最終話

「それより、まだ残ってた荷物を取りに部屋に行ったら、もう住んでないって言われるし驚いたわ。お前さ、どこに引っ越したんだ?」


 僅かに残されていた荷物まで持ち出して換金するつもりだったと言われ、開いた口がふさがらない。あれは全て穂香の私物で、彼の物は一つも無い。あまりの衝撃に、穂香はワナワナと手を震わせるばかりで、返す言葉が思いつかない。


 と、車の中から二人の様子を伺っていた川岸が、エンジンを切ってから車を降りてきた。聞こえて来た会話から大体の状況は把握したらしく、穂香の隣に寄るとそっと腰へ腕を回して身体を支える。怒りから気が動転しそうだった穂香は、川岸の存在に冷静さを取り戻した。


「彼が、例の?」

「そうです」


 耳元でそっと囁くように確認してきた川岸は、栄悟を挑発するかのように「ふーん」と目の前の男へと品定めするような視線を送る。Tシャツとカジュアルパンツにジャケットを合わせて、一時期によく見かけたIT系経営者ファッションのつもりだろうか。ジャケットのサイズが微妙に合っていないから、どことなく安っぽさを感じさせる。これなら、自宅から車で出て来ただけの川岸の方が、よっぽど印象がいい。


「どうする? うちの会社がお願いしてる弁護士なら、すぐ紹介できるけど」


 川岸が口にした言葉に、向かいの栄悟がギョッとした顔をする。


「穂香なら、そんな細かいことは言わないだろ? ってか、お前誰だよ?」

「今、彼女と一緒に住んでる者だけど? 君こそ、荷物を持ち逃げした後、何をやってるのかな? 駅で彼女のことを待ち伏せまでして」


 あまり余裕なさげな栄悟に対して、川岸は落ち着いた声で詰め寄る。でも、数週間が経ってほとぼりは冷めたと開き直っているのか、栄悟は少しばかり得意げに話し出す。


「知り合いと、駅向こうのビルでバーを始めたんだけどさ、また二人で飲みに来てよ。たまたま安い居抜き物件を見つけてさ。手付けを急かされたせいで、まぁ穂香には迷惑掛けちゃったけど、その分サービスするよ。結構、内装とかもデザイナー入れて作ったから、ほらショップの打ち上げとかに使って貰ってもいいし」


 拘りの設備について自信ありげに語り始める栄悟に、川岸が眉を潜める。胸ポケットから出して手渡されたショップカードは、確かに雰囲気の良さを感じさせる。だが、川岸が栄悟へと同情的な視線を送る。


「このビルって確か、その内に解体される予定だよね。駅前の開発計画エリア内だから、さ来春には更地になってるんじゃないか」

「はぁ?!」

「物件を見る前に、まずは信頼できる仲介業者を確保しないと。彼女のことを騙したつもりが、君自身が騙されてたってことだね。ま、年内いっぱいは営業を続けられるだろうし、せいぜい今の内に稼いで次の物件を探すんだな」


 川岸は親の代から引き継いだ店を5店舗まで拡大させた男だ。営業圏内の地域情報は一通り把握していて当然のこと。


「ああ、そうだ。彼女の部屋の合鍵は返してあげてくれるかな。あと、荷物を勝手に持ち出した時に床をかなり傷付けていったみたいだから、その補修代金は店へ請求書を回して貰うね。今日は君の連絡先が判明して良かったよ」


 茫然とする栄悟のことは放って、穂香の腰に手を回したまま愛車へと踵を返す。川岸にエスコートされ、助手席へと乗り込んだ穂香は、歩道の上で頭を抱えて項垂れ始める元カレのことを、哀れみの目で眺めていた。


 エンジンをかけ直し、静かに走り始めた車の中。穂香自身もいろいろと頭が混乱していたせいで、マンションの駐車場につくまでぼーっとしてしまっていた。栄悟から回収できた合鍵を握りしめたまま、ずっと窓の外を眺めていた。

 自走式の駐車場の契約スペースに車を停めた後、川岸がぽつりと呟く。


「ごめん。俺、すごく大人げなかったかも」


 ハンドルから離した左手で、前髪をクシャクシャと掻いて、恥ずかしそうに笑っている。


「君の元カレだと思うと、つい……」

「いいえ、オーナーが居てくれて良かったです。でないと私、あいつのこと数発は殴ってました」

「数発って……一発どころじゃないんだ」

「はい。一人じゃきっと冷静でいられなかっただろうし。オーナーの顔見たら、ホッとしたって言うか」

「それなら良かった。それよりその、オーナーって呼ぶのは、いつ止めてくれる? 堅苦しい呼び方は嬉しくないな」

「え……じゃあ、私のことも名前で呼んで下さい。隼人さん」


 身体ごと向きを変えた穂香が、少し照れながら男の下の名を初めて口にする。川岸は自分のシートベルトを外して、その両腕を伸ばした。助手席に座ったままの穂香のことを愛おしそうにギュッと強く抱きしめながら、耳元で優しく囁いてくる。


「穂香。ずっと、ずっと傍に居て欲しい」


 ― 完 ―

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ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました 瀬崎由美 @pigugu

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