無花果

武沢 悠

無花果

テナガザルは歌を唄う。遠くから聞こえてくるのは、テナガザル達の歌だ。


ホーワホワホー、ホーワホワホー。


輪唱のように繰り返される中、1匹のテナガザルが私に言う。


「キミはナニになりたい?」


黒い顔に鮮やかに輝く茶色い瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。私は答える。


「私は私以外の誰かになりたい」

「なるほどね」


その長い腕でぶら下がったテナガザルは、微かに身体を揺らす。


「それは随分歪んだ願いのように聞こえるけどね。まぁ、いいさ。それがキミの願いであって祈りだ」


そう言って、テナガザルは私に片手を伸ばす。その手にあるのはイチジクの実だ。私はそれを受け取る。イチジクは不自然に冷たくて重い。イチジクはこんなに重いものだっただろうか。


ホーワホワホー、ホーワホワホー。


「誰も自分以外にはなれないって事?」


私の言葉にテナガザルは黙って首を振る。


「もちろんそんな事は無い。キミはナニにでもなれる」


私は頷く。


「キミは喪失というものについて考えた事はあるかい?」

「喪失?」

「消えて無くなる事について」


私は首を振る。


「もしキミが、いつの間にか1冊の本を無くしたとする。その本はキミの小さくてささやかな世界の中には存在しない。そして、キミはその本がいつ無くなったのかもわからない。それが喪失だ」


ホーワホワホー、ホーワホワホー。


「もしキミが、1冊の本を棄てたとする。その本はキミの小さくてささやかな世界の中には存在しない。でも、キミは『本を棄てた』という能動的な行為を覚えているし、その本は世界の外側に確かに存在している。そういう事さ」


私はゆっくり頷く。手に持ったイチジクの冷たさが、全身に広がっているみたいだ。


「キミがこれからする事はジブンの影を棄てるような事だよ。影は喪失したわけじゃない。世界の外側で静かに待っている。棄てたモノをまた拾おうとキミが考えるのを」


ホーワホワホー、ホーワホワホー。


「もちろん、いつかキミも棄てた影の事なんて忘れてしまうかもしれない。完全に。一粒も残さずに。それがいつか来るのか来ないのか、それはワレワレには判らない」

「棄てたものをまた拾おうなんて思わない」

「どうだろうね?結局の所、キミたちはジブンのことが大好きだからね」


テナガザルは笑う。歌は続く。ホーワホワホー、ホーワホワホー、ホーワホワホー。私はイチジクにむしゃぶりつく。






猪本香澄は中学生になる前に、ノートに3つの事を書き出した。


・高校を卒業したら地元を出る

・みんなから忘れられる

・30歳で死ぬ


夢も願い事も少ない方がいい。私のような小さな存在が叶えれる願いなんて、3つが限界に決まっている。たった1つの願い事ですら、時間や労力という限りない対価を払ってやっと叶う可能性が出てくるものなのだ。あるいはもっと別の対価を払う事になるのかもしれない。ただ漠然と思うだけでは願い事は叶わない。


SNSで見知らぬ誰かが言っていた。タッキング。ヨットは向かい風の中、何度も帆の向きを切り替えながらジグザグに進むのだと。一直線に進むことはできない。だからたどり着くべき


その通りだと私は頷く。だからこそ、終着点を定めないといけない。私は30歳で存在を忘れられたまま、誰にも気づかれないまま死ぬ。人が忘れられるにはどれぐらいの歳月がかかるだろう?人それぞれと言ってしまえばそれまでだ。だから10年と仮定する。それならば、20歳で消えれば良いだろうか?そう考えると、人の入れ替わりが激しい卒業のタイミングがベストだ。


「猪本って最近見ないよね?」

「どっか遠くの大学でも行ったんじゃね?」


とても自然でありふれた話だ。そうやって、逆算するように願い事を決めていく。


だとすれば、進学した事が自然に思われるように、それなりに勉強をしている子に思われなければならない。卒業後にすぐ地元を出るのであれば、それまでにお金も貯めなければならない。そんな事を考えながら、ノートを埋めていく。






