わたしは愛を疑わない

花散ここ

わたしは愛を疑わない

 薄曇りの、春の午後。

 昨日までの麗らかな陽射しはどこに行ってしまったのか。風も冷たくて、最近の陽気で咲いた花達が揺れているのも、寒いと身を震わせているように見えた。


 春にしては冷える日だった。

 そんな寒さを感じる貴族学院の回廊で、わたしは少し前を歩く二人組をぼんやりと見つめていた。自分の髪を彩る、花を模した髪飾りに触れながら。


 制服に身を包んだ生徒の一人は、パウラさん。可愛らしい人で、よく手入れされた黒髪には繊細で美しい髪留めが飾られている。

 そのパウラさんの隣に居るのは、レオシス・ローヴァイン様。公爵令息で、わたし──エミリア・フューラーの婚約者だ。


 二人は仲睦まじげに笑いながら歩いている。パウラさんの頬は薔薇色に染まっていた。それを見ているだけのわたしは、傍から見たら滑稽に見えるのだろうか。

 そんな事を考えていたら、不意に強い風が吹いた。


 風にバランスを崩したのか、高い悲鳴をあげながら、パウラさんがレオシス様の腕に抱き着いた。その拍子にレオシス様の顎辺りまであるピンクの髪がさらりと揺れる。

 頬を染めてレオシス様を見上げるパウラさんは、恋する乙女の顔をしていた。


「エミリア様、そろそろお声掛けをしたほうが……」


 わたしと共に回廊を歩いていた友人達が非難の声をあげはじめた。

 広がる騒めきに、わたしは片手をすっと上げる。それだけでこの空間は静まり返った。


***


 わたし、エミリア・フューラーは侯爵家の長女である。

 レオシス様と婚約を結んだのは、まだ幼い頃だった。ピンクの髪が春風に揺れて綺麗だった。琥珀の瞳がわたしを見つめて嬉しそうに細められる。

 その一瞬で、わたしは恋に落ちていた。


 関係は良好だった。

 お互いを思いやり、レオシス様もわたしを大事にしてくれていた。その瞳に宿る熱はわたしと同じ温度だった。

 どこに行くにも一緒だった。傍に居るのが当たり前だった。


 その距離が変わってしまったのは二週間前。

 希少な聖属性の魔力を持つ人が見つかった事に始まる。ここで問題だったのは、その人──パウラさんが十七歳になるまで属性検査を受けていなかったという事だ。


 魔法国家であるこの国では、幼少期の属性検査は義務と定められている。

 属性に合った教育を施していく事が目的なのだけど、平民の中にはその検査を受けられない者もいる。

 今回見つかったパウラさんは、家の手伝いをする貴重な労働力だった為に、属性検査を受ける事が出来なかった。珍しい属性持ちとなれば教育の為に学校に通わなければならない。彼女の親は、それを厭うたのだ。


 十七歳になっても魔力制御の方法も知らない彼女は魔力を暴発させ、神殿に保護された。そこで希少な聖属性持ちだと判明したのだという。


 一般的な属性持ちだったら、魔法教育を受けた後に家に帰る事も出来たかもしれない。

 でも聖属性持ち、しかも親は国民の義務を果たさなかったとして処罰を受けている。そんな家にパウラさんを帰す事は出来なかった。


 そこで国王陛下は臣下に、彼女を受け入れるように命令をした。

 それがローヴァイン公爵家、わたしの婚約者の家である。


 ローヴァイン公爵家は、分家の伯爵家でパウラさんを受け入れる事にした。しかし育ってきた環境が違い過ぎる。

 まずは貴族学院で、貴族としての常識や振る舞いを身に着けた後に養女となる事となった。

 不慣れなパウラさんをサポートする為に、レオシス様が世話係を務める事になって……わたしとレオシス様が学院で過ごす時間は減ってしまった。


***


「ねぇレオシス様、今日は一緒にお出掛けしてください。宝石の目利きが出来ない事でちょっと苛められちゃって……本物を見たら少しは分かるかなって思うんです」


 鈴の鳴るような、可愛らしい声だった。

 レオシス様の腕に抱き着きながらそう甘えるパウラさんは、可愛らしく見えるのだろう。

 

