうとう教授は根負けし、「卒論のロジックを組み立てる材料にならしても良い」と、譲歩した。
「嗚呼イースス、私はどうしたら…。」
しかし、教授の必死の説得も虚しく、学生はその絵を「初期のミケランジェロの作品」として、論文に取り上げてしまった。
その結果、学生は卒業も取り消しとなり、指導教授諸共美術界を追放された。
―――これは、擬古調の現代絵だ。現代絵だとしても、まだ道のスプレーの方がアーティスティックだ。
―――青の顔料にラピスラズリを使っていないことも見抜けていない。
―――指導教授は何故止めなかったのか?
散々な言われようだったが、そこはまあ、卒業論文を書き直せば良いだけの話だったのだ。
しかし学生は反論した。
「私は、この絵の青の使い方について、初期ミケランジェロの思想から論じたのです。この絵の作者が誰かなどどうでもいいことです。この絵に論文を書かせるだけの情熱が入っていた、だから私は、この絵について論じているのです。ミケランジェロが複数人いて、何が悪いのです。芸術が溢れることのない権威主義社会は人を貧しくさせます。家に籠ってプレイステーションすらしなかったのですか。」
こんな感じのことを、理路整然と反証したので、学生はクビが決まった教授と、後追い心中したのである。
「このバカモノが。」
「すみませんでした。」
「反省しておらんだろ。」
「もちろんしていません。」
「何故卒論にしたのだ。」
「私惚れ込んだので。」
「人生終わりだな。」
「それほどでも。」
世の中の冷たさを知らない学生は、アレから教授のもののはずの小さな額縁を手放さなかった。カバンに入れられるサイズなので、破損対策をして持ち歩いているのである。
「私はこの絵に会えて良かったんです。この絵の良さを、作者や時代で潰してしまうなんて本当の芸術家じゃありませんよ。良いものは良いのです。」
そういうのは、美術研究家ではなく、美術家にやらせるべきなのだが、それでも彼は自ら筆をとることはしない。結局美術研究の場からは追われたものの、この絵の研究をする、と、持っていかれてしまった。
1人の青年を、見る目のない馬鹿物にしてしまったことを恥じ入るばかりで、教授は教会に行った。
教会で彼を出迎えた司祭は、私服のように、金色の刺繍が施された祭服を着こなしている。事の次第を聞き、司祭がふむふむと真剣に聞いている傍で、彼の親族が微笑ましく見守りながらも、笑いをこらえている。
「一体誰が、自分の青二才のころの絵を教え子が卒論にすると思いますか…。」
何度目かのため息に、司祭は苦笑しながらお代わりを淹れる。正味、教授よりも、司祭のほうがコーヒーを飲んでいる。
「何年前だっけ、あの絵を描いたの。」
「忘れもしません、13歳の夏、「石を砕いた絵の具」の再現をしたくて、着色した木炭を砕いて疑似絵具を作ったんです…。自分で描いたものなのに、妙に気に入ってしまったのと、自分の美術史への原点を忘れないように持っていただけなのに…。」
「ははは…。」
司祭は冷や汗が止まらなかったが、そこに、先程からいた彼の兄が口を挟んだ。
「それほど、教会で
「まあ、そうなんですが…。」
シャラップ!! と、司祭が後頭部だけで兄に怒鳴る。兄の姿は、教授には見えていないし、声が違うこともわからないようだ。
「でも、教え子は確かに、研究者としての道を断たれたかもしれませんが、貴方の意思は伝わったじゃないですか、ミケール。指導者としてこの上ない名誉だと思いますよ。」
「よりにもよって、「ミケール」というサインを、ミケランジェロっぽく描いたところが決め手となるとは…!!!」
誰でもあるから、という言葉は、ちょっと言えなかった。
「どの道一般企業では退職する年齢だ。これを期に、また絵を描いてみたらどうだ?」
「そうですね…。それが良いかも知れません。ミケランジェロに憧れたミケールではなく、ただのミケールとして。完成したら、お持ちしますよ、司祭様。」
「いえ、お気持ちだけで。」
「いやいや、これは懺悔でもありますから。必要ないようでしたら、会館にでも飾ってください。」
教授はそう言って、少し元気を出して帰っていった。
「…はて? 司祭様には、先客がいたのだろうか?」
自分が出ていき、誰もいないはずから、喧嘩する声が聞こえた。
それから教授は、無心に絵を描いた。
青と金の祭服を来た司祭と、その横に立つ白いローブの神父。そして二人を見守る金髪の初老の男。
「…はて?」
あの時の応接間でのことを思い出しながら、一心不乱に描いた絵なのに。
この見知らぬ二人はだれだろうか?
初老の男は、首から真鍮の鍵を下げているが、首座使徒ペトルは鍵を「持つ」のであって、身につけているはずはないのだが…。
無心の筆先に宿った、謎の人物二人。もしかしたら彼らは、あの場で祝福しにきた、何か人でないものだったのかもしれない。
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