スマートフォンの画面に、たむさんとマッチングしましたというメッセージが表示される。承認と拒否という2つのボタン。私は承認の文字をタップする。


「こんばんは」

「こんばんは、どうも、たむです。のぶさん、女の人だったんだね」

「はい。たむさんは今何してます?」

「今?家で1人で呑んでるよ。そういう時ぐらいしかアプリ立ち上げないしね」


アプリとは匿名通話アプリの事だ。同じタイミングでアプリを起動している人をランダムに結びつけ、実際に会話する事ができる。


「実は小説の投稿作品を書いてるんですけど、ちょっとした思考実験があるんです。付き合ってもらえます?」

「思考実験ねぇ、いいね。そういうの好きだよ」

「全くの別人になりすまして生きていくには、どんな方法があると思いますか?」

「別人に?」


短い沈黙。スピーカーの向こうから、グラスを揺らすような氷の音がする。


「確認したいんだけど、別人というのは実在する誰かに成り済ますのかな?それとも架空?」

「架空の誰かをイメージしてました」

「なるほどね。存在しない誰かに成り済ます事は、さほど難しい事とは思わない。例えばSNSでもこのアプリでも、みんな好き勝手に名前をつけているしね。もちろん、現実では身分証とか色んな問題が出てくるかもしれない。それでも、そういうものの偽造業者とかは実在するわけだし、小説的におかしい話だとは思わないな」


私は相槌を返す。ところで——たむさんは続ける。


「結末としてはどうなるんだろう?」

「結末ですか?」

「そう。その人は最後まで別人でいる事が出来るんだろうか?それとも、別人である事がバレてしまうんだろうか?」

「そこは……まだ決めてないですね」

「まぁ、バレる要素はいくらでもあると思うんだ」


バレる要素。私は生唾を飲み込む。その音が身体の中に響く。


「AさんがBさんとして生活する事は簡単だとしても、それは同時にBさんとしての生活をしながらAさんとしての生活も継続しないといけないって事だね」

「二人分の人生をおくるのは無理がある。ってこと?」

「そうなるね。Aさんとしての生活を限りなく薄くすることができるかどうかじゃないかな」


例えばだけど——私は答える。


「富士の樹海とか、そういう自殺の名所で死体を見つけて、そこにAさんの身分証を置いておくとかどう?そうすればAさんは死んだことにならない?」

「どうかな?そういうのって、ショッキングなニュースとして一斉に報道されると思うんだ。顔写真とかと一緒に。逆にAさんの顔を印象付けちゃうんじゃないかな」

「それもそうですね」


私はノートの記述に斜線を入れる。思いつきのようなアイディアは、こうやって潰されていくものなのだ。残るのはほんの僅かだ。あるいは何も残らないのかもしれない。でも——たむさんは続ける。


「物語としては、どこかのタイミングでバレてしまうってのはありかもしれないね。起承転結の転って感じで」


私は力無く同意の言葉を口にする。物語としてはそうかもしれない。でも、自分の未来にそれは求めていないのだ。






忘れられる事は意外と難しい。そんな事を考える。おそらくは逆なのだ。どこにでもあるような出来事はすぐに忘れてしまう。そうではない。そもそも、記憶すらされていないのだ。


目立たないように、みんなに溶け込むように過ごす。私が目指すべきはそこなのだ。同じような服装、髪型、喋り方、好物、好きなタレント、音楽、同じスマートフォンにどこにでもあるスマートフォンケース。私は女子中学生、女子高校生という記号と枠の中で日々を過ごす。


鏡に向かって話しかける。あなたは、だぁれ?私はただの女子高校生。


振り返ってみれば、私自身がその日常の事をあまり思い出せない。だから他の人から見ても、印象に残っていないだろう。


それでも幾つかの事は思い出せる。職場体験の話だ。


私、いや私たちが選んだのは、ある結婚式場だった。同じ班の子が、ウェディングプランナーとかいいよね!と言ってきたのに同意する形で選んだ職業だ。


ミニブーケを作ったり、フラワーシャワーを準備したりといった、それらしい体験は人気だったので私は地味な裏方っぽい作業を選ぶ。控室の整頓、ポットの給水、椅子を綺麗に整える。そういう地味な作業は集中してやれば、あっという間に終わってしまう。そのせいか、私が無人のつもりでドアを開けた神父控室には、ちょうど仕事を終えたばかりの神父が座っていた。


「すみません。片付けの仕事に来たんですが、後にしますね」

「構いませんよ。他の部屋はもう終わったのですか?」

「はい」

「それは素晴らしい」


神父は和かなごやか に言葉を返す。


「それなら時間が余ってるでしょう。よろしければお茶でも一杯飲んでいきませんか」

「はぁ、ありがとうございます」


私は近くの椅子に座り、神父を見る。服装を除けば、どこにでもいるおじさんに見える。でも何だろう、雰囲気のようなものが何か違う気がする。きっと良い人なんだろう。そんな気がする。