 彼が何かを答えるよりも早く、わたしは持っていた扇を閉じた。パチン、と強い音が回廊に響く。

 その音に気付いた二人が、わたしの方へと振り返った。


「エミリア」

「……きゃっ!」


 レオシス様はわたしを見て、嬉しそうに微笑んでいる。わたしが好きな、穏やかな笑み。

 パウラ様は悲鳴をあげて、レオシス様の後ろに隠れてしまった。レオシス様の制服をぎゅっと掴み、わたしへと怯えるような視線を向けてくる。


 まだ何も言っていないのだけど。

 そう思ったのはわたしだけじゃないようで、友人達から怒気が上がるのが分かった。


「レオシス様、パウラさん、ごきげんよう」


 閉じた扇を持ったままで二人に歩み寄ると、パウラさんがまた悲鳴を上げた。


「パウラさん、以前からお話をしているのだけど……お耳に入っていないのかしら」

「そんな言い方、ひどいです!」

「ではわざと聞き入れていないのね。何度でも言うけれど、婚約者の居る男性に触れる事は控えた方が宜しいわ。今まではそれも許されたかもしれないけれど、ここは学院。貴族子女としての振る舞いのお話よ」

「えっ、でもこれくらい全然普通じゃないですか? 皆さんの考え方が古いっていうか……」


 いつの間にかレオシス様がわたしの隣に移動してきている。

 パウラさんはそれに気付いて少しだけ眉をひそめるも、すぐに泣き出しそうに表情を歪めた。庇護欲をそそるんだと、クラスで誰かが言っていたっけ。


「あなたは貴族としての振る舞いを学ぶ為に、ここに来ているのでしょう。あなたの行動がそれに相応しいものなのか、今一度振り返ってみたらいかがかしら」

「そんな言い方ひどいです! そんな意地悪だからレオシス様に嫌われちゃうんですよ!」


 パウラさんの甲高い声が耳に響いて不快だった。

 それはわたしだけじゃなかったようで、隣に立つレオシス様の機嫌が急降下していくのが分かる。ちらりとその表情を窺い見ると、いつものように微笑んではいるけれど……目が笑っていない。

