第85話 卒業式



 先生とそばに居られることになって、今も信じられないでいる。

 そばに居られる、なんて曖昧な言葉で自分を誤魔化さないとじっとしていられないくらいに。


「今が八月だから、あと七か月で付き合えるんだな」

 なんて菊池に言われて、クッションに顔を押し当てて奇声を発してしまった。

「本当に卒業まで待つのか? 十八になったらでいいじゃん」

 熊田が不満そうに言い、「まあでも社会人だし、そうなるんじゃないか?」と田中がクッションから顔を上げられない俺の背中を叩いて言った。

「でも高瀬の親はいいって言ってんのにさあ」

 熊田がさらに続けて、俺は慌てて、「その話はしないで!」と顔を上げたが、三人は直ぐにニヤニヤ顔になり、言うことは聞いてくれそうになかった。





 先生の家に行った日の翌日、自宅まで送ってくれた先生を待ち構えていた母さんが家に引っ張り込んだ。

 俺は驚いて頭が真っ白になったが、テーブルに着いた両親と先生を前に、俺が着席を促されるというところで我に返った。



「私たちの代わりに祐希の話を聞いてくださって、本当にどうもありがとうございました」

 向かいに座った父さんと母さんが揃って丁寧に頭を下げるのを見て、俺は急速に固まった。

「お辛い時期に息子の悩みに寄り添っていただいて」

 父さんの言葉に、改めてその通りだなと固まった身体がしゅんと縮む。

「いいえ、自分にとっても祐希君は大きな支えでしたので」

 ちょっ先生、祐希君て!

 一瞬で沸き立つ俺。

「反抗期もなくて、楽してるなーなんて話してたんです」

「悩んでることも知らずに呑気なもんです」

「おふたりが大切だからこそ、言い出しにくかったんじゃないかと思います」

 自分に起因する大人のやり取りを目の当たりにして、再び心は静かに底に着いた。


「ごめんなさい」


 気が付くと口から謝罪が零れていた。三人の視線が俺に向く。

「謝らないでいいの。もっと早く変わらない居場所だって言ってあげたかったけど、遅くなったけど言えて嬉しい」

 母さんの言葉に涙が滲みかけて、慌てて瞬きで乾かした。


 俺は自分のことでいっぱいで、簡単に親へのカミングアウトが済んだように感じていたけど、俺が先生の奥さんのことを知ってからそれまでの一年を思い直したように、二人も俺の今までの姿を思い直したはずだ。それなのに、変わらず今まで通りでいてくれている。

 改めて二人が両親でよかったと心から思った。



「それで、先生は祐希に好きって言われたんですか?」



 は?



「か、母さん?」

「はい。でも、どちらかというと私の方がそばにいて欲しいと言ったんです」

「先生……」

 はっきり言ってくれるんだ。めちゃくちゃ嬉しいんだけど。

「いやー息子の彼氏、高身長イケメンだった」

「父さん!」

「恐縮です」


 いやなんだこの会話!!