「あなた方ぐらいの年頃の子と話す機会は少なくてね。少し雑談にでも付き合ってくれればありがたいです」


神父は淹れたお茶を差し出し、向かい側に座る。


「どうも」


そう言って受け取った暖かいお茶は、普段口にするお茶より、ずっと美味しく感じる。心が緩むような、そんな味がする。


「何か心配事でもお有りですか?」

「えっ?」

「仕事中に皆さんの顔を見ると、あなた方ぐらいの年頃の人は、将来愛する方との挙式を思い浮かべているのか、目を輝かせている方ばかりなんです。それと比べるとあなたの表情は少し沈んで見えたものですから」


少しばかりの沈黙の後、私は答える。


「それは、想像力の問題だと思います。私は好きな人も居ないし、愛する人のイメージも湧かない。だから結婚式を見ても浮かれた気持ちにならない。なので心配事とかではないです」

「なるほど」


そう言って神父は持っていたコップをテーブルに置く。コトリという冷たい音が静かに響く。


「主は仰っています。汝の隣人を愛せよと。愛という言葉にそこまで重いイメージを持つ必要はありません。幸せそうな人が居れば共に喜び、悲しんでいる人が居れば共に悲しむ。そうした共感こそが愛なのです。主が我々に対して感じるように」

「神様が私たちを愛しているって事ですか?」

「はい。主の愛は皆さんに注がれています」


神父の言葉が私の何かを刺激する。頭を下に向け、唇を噛む。その感情をできる限り表に出さずに顔を上げる。私は答える。


「そんなのおかしいです。私はそんなに宗教的な知識はありません。でも、神様がみんなを愛しているなら、どうして私たちは追放されたんですか?」

「創世記の第三章、楽園追放ですね」


神父は微笑む。私は頷く。


「とても簡単に言うと、私たちは主の言いつけを破り、知恵の実を食べた事で、楽園を追い出された。そういう話です。さて、知恵の実とは何かわかりますか?」

「わからないです」

「そう、知恵の実、あるいは善悪を知る実。そうした実を食べたはずなのに、私たちはその実が何なのかを知る知恵も持っていないし、何が善で何が悪かも迷っています。不思議だとは思いませんか?」


それは宗教的な お伽話おとぎばなし だからじゃないだろうか?そんな事を考えながら私は頷く。そんな答えを求められているわけではないだろう。


「私は知恵の実と呼ばれるものは、自我を目覚めさせる実だと解釈しています」

「自我……ですか?」

「そうです。私たちは自我というものを持ったが故に、他者との違いを認識し、知識に対する探究心、善悪の判断、そういったものを持つようになったのです。実を食べたアダムとイヴはそれぞれの違いを認識し、最初にまず羞恥心からお互いの身体を隠したと聖書にも書かれています」

「それが楽園追放とどんな風に繋がるんでしょう?」

「自我を持って生きる事は、本能的に生きる事と違い、ある種の苦しみを内包しています。だからこそ、主は私たちが楽園にある生命の実を食べて、永遠の生を得ないように私たちが楽園に戻れないようにしたのです。苦しみを内包したままの永遠の生。それは私たちが想像できる以上につらい事でしょう。主がそうであるように」


解決しない悩みを抱えたままの永遠の生。確かにそれは地獄のようなものかもしれない。


「主は私たちを罰するために楽園から追放したわけではありません。主は羞恥心を持ったアダムとイヴのために、皮の着物を与えられました。罰で追放するなら、そんな事をする必要は無いはずです。私たちの事を思うが故に突き放す。そういった愛の形もあるのです」


私は何と返せばよいのか戸惑う。おそらく困惑の表情を浮かべていたのだと思う。神父はまた微笑みを浮かべる。


「ちょっと話し過ぎましたね。私とあなたは違います。だからこそ、互いを尊重できるし、悩みを分け合う事もできるし、共感する事も出来るという話です。もし、あなたが何かに苦しむ事があれば、何処の教会でも良いから訪ねてみると良いでしょう。少しはあなたの助けになるかもしれません」

「わかりました。ありがとうございます」


神父は手慣れた手付きで、胸元で十字をきる。映画みたいだな。私はそう思う。






自我が苦しみを内包したものだとすれば、本能的に刹那的に生きてしまえば、楽になるのだろうか?そんな事を考える。いや、そんな風に考えてしまう事すら自我的なものかもしれない。