 わたしの視線に気付いたレオシス様が、わたしを見下ろしてにこにこと笑う。わたしの大好きな表情だった。


「パウラさん、レオ様がわたしを嫌うわけないのよ」

「はぁ⁉」

「見たら分かるでしょう。こんなにもわたしの事が好きだって、そういう顔をしているのが」


 レオシス様がわたしを嫌いになるなんてありえない。

 わたしは彼に愛されてきた自信があるもの。わたしの気持ちだって、レオシス様には真っ直ぐに届いている。


 パウラさんは憎々し気にわたしの事を睨んでいる。先程までの可憐な様子は一切ないけれど、いいのだろうか。


 レオシス様はわたしの事を背中から抱き締めて、機嫌よく笑う。先程までは風が冷たかったのに、いまはもう寒くなかった。


「俺の婚約者が超絶可愛い」

「どこでそんな言葉を覚えてくるんです?」

「いま流行りの恋愛小説」

「そんなセリフあったかしら」


 大袈裟に溜息をついて見せると、レオシス様が低く笑った。吐息が首筋にかかって擽ったい。


「待って、レオシス様……あたしの事が好きなんじゃ……。あたしとずっと一緒に居てくれたのに……」


 パウラさんはわたしを睨みつけたまま、小さな声でそんな事を口にする。

 わたしを抱き締めるレオシス様の腕に、力が籠もった。


「レオ様があなたと一緒に居たのは、あなたの世話係に任命されたからでしょう」

「そう、王命だから断れなかった」

「嘘よ、そんなの。だってあたし達の関係は命令されたものじゃなくて……」

「命令よ。勘違いも程々になさいな」

「いつだってあたしに笑いかけてくれたわ!」

「レオ様はいつだって微笑んでいるけれど。わたしに向ける笑みと違うのなんて見たらわかるでしょうに」


 ゆっくりと開いた扇で口元を隠し、溜息をつく。

 これで自分の振る舞いを正してくれるといいのだけど。別に彼女を苛めたいわけではないのだ。

 貴族として生きていくのなら、それ相応の術を身に着けた方がいい。貴族には果たさなければならない責任があるのだから。


「何の騒ぎだ!」


 大きな声に、またひとつ深い溜息が漏れた。わたしの肩に頭を乗せたままのレオシス様も同じように溜息をついているから、なんだかおかしくなって少し笑った。


 回廊の向こうからやってきた一団。その先頭を歩くのは第一王子のスヴェン殿下だった。その後ろには彼の側近候補の令息達が付き従っている。

 レオシス様もスヴェン殿下の側近候補であるのだけど、学院内で侍る事は少ない。学院だとレオシス様はいつも、わたしの傍に居てくれていたから。


「スヴェン様!」


 パウラさんはスヴェン様へ駆け寄ると、その腕にぎゅっと抱き着いた。

 その様子にわたしの友人達が騒めくけれど、まぁこれもいつもの事だ。


「どうしたパウラ、泣いているではないか」


 泣いていたかしら。

 そう不思議に思うと、レオシス様も同じ事を考えていたらしい。わたしを腕に抱いたまま首を傾げている。


「えっと、なんでも……ないんです」


 そう言って微笑んで見せるパウラさん。確かに庇護欲を誘い、健気な雰囲気に見えるのだろう。

 何かあったのは間違いないのに、それを押し隠して気丈に微笑む美少女。彼女の演じる役割はそんなところか。

 それに対峙するわたしは──さながら悪役令嬢だ。最近の恋愛小説には定番のお約束。


「無理をしているのだろう。おいレオシス、お前はパウラの世話係だろう。どうしてパウラの側に居てやらない」

「もう世話係もいいのではないかと思いまして」

「命令を放棄するつもりか。学院に不慣れなパウラが可哀想だと思わないのか」


 スヴェン殿下は苛立ちを隠さずに語気も強くレオシス様を睨みつける。側近候補の令息達もみな同じような表情をしていた。

 スヴェン殿下だけでなく、彼らも篭絡されているのか。


「入学してからもう二週間です。世話係もお役御免でしょう」

「まだ二週間だ! パウラがまだ馴染めていないのは、見ればわかるだろう」


 淡々としたレオシス様の声はどこまでも冷静だった。

 語気を荒げるスヴェン殿下とは対照的だ。


「スヴェン殿下、よろしいでしょうか」


 わたしは扇を閉じてから、片手を挙げて発言の許可を求めた。学院内では本来、話しかけるのに許可を取る事は必要ないとされているのだけど……スヴェン殿下はそういった事に細かいのだ。


「なんだ」

「パウラさんは学園に馴染もうとされているのでしょうか。貴族としての振る舞い、常識を学びに来ているのに、全く身についていないご様子。わたし達の考え方も古いと言われてしまっては、本当に貴族として生きる覚悟があるのかと疑問に思ってしまいますわ」

「ふん、パウラの可憐さが君達にとっては面白くないかもしれんな」


 可憐? 奔放の間違いではなくて?

 わたしとスヴェン殿下の見ているものは違うようだ。漏れそうになる溜息を飲み込むと、それに気付いたのかレオシス様が吐息交じりに笑みを零した。


「エミリア嬢、パウラが泣いている理由を君は知っているのだろう。その原因によっては私も黙っていられないぞ」

「あら、泣いているとは存じ上げませんでした。先程までは元気に囀ってらしたので」


 微笑を浮かべながらそう口にすると、スヴェン殿下に抱き着いたままのパウラさんが怒りの形相でわたしを睨む。スヴェン殿下も側近候補の彼らも気付かない位置で。随分と器用な事だ。


「苦言を申し上げる事はいたしました。婚約者の居る男性に触れる事は控えるようにと。それから……レオシス様がパウラさんの事を慕っていると勘違いなさっているようなので、それも正しました」

「はっ、醜い嫉妬か!」


 悪態をついたのはスヴェン殿下ではなく、側近候補の一人だった。わたしを指差し、蔑むような表情は醜悪に見える。

 小さな舌打ちにレオシス様を見ると、いつもの笑みは消えていた。わたしの為に怒る彼を宥めるよう、腕をそっと撫でやった。


「嫉妬ではなく事実を申し上げております」

「まったく可愛げがないな」

「少しはパウラを見習ったらどうだ」

「その通りだな。君達令嬢はパウラに比べて可愛くないんだ」

「エミリア嬢、レオシスがパウラに惹かれているのは仕方がない。こんなにもパウラは美しいのだから」

「みんな……そんな事言ったら、エミリア様達が可哀想よ」


 側近候補達が口々に文句を言い、それに対してパウラさんははにかんだように笑う。

 スヴェン殿下も同意するように、うんうんと大きく頷いている。それを見て呆れ果てたのはわたしだけではないだろう。


 それよりも、聞き捨てならない事がある。


「皆様、正気ですの? わたしが可愛くないとおっしゃいました?」


 こんなにも可愛い、わたしの事を?