 感情が乱高下する俺の横で、なぜか和やかな三人を止められない。


「この子、先生のことが大好きみたいなので、たくさん構ってやってくださいね」

「ちょっとやめてよ母さん!!」

「家も近くて良かったなあ祐希」

「何がだよ!!」

「学校帰りとか、休みの日にも会いに行きやすいじゃない? お泊まりとかねー」

「ちょっなにいってんの?!」

 慌てて椅子から立ち上がったが、隣で肩を揺らしている先生を前に、父も母もニコニコとニヤニヤが混ざり合った最悪な顔をしている。

「もう高校生なんだから、ねえ」

「何がねえなんだよ!!!」

「私は社会人ですので、祐希君が高校を卒業したら、改めてご挨拶に伺うつもりでいるんですが」

「そんなの時間がもったいないし、両親公認で今すぐ持ってって下さいよ」

「父さん言い方!!!」

「先生のことは中学の時から信用していましたから、どうぞご遠慮なく」

「母さんも言い方!!!」

「祐希、いっぱい甘やかしてもらいなさいね」

 両親に目配せされて、全ての感情がかんしゃく玉みたいに盛大に弾けた。


「俺あなたたちに十分甘やかされてるから!!!!!」


 ゲラゲラと笑い出した両親を前に、何を言っても無意味だと悟る。

 がっくりと肩を落とす俺の横で、先生はゆっくりカップを傾けている。

 この人はなんでこんなに普通なんだろう。教師って変な親に耐性があるのかな。

 溜息を吐いて椅子に座り、盛り上がる両親を前にぬるくなったコーヒーをすする。


「よかったね」


 先生が呟いて、その瞬間口に含んだコーヒーが奥深く味を変えた。




 両親はああ言ったものの、先生は自分の決めたことを守るつもりらしかった。

 俺は十七歳、先生は先生。文句なんて無かった。

 それどころか、先生はまたコンビニに寄ってくれるようになったし、バイトが無い日には家に来て、俺の作った夕ご飯を食べていったりもする。

 連絡だって毎日来る。おやすみばかりだった今までとは違って、おはようメールが来るようになって、元々目覚めのいい俺の朝のテンションは段違いに高くなった。

 以前はなかった先生の日常も送られてくるようになって、毎日が楽しくて嬉しくてしょうがない。

 でも人という生き物は恐ろしいもので、そんな特別な毎日にも少しずつ慣れていく。

 あの日以来、先生とその手の触れ合いは一切ない。ハグとか、寄り添い合って座ったり、手を握ったりもない。先生からの好意を感じる眼差しや言葉もなくて、俺は段々、かつてそうなりたいと強く願った、『仲のいい歳の差のある友人』に落ち着いていくんじゃないかと、焦りに似た不安を抱き始めた。


 秋が来て、景色も人も変化していく。

 別れたカップルもいたし、寒いからか引っ付くカップルも目につく。

 まだひと月以上もあるクリスマスに向けて、プレゼントは何にしようなんて語らう菊池と熊田、そしてついに彼女ができた田中を羨ましくなりすぎないように気を付けて眺めた。

 もうすぐ十八になる。卒業まで四カ月。あと少しの辛抱だと思いつつ、なんで辛抱しなきゃなんないんだと我儘な自分が出てくる。

 冷えた手をポケットに入れて温めてくれた去年の誕生日を思い出して、納得できない気持ちになる。

 秋が深まるにつれ、不安は募っていった。

 俺はみんなの背中を今もまだ眺めている。置いていかれる気持ちが、雪よりも早く憂鬱を胸中に降り積もらせていた。


 ところがそんな繊細な心は、誕生日に先生がキスをしてくれたら綺麗さっぱりと消え失せた。

 先生はずるい。そしてキスってすごい。


 翌朝からテンション爆上げの毎日が戻った。

 ピリッと集中した教室内で、俺は一人顔を上げ、俯くみんなを見渡す。

 みんなには申し訳ないけど、俺に受験生としての苦労は一切ない。でもそれは俺のマイノリティ的思春期の逃避先が勉学だったからで、自分というものを見つめていく過程に多くの苦悩があったわけだから、イーブンだと思う。


 深海魚の俺が、あと少しで、みんなと同じ海流を泳ぎ切ろうとしていた。








 ──三月。


 卒業式は気持ちのいい快晴。

 うららかな式典日和に、俺は呆然としていた。


 一昨日、母さんのお母さんが倒れたと連絡があって、大急ぎで行ってみると尿管結石だった。

 それはそれは激痛だったらしいが、命に関わることではなかったと分かって帰宅した。

 ところが翌日、今度はお母さんのお父さんが倒れたと連絡が来て、両親だけで実家に向かった。

 おじいちゃんはそのまま検査入院になり、お兄さん一家が不在だったこともあって、急に気弱になったおばあちゃんに泣きつかれ、両親はそのまま一晩泊り、卒業式の朝に帰ると連絡が来た。