女性は若ければ若いほど価値がある。職業的娼婦、パパ活、自分の価値を換金するなら、もっと上手いやり方はあるのだろうと思う。でも、それは何かが違う気がする。トー横、ドン横、グリ下。居場所の無い人たちの居場所はどこにでもある。


そんな風にして、私はここにいる。


ストローでストロングゼロを啜りながら、隣の子が上機嫌に話しかけてくる。


「なぁ、あんたはどんな風にヴァージン捨てたん?」

「んなの覚えてないわ」

「なんだそれ。つまんねぇ」


そう言って、その子は自分の身の上話を語る。貧乏で金が欲しかった事。売りをやってる先輩と知り合いになり、最初ぐらいは全くの他人じゃない方がいいと男を紹介してもらった事。自分の処女に5万円の値段が付いた事。そんな感じの話だ。


「そいつさ。21歳ぐらいで、高卒から工場で働いてたからそれなりに金もあったし、顔もそんな悪くないヤツでさ。まぁ、優しくはしてくれたよ。下手くそだったけどさ。だからさ、そんな悪い相手じゃ無かったとは思うんだ」

「そうだね」

「でもさ、そういうのじゃなくても良かったって思う時があるわけさ。なんていうか、ちょっと禿げた小太りのおっさんとかにさ、適当に扱わられて捨てるみたいな。そういうので良かったんじゃないかみたいに」


その子は先輩の家に転がり込んでいたが、先輩の彼氏に手を出して追い出されたらしい。よくある話だ。そんな話をしていたところに、別の子が声をかけてくる。


「なぁ、これマジ?ウケるんだけど」


そう言ってその子が差し出したスマートフォンの画面には、トー横について書かれた記事だった。専門家、あるいは支援者団体。そうした人たちがそれぞれに語ってる。


感性の近い、似たような境遇の人たちと楽しく過ごして、満たされたような気持ちになっちゃう。そうした場所が居場所だと勘違いしてしまう。勘違いなんですよ。だってそこは、決して良いところなんかじゃないから。


「コイツら何も解ってないよね」

「ほんとだ。ウケる」


私はそう返す。







世の中に認知されれば認知されるほど、それを問題視する人が増えて蓋をされる。その繰り返しだ。目立つところだけ掃除をして、それで満足されるのだ。何も解決していないのに。


封鎖。あるいは集中的な補導。そうやって、私たちは排除される。どうせ場所が変わるだけなのに。


夜の街、サントリーの自販機横に一人座ってると、缶コーヒーを買った中年の男が声をかけてくる。


「何してんだ」

「別に。行くとこ無いから座ってるだけ」

「家に帰ればいいだろ」

「そんなん無いけど」


男は呆れたような表情を浮かべ、缶コーヒーを一気に飲み干す。そして、ゴミ箱に缶を押し込みながら言う。


「そしたら家に来るか?」

「行く」


そう言って私は立ち上がる。


「飯ぐらいは食ってんのか」

「食べてない」

「解った」


近くのガストでご飯を奢ってもらい。男のアパートに行く。2Kぐらいの広さの飾り気のない部屋。どうせ風呂も入ってないんだろ。先に入れと言われて風呂に入る。何度も何度も何度も繰り返してきたようなやり取りだ。男が風呂に入っている間に、私はテレビを眺めている。何の番組かは知らないけど、名前も知らない芸能人が楽しげに笑っていた。


風呂上がりの男が冷蔵庫から缶ビールを取り出し、立ったまま1人で飲み出す。そろそろかな。そんな事を考えながら、私はベッドに腰掛ける。男は言う。


「俺はソファーで寝るから、勝手にベッドで寝てろ」

「はぁ?」


思ってたより大きな声が出る。


「しないの?」

「しない」

「何それ、キモ」


男は飲み終わったビールの缶を潰しながら言う。


「そんな風に生きてても、そのうちどうにもならなくなるぞ」

「説教とかほんとウザいんですけど」


男はまた呆れた表情を浮かべ、ソファーに腰を下ろす。


「年取るとな。あんまり若い子に後悔するような生き方して欲しくない。そんな気持ちが出てくるんだよ。説教くさいのは分かるけどな」

「おっさんって何歳?」

「56歳」

「ふぅん。じゃあ、分かるわけないじゃん。私らはさ、産まれたときから、日本は衰退するとか、政治はダメだとか、世の中は段々悪くなって行くって言葉を聞きながら生きてんだよ。後悔も何も、ずっとそういうもんだって思ってる」