 これは自意識が過剰なわけでなく、事実だ。

 金の髪は蜂蜜のように艶めいているし、青い瞳は宝石のように煌めいている。

 肌艶もよく、スタイルだって良いと自負している。これらは毎日私を磨いてくれている侍女達のおかげだけれど。

 絶世の美女である母によく似ているわたしを見て、可愛くないと言えるだなんて……この人達に必要なのは教育ではなくて医者かもしれない。


「パウラ様とわたし、どう見てもわたしの方が美しいでしょう。確かにパウラ様は綺麗なお顔立ちをされていますが、それでもわたしの方が美しいのは事実です」

「あはははは!」


 わたしがきっぱり言い切ると、レオシス様が楽しそうに笑い声をあげた。堪えられないとばかりにわたしをぎゅうぎゅうに抱き締めて、うなじに顔を擦りつけてくる。


「美しさだけでレオシス様が想いを寄せるなら、それはわたし以外にありえません。わたしはそれを充分に理解していますので、嫉妬する事もございません」


 パウラさんは顔を真っ赤にして、何か言いたげに口を開いては閉じる事を繰り返している。スヴェン殿下も側近候補の令息達も、言葉を探しているようだ。


「皆様、わたしが美しくないと本気で仰いますの?」

「いや、たしかに……エミリア嬢は美しいが……」

「そうでしょう。わたしの事がお嫌いでも、それは事実ですのでお認めになるしかありませんわね」


 とりあえずは満足した。

 本題から随分ずれてしまったけれど、ここは譲れないのだから仕方ない。


 わたしが満足げに頷くと、わたしを抱き締めたままのレオシス様が深い息を吐いた。漸く笑いも治まったらしい。笑う所なんてあっただろうかと思うけれど。


「本当に、俺の婚約者は最高だね」

「わたしは事実を述べているだけですわ。否定はなさらないでしょう?」

「もちろん。エミリアが一番綺麗だ」

「ふふ、分かっていますわ」


 わたしを見つめる琥珀色の瞳に熱が宿っている。甘えるように髪に頬を擦り寄せてくるから、笑みが零れた。


「エミリア様、ひどいわ! そうやっていつもあたしを苛める!」

「苛めた覚えはありません。この時も、今までもずっと。わたしは事実を述べたまでです」

「スヴェン様、あたしもう耐えられない……! エミリア様をどうにかして!」

「そ、そうだな。エミリア嬢、パウラに謝罪を」

「何に対しての謝罪でしょう。わたしがパウラさんより美しい事ですか?」

「あはは! エミリア、もう本当に勘弁して。笑い死にする」


 息を荒げてレオシス様が笑うけれど、笑い事ではないというのを分かっているのだろうか。

 わたしは小さく息をつくと、笑い過ぎて咳き込んでいるレオシス様の腕をそっと叩いた。

レオシス様はわたしを腕の中から解放してくれるけれど、今度は腰に手を回して抱き寄せてくる。笑い過ぎて琥珀の瞳には涙が浮かんでいた。


「エミリア様が意地悪な事についての謝罪に決まっているでしょう!」

「あら、わたしが意地悪?」


 声を荒げるパウラ様からは、先程までの可憐な雰囲気が消え去っている。スヴェン殿下も戸惑っているようだけど、それでもパウラ様を咎めるような事はしないようだ。

 

 それにしても、わたしが意地悪なら……パウラさんはどうなのかしら。

 雲が厚くなって陽が翳る。今にも雨が降りそうな程に暗くなった回廊に、明かりが灯った。回廊の天井に等間隔に設置された明かりが、パウラさんの髪を照らし出す。


「ねぇパウラさん、素敵な髪留めをしているのね」


 わたしの言葉に、パウラさんは怪訝そうな顔をする。

 まだ伯爵家の養女になっていないパウラさんの身分は平民だ。いまは神殿預かりとなっていて、神殿は清貧を尊んでいる。パウラさんに髪飾りを贈る事はないだろう。


 では、誰から?

