彼女と翠玉色の瞳と樵と

藤泉都理

彼女と翠玉色の瞳と樵と




 彼女は翠玉色の瞳から流れた涙を拭きとった。

 拭きとっては、笑顔できこりを見送った。

 やさしい、やさしい樵を。






 おまえの瞳の色は海の色だなあ。

 森にずっと居る彼女に、彼女と同じ年の樵は言った。

 伐り終えては横たわらせた丸太に背を預けて、彼女と一緒に座っていた時だ。


「海って何?」

「海っつーのは、おいらの好きな寿司に使われる魚介類がたーんと住んでいる大きな塩水がたーんとあるところだ」

「あなたが年に一回しか食べられないって言うお寿司ね」

「おう。おまえも一緒に海に行けたらいいのになあ」

「私はだめよ。森から出られない」

「何で森から出られないんだっけか?」

「私の一族は危険だからって王様に森から出ないように言われているのって、何回も言ったと思うんだけど」

「へへっ。木の事を覚えるのに精一杯で、他の事は忘れちまうんだよなあ」

「あと、お寿司も忘れないんでしょ」

「へへっ」


 無邪気な樵の笑顔に、彼女は同じ笑顔を向けた。






 この森に入る事ができる人間は限られている。

 樵、薬草師、植物学者など、森の植物が必要な人間なのだが、これらの職業の者が誰しも森に入る事ができるわけではない。

 危険な魔女が住んでいるがゆえに、厳しく選定されるのだ。

 樵はその選定を通った稀有な一人であった。が。

 樵は知らなかった。

 こんな噂が流れている事を。

 森に入る事ができる人間は、選び抜かれた魔女への生贄なのではないか。と。

 魔女の怒りや憎しみを静める為の、人身御供ではないか。と。






「なあ。おいらが森からおまえを連れ出してやろうか?」

「いくら力自慢のあなたでも私をこの森から連れ出すのは無理よ。それに、私は森が好きだし。森から離れたくない。一歩。いいえ、半歩でも。ね。ありがとう。海に誘ってくれて」

「海が近かったらなあ。寿司を持って来れたのに。遠いからなあ。腐れちまうんだよ」

「いいわよ。私は森の食べ物だけで十分だし。お寿司は、あなたの話だけでもお腹いっぱいだし」

「あ!そうだ!」

「ちょ。急に大声出さないでよ」

「わりいわりい。いや、いい事、思いついちまったからよ」

「………いい事を思いついた顔じゃないけど。どう見ても、極悪人の顔だけど」

「いーいから。いーから」

「あら、もう行くの?ご飯食べて行かないの?」

「おう。へへ。また明日食べる」

「明日も今日と同じ食材を取れるかどうかわからないから、今日と同じ料理を食べられるかわからないわよ」

「おう。明日は明日の飯を楽しみにしてる」

「………ねえ。変な事をしないでよ。危険な事をしないでよ。私………あなたが来るの、楽しみにしてるんだから」

「………へへ」

「何よ?」

「んーにゃ。なーんにも。おう。変な事も危険な事もしねーから、明日を楽しみにしてろって」

「………わかったわ。楽しみにしてる。から。ちゃんと、来てよ、ね」

「おう!じゃあまた明日な!」

「ええ、また明日」




 彼女は翠玉色の瞳から流れた涙を拭きとった。

 流そうと思って流した涙ではない。

 無意識だった。


 芽生えてしまったのだ。

 樵と共に森から出てみたい、森以外の世界を一緒に渡り歩きたい気持ちが。

 けれど。


(私には、無理。だって、私はこの森から出たら)


 醜くも残虐無比、獰猛な獣に成り果ててしまうのだから。


(ああでも、そうしたら、あなたが私を討ち取ってくれるのかしら)



 不意にそんな思考が過ったら、無意識に涙が出てしまったのだ。

 急に振り返った樵を見た彼女は慌てて、翠玉色の瞳から流れた涙を拭きとった。



「また明日なー!!!」

「前を向いて走りなさい危ないでしょ………っていうか!丸太を忘れてるわよ!」

「あっ!いっけね!」

「もう」


 笑いながら戻って来た樵を見て、彼女は微笑を浮かべたのであった。

 とても美しい微笑であった。











 翌日。


「ほい!」

「………何これ?」

「海の水を真似して作った塩水だ!手を入れてみろ!ひりひりするぞ!」


 大きな木のたらいいっぱいに入った海の水を真似た塩水を、鼻の穴を大きくしながら近づけて来た樵を前に、彼女は予想と違うなあと思いながらも、両の手をたらいの中に入れた。


 森の色が映ったその塩水は、確かに少しだけ、ひりひりした。











(2024.5.1)



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彼女と翠玉色の瞳と樵と 藤泉都理 @fujitori

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