私は続ける。


「言葉は呪いだよ」

「そうかもな」

「なんて言うの。他の人はヤりたくて私に声をかける。私はその代わりに、金とか食事とか眠れる場所を貰う。それがすごくフィフティフィフティな感じがする。だからさ、タダ飯タダ宿を与えられるって、なんか同情されてるみたいで気分悪い」

「気分悪くさせたなら謝るよ」


そうだ。私は同情されるのが嫌なのだ。何も知らない人に可哀想だと思われるのが嫌なのだ。下に見られるのが嫌なのだ。


たくさんの支援者団体を名乗る人たちが私に近づいてきた。ありふれた優しい表情と言葉をかけてきた。でも彼らは気づいていないのだ。相手を可哀想だと思い、上から助けてあげようとする人が放つ、醜悪な臭いに。


君たちには未来がある。更生して幸せになろう。そんな意味の言葉を口にする。でも彼らは私の人生に何の責任も持たない。だからそんな言葉を口にできる。そこより少しばかりマシだと、彼らが思う場所に連れていく。それだけで良い事をした気持ちになれるのだろう。その先が地獄しかない場所だとしても。その先の結果は私の責任にされ、彼らの責任ではないのだ。


ふざけんな。私は下唇を噛む。


「おっさんも、私が可哀想で良い事してやったみたいな気分になってんの?」

「そんなつもりは無いよ」


そう言って、男は私の方を見る。私は男の目を見る。何故だろう。私が今まで見てきた良い事をしてやっているという人たちの表情とは違う気がする。


「辛いときに誰かに優しくして欲しいって思ったことはあるか?」


私は頷く。


「それと同じだよ。辛いときに誰かに優しくしたい。そういう風にしか対処できない痛みのようなものがあるんだ。俺が俺のためにやってるエゴみたいなものだよ」

「そう」


そう返答し、私は静かに考える。あのさ——私は続ける。


「おっさんがさ、おっさんのエゴで私に優しくしたいって言うならさ、私は私のエゴでその手を振り払う権利はあるんだよね」

「もちろんある」

「そっか」


ベッドから立ち上がる。そして荷物を手にして続ける。


「それなら私は出て行くよ」

「そうか。好きにしたらいい」

「ごめんね。ご飯とお風呂ありがとう。それは本当に感謝してる」


嘘ではない。その気持ちを私は素直に口にする。それなら、男の優しさをもう少し受け入れても良かったのかもしれない。でも、そうじゃない。そういうことじゃないんだ。


玄関に向かう。キッチンに雑に置かれたスーパーの袋が見える。中にはいくつかの果物。一人暮らしのおっさんでも果物とか買うんだな。そんな事を思う。


「ねぇ、迷惑ついでにそこの果物ひとつ貰ってもいい」

「ああ、好きなの持っていけばいい」

「ありがと」


私は袋に手を入れて、適当に取り出す。掴んだのは綺麗な赤褐色のイチジクだった。






冬が近づいている。冷たくなってきた風の中、私は夜道を歩く。そうだ、あれは小学生になる前の冬だった。その頃はまだ生きていた母親に怒られた話だ。捨てられていた仔犬を持ち帰り、元の場所に戻してきなさいと怒られたのだ。


生き物を飼うのは責任が必要だ。あなたはまだ自分の事に精いっぱいで、そんな責任は持てない。だから、そんな一時的な感情で、可哀想だからと連れて帰ってはいけない。


その通りだ。正しいのだろう。それは。


空を見上げる。上空では強い風が吹いているのだろう。雲が流れ、月がその姿を見せる。下弦の月。私はそれを見つめる。


もし、私が何か選択を間違えたのだとしたら——いや、明確に選択を間違えたのは、あの時だ。襲ってくる恐怖と暴力の中、あの時殺すべきは父親だったのだ。猪本香澄の心ではなく。


「コワレテしまったものは、元にはモドラナイよ」


テナガザル達は笑う。


「地面に落ちて踏み潰された実は棄てるしかない。キミがソレを何とかしたいと思うのは自由だ。行動には責任が伴う。キミはその責任が取れるのかな?」

「解ってる」


ホーワホワホー、ホーワホワホー。


テナガザル達は唄う。解っている。地元から出た私はみんなから忘れられて30歳までに死ぬ。30歳になるまでにはまだ時間がある。それまでに猪本香澄の心を取り戻し、結果的に私は死ぬのだ。それが彼女の願いと違ったとしても。


私は手にしたイチジクにむしゃぶりつく。これは私のエゴだ。

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