 婚約者のいないパウラさんが、誰から髪飾りを貰うと言うのだろう。宝石がたっぷり使われた金細工の美しい、高価なものを。


「これは……」

「誰からの贈り物かしら」

「私だ。何か問題があるというのか」


 むっとした顔で答えたのはスヴェン殿下だ。その言葉にわたしの後ろで友人達が小さな悲鳴を上げた。ちらりと後ろを振り返ると、いつの間にか人が集まっていたらしく、友人以外の人達も驚いた様子でスヴェン様を見つめている。


「問題しかございませんわ。何を思って髪飾りを贈りましたの?」

「何を……? パウラが欲しいと言ったものを贈って何が悪い」

「その髪飾り、とても高価なものですわね。パウラさんは宝石の目利きが出来ないからと苛められたなんて仰っていましたが、充分目利きは出来ていましてよ」


 そう言いながらわたしは自分の髪を彩る髪飾りに触れた。可愛らしい花はピンクトパーズで出来ている。これはレオシス様からの贈り物。


「この国で髪飾りを贈るという事が、どんな意味を持つかご存知でしょう?」


 我が国では昔から、髪飾りに想いを込める。

 家族から髪飾りを贈られるのは子どもの時だけ。成長すれば髪飾りを贈る事が出来るのは、想いを重ねた者だけだ。


 それは王族も、貴族も、平民も同じ。

 だから「知らなかった」なんて事はありえない。


「ましてやスヴェン殿下には婚約者がいらっしゃるではありませんか」

「スヴェン様は悪くないわ! あたしが、あたしが……綺麗だから欲しいって、そう言っちゃっただけなの……」


 わっと泣き出したパウラさんは両手で顔を覆っている。そんな彼女を慰める為か、スヴェン殿下はパウラさんの肩をそっと抱いている。

 後ろに控える側近候補の令息達もパウラさんに心配そうな眼差しを向けていたり、わたしを睨みつけたりと忙しい。


「パウラさんのそれって、意地悪ではないかしら」

「……は?」


 わたしの声に、パウラさんが顔を上げる。目尻が濡れているけれど、その目にはわたしへの怒りが宿っていた。

 ぱたぱたと、回廊の屋根に雨のあたる音が聞こえた。先程よりも分厚くて黒い雲がとうとう雨を落とし始めたみたいだ。


 雨脚は一気に強くなり、さあっという音を響かせている。


「婚約者のいる男性に髪飾りを強請るのは良い事? 婚約者の方から見たら、意地悪をされているみたいじゃなくて?」

「意地悪なんかじゃ……」

「婚約者を奪おうとしているのは意地悪い事ではないの?」

「あたしは、そんなつもりじゃ……」

「エミリア嬢、そのくらいにしてくれ。パウラはまだ慣れていないんだ。この髪飾りも邪な想いがあってのものじゃない。日々を頑張っている彼女への労いだ」


 さすがに分の悪さを感じ取ってか、スヴェン殿下の物言いにも先程までの勢いはない。

 自分が何をしたのかは分かっているのだろう。でもきっと、ここまで大事になるとは思っていなかったのだ。その甘さで婚約者を失う事になるのだと、きっとまだ理解していない。

 スヴェン殿下の婚約者である公爵令嬢を思い浮かべる。優秀で妃教育だってほとんど終わっているあの人が、いつまでもスヴェン殿下の婚約者で居続けるわけがない。あの人は王太子妃になる人だもの。


「いつになったら慣れるんですの? 貴族としての責任や振る舞いについて学ぶ気持ちがあるのなら、もっと真面目に学ぶ姿勢を見せても良いはずです。それに……労いだと仰いますが、あえて髪飾りを選ぶ理由が分かりませんわ」

「別にいいじゃない。だって綺麗だったんだもの」

「パウラさんの性根が曲がっているというのは理解しました」

「なっ……! ひどいわ!」


 隣でレオシス様が噎せている。拳を口元に押し当てて笑い声を堪えているようだけど、それは意味を成していない。


「レオ様、今の言葉は意地悪だったわね」

「いや、本当の事だから意地悪じゃないよ」


 意地悪な言い方をした自覚はあるけれど、わたしの事を意地悪だと言ったのはパウラさんだからまぁいいだろう。


「レオシス、君もいい加減にしてくれ。今日の事は不問にするから、パウラの元に戻るように」

「いえ、お断りします」


 深く息を吐いて呼吸を整えたレオシス様は、いつものように温和な笑みを浮かべたままできっぱりと言いきった。

 まさか断られると思っていなかったのだろうスヴェン殿下は、愕然としてレオシス様を見つめている。


「世話係というのも本当は断ったんです。陛下が条件をつけて下さったので受け入れたまでで」

「なに……?」

「パウラ嬢に学ぶ気がないのなら、世話係をやめていいと。二週間が経っても学院に慣れず、真面目に授業を受ける様子もない。もう解放されてもいいでしょう」

「では私が再度命じよう」

「いえ、お断りします」

「レオシス! 不敬だぞ!」


 スヴェン殿下が顔を赤くして叫ぶけれど、レオシス様は何も気にしていないようで表情を変える事はなかった。

 殿下の後ろに控える令息達も、何やら喚いているけれどそれもレオシス様に響く事はないようだ。


「不敬を働いた俺達は、殿下の前から消えましょう。俺を側近にという話もなくして下さって結構です。パウラ嬢をうちの分家で引き取るという話もなかった事に」

「えっ⁉ あたしは関係ないでしょう!」

「今までの話をちゃんと聞いてた? 醜聞の種にしかならない君をうちで受け入れるのは勘弁だね。君が問題を起こすようなら養女の話も無かった事にするって、もう話はついているんだ。それは君にも説明されていたけれど、聞いてなかった?」

「あたしは問題なんておこしてないわ。髪飾りの件は申し訳なかったと思うけれど、でもそれだけでしょう。これからはちゃんと真面目に貴族としてやっていける」

「うん、そういうのはもういいんだ。君が何を言おうとも、もう信用は出来ない。信用出来ない者をうちに入れるわけにいかないからね」


 顔色を悪くしたパウラさんが縋るけれど、それもレオシス様には届かない。

 今になって焦り出しても、もう遅いのに。


「レオシス、側近にならないというのはどういう事だ」

「言葉のままです。また不敬をはたらいてしまうと思うので、辞退します」

「そんな事は罷り通らない!」

「いえ。元々公爵家うちは中立でどこの派閥にも属していないですし。年が同じというだけで側近候補に入れられていただけです」

「しかし……!」


 スヴェン殿下が焦るのも当然だろうと、わたしはもう他人事のように見ていた。

 レオシス様がスヴェン殿下の側近になれば、ローヴァイン公爵家は第一王子の派閥に入る事になる。それは公爵家本家だけでなく、それに連なる家も同じく。

 そして婚約を結んでいる我が侯爵家も追随する事になる。


 でもスヴェン殿下は、その後ろ盾を失ったのだ。このままでは立太子する事は不可能だろう。きっと殿下の婚約者も離れるもの。


「では俺達は失礼します」


 恭しく頭を下げるレオシス様に倣って、わたしも膝を曲げた。後ろで見守ってくれていた友人達も同じようにしているのが衣擦れの音で伝わってくる。


「レオシス! 待ってくれ!」

「レオシス様! エミリア様も! 申し訳ありませんでした!」


 スヴェン殿下もパウラさんも慌てたようにわたし達を呼び止める。

 わたしはもう掛ける言葉もなかったのだけど、レオシス様はわたしの腰をしっかりと抱いたままで彼らへと振り返った。


「俺の可愛い婚約者を貶しておいて、俺がそちらの味方をするとでも?」


 いつもは穏やかに凪いでいる琥珀色の瞳が、凍てつく程に冷たい光を放っていた。

 刃を思い浮かばせるような表情に恐れをなしたのか、もう呼び止められる事はなかった。


***


 昨日の雨が嘘のように、今日は気持ち良く晴れている。

 青く澄んだ空に雲はない。穏やかな春の風が木々を揺らし、葉擦れの音を奏でていた。


 薄く開かれた窓からはその音と、薔薇の香りが風に乗って入り込んでくる。

 過ごしやすい春の日だった。


 そんな気持ちのよい風を感じながら、わたしはレオシス様の膝の上に座っていた。横抱きにされる形で、背中にはレオシス様の腕が回っている。


 ここはローヴァイン公爵家のサロンだ。私的な空間とはいえ恥ずかしい体勢ではある。だけどこれはもういつもの事だから、誰も口を挟まない。

 扉は少し開けられていて、廊下には侍女が控えているけれどサロンの中にはわたしとレオシス様しかいなかった。


「それで……パウラさん達はどうなったの?」

「パウラ嬢は神殿で暮らす事になった。希少な聖属性だという事を差し引いても、彼女を引き取るデメリットの方が多いからね。うち以外に名乗りを上げる家もないし、陛下も納得したそうだよ」

「では学院も退学?」

「そう。もう彼女に煩わされる事はないよ。エミリアとゆっくり過ごせそうで、俺は嬉しい」


 そう言いながらレオシス様はわたしの事をぎゅうぎゅうに抱き締める。甘えるような様子にわたしは笑みを零しながら、ピンク色の髪に触れてそっと撫でた。

 少し固めの髪を乱すのが好きだ。こうやって触れられるのは、わたしだけだもの。応えるようにレオシス様は、わたしの髪に飾られたピンクトパーズの花を指でなぞる。


「スヴェン殿下は離宮で謹慎。婚約も解消された」

「あら、婚約解消も随分と早かったわね」

「公爵令嬢が婚約解消に向けて動いていたのは知っているだろ?」

「ええ。でもこんなに早く承認されると思っていなかったから。第二王子殿下に今まで婚約者はいなかったけれど、もしかしてそちらも決まった?」

「その通り」


 スヴェン殿下の婚約者だった公爵令嬢は第二王子と婚約を結んだのか。

 でもきっとそれが最適だったのだろうと思う。


「側近候補のあいつらもそれぞれ、生家から何かしらの処罰を受けている。婚約を破棄された奴もいるらしい」

「それも当然でしょうね。婚約者が自分ではない他の女性に想いを傾けているなんて、許せないもの」

「エミリアも?」

「わたし?」

「そう。君も許せなかった?」


 わたしの頬を指でなぞりながら、レオシス様はそんな事を口にする。薄い唇に笑みを乗せた、悪戯な表情で。

 わたしは大袈裟に溜息をついてから、頬に触れるレオシス様の指を掴んだ。


「わたしは他の女性に想いを傾けたら許せない、って言ったのよ。レオ様の心は全てわたしの元にあるのだから、許す許さないの話じゃないわ。前提が違うの」

「ふは、それもそうか」


 わたしがそう答えるのを分かっていたはずなのに、レオシス様は嬉しそうに笑う。

 

「君が俺の愛を疑う人じゃなくて良かったよ」

「疑う隙もないほどに、わたしの事を愛してるって顔をしているもの」

「あー……ほんっと、可愛い。これからも俺の愛を疑わないでね。エミリアが俺から離れたら、もうこの世界に意味なんてないんだ」


 レオシス様からの気持ちを疑った事なんてない。

 琥珀の瞳も眼差しも、触れてくれる熱も、早まる鼓動も、何もかもがわたしの事を愛していると伝えてくれるから。


 そしてレオシス様はわたしの気持ちも全て受け入れてくれる。だからわたしも安心して、心のままに愛を囁けるのだ。


 わたしは顔を近付けて、レオシス様に触れるだけの口付けをした。

 嬉しそうに笑う彼が、またきつく抱き締めてくれる。苦しいけれど嬉しいなんて、もうどうにかなっているのかもしれない。


「レオ様が世界に絶望して死んでしまうというなら、一緒に死んでもいいと思うくらいに愛してるわ」

「……俺の事、本当に好きだよね」

「お互い様でしょう」

「確かに」


 レオシス様は啄むように口付けを降らせてくるから、それが少し擽ったい。

 彼の首に両腕を回すと、それを合図としたように口付けが深くなった。


「……あーもう、好き。大好き」

「知ってるわ。意地悪な事を言ってしまうわたしも好きでしょ?」

「もちろん。でもその意地悪だって可愛いものだよ。綺麗なのも可愛いのも、それを維持するのに努力している所も。いつも真っ直ぐ在ろうとする所、自分が嫌いなものでも理解しようとする所、自分に厳しくあろうとする所も本当に可愛い。甘いものを食べて綻ぶ顔も、眠たくなると口が回らなくなる所も、俺の事が大好きな所も……本当に全部愛してるよ」


 吐息の重なる距離で、少し掠れた声でそんな事を言われたら、恥ずかしいけれど嬉しいに決まってる。

 伝えたい気持ちが言葉に乗る気がしない。こんな睦言を言われて、それ以上の言葉を今は返せないもの。


 だから、今度はわたしから口付けた。

 愛していると気持ちを込めて。

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