 まあ高速で一時間も掛からないし、なんて一人で朝の支度をしていたら、家のチャイムが鳴った。

 帰ってきたのかとドアを開けると、そこにはスーツ姿の先生が立っていた。


「卒業式だね、おめでとう」


 にこっと笑った先生は、ドアを押さえて固まる俺の手を引いてさっさと家に上がった。

「カメラはこれかな」

 テーブルに置かれていたケースを開けた先生は、中からカメラを取り出し、カチッと起動する。

「充電は足りそうだね」

 先生は顔を上げると呆然としたままの俺を見て、「準備はできた?」と微笑んだ。

「できてるけど……いや、どうして先生が?!」

 思わずのめった俺に、先生は、「聞いてないの?」と驚いた顔になる。

「なにを?!」

「お父さんたちがこっちに向かってる途中に高速道路で事故があったみたいで、下道に下りたから、始まる時間に間に合わないかもって連絡が来たんだよ」

「事故」

 ポケットのスマホを取り出すと、確かに母さんから幾つか連絡が来ていた。

「それで先生にカメラマンを頼んできたの?」

「そ。式のあと一緒に食事に行きましょうって誘われてたから準備はしてたんだけど、まさかこんなに朝早く呼ばれるとはね」

「えっ?! 俺、食事の話も聞いてないんだけど」

「うん、高瀬が友達とどこかへ行くんだったら、夕食になるかもとは言ってたかな」

「なんで俺に確認しないんだよ!! そんな曖昧なことで先生の休日を奪わないでよ母さん!!」

 居ない母親に頭を抱えた俺に、先生の笑い声が降ってきた。

「こういう日はその場のノリっていうのがあるからね。それより、こんな大事なことを任せてもらえて光栄だよ」

「そんな、ただの卒業式だよ」

 顔を上げた瞬間、パシャッとシャッターが切られた。驚いて顔をしかめると、やっぱりシャッターが切られて、俺は走って洗面所に逃げ込んだ。

「ただのじゃないよ。成績も優秀で、自慢の息子だと思うよ。二人とも間に合うといいけどね。何時に出るの?」

 リビングから先生の声が訊ねてくる。

「十分に出る!」

「分かったよ」




 家を出て、バス停までの道を歩き始める。

 一緒に登校している事実にニヤニヤが止まらない。先生が卒業式に来てくれるなんて、そんなの落ち着けるわけがない。

 両親にカミングアウトできたから訪れたシチュエーション。それから、好きと伝えたから。

 そうだ、今日先生は俺に告白をしてくれるはずだ。

 待ちに待った日に、わくわくがどんどん溢れてくる。


「晴れて良かったね」

「うん」


 朝の青い空気の中を歩くかっこいいスーツ姿の先生をチラッと横目に見る。

「それって香坂さんのお店のスーツ?」

「そうだよ」

「スリーピースかっこいい」

 微かに青を感じるダークスーツを隅々まで眺める。

「高瀬もスーツを用意しないとね」

「そうなんだよね。そのスーツって高い?」

 訊くと先生が難しい顔をした。

「これは自分で買ったんじゃないんだ。教師は式典が多いからって祖父母が礼服を仕立てるお金をくれてね。これともう一着ブラックフォーマルも買ったから――」

 先生が首を竦めて金額の詳細を俺の想像に任せた。

「やっぱ高いのかー」

 はえーっとなる俺を先生が笑う。今度はいつもと違う髪型に目が留まる。

「なあに?」

 見られているのに気が付いたのか、先生と目が合う。

「髪のセットがいつもと違うなって」

 校風に合わせたという品のいい感じの普段とは違って、今日は少し濡れ感のある髪が斜めに掻き上げてセットされていて、ハッキリ言うとエロい!

「好き?」

 眉を上げて尋ねられて、鼻息が荒くなった。

「めちゃくちゃ好き!!!」

 正直に白状して、ポケットから取り出したスマホで先生を何枚も写した。ツーショットも忘れない。

「そんなに写してどうするの」

 クスクス笑う先生も写真に収めて、うずうずが溢れ出してくる。

「あー! このまま先生独り占めにしたい!」

「いつでも着てあげるよ」

「そうじゃなくて! かっこいいから誰にも見せたくないってこと! 絶対目立つ!」

「贔屓目が凄いな」

 頬を掻く先生の手を見たら、手を繋ぎたい欲まで湧いてきてしまった。

 俺は走って欲望を振り切り、振り返って先生の全身をパシャッと写した。


「あー!!」


 声を上げてスマホを抱きしめる俺を先生が笑った。





 卒業式の立て看板の前で写真を撮ってもらってから、体育館に向かった先生を見送って階段を上がった。

 三階はかなり賑わっていて、そこいら中で撮影会が始まっている。

「高瀬先輩!」

 教室に入ろうとしたところで女子生徒が二人走って来た。

 えんじ色のリボンだから一年生だ。

 一人の子が、卒業と書かれたリボンが幾つか入った箱を持っていて、二人の役目を理解した。

「失礼します」

 箱を持っていない方の子が俺の左胸に赤いリボン付けてくれる。

「ご卒業、おめでとうございます!」

 揃った声で言われて、「ありがとう」と返した。

 箱を持った子が隣の子の様子をチラッと見る。その子の俺を見上げる瞳に、胸の中がちょっとだけ居心地の悪い色になった。

「あの! 一緒に写真お願いできますか!」

 勇気を振り絞ったそのお願いを断ることはできず、「もちろんいいよ」と、一緒にセルフィに収まった。

「キャー!」とスマホを抱きしめて走っていく下級生に、さっき先生のスーツ姿を写して奇声を上げた自分を重ねてしまい、この上なく恥ずかしい。



「お、高瀬おはよう! 写真撮ってよ!」

「おはよう渡辺君」

 挨拶を返して、ポケットから出したスマホで渡辺君の写真を撮った。

「いや一緒にだろ! 高瀬ってそういうボケするんだな」

「まあね」

 笑う渡辺君の横に立って、今度はセルフィでツーショットを撮った。

「後で送っといて!」

「うん」


「ウェーイ! 高瀬おはよーう!」

 ハイテンションの菊池が来て、「イエーイ」とカメラを向けられる。「イエーイ」と菊池を真似して一枚。肩を組んで一枚。

「田中と熊田は?」

「田中はトイレ、熊田は自販機で最後のカフェオレ買ってくるってさ」

「え? スーパーに売ってるのに?」

「そういうことじゃねえんだよ! って俺も言われた」


 そうだね熊田、そういうことじゃない。今日でこことはお別れだ。

 三年間毎日来ていたこの場所に、もう気軽に立ち入ることはできない。そう思うととても特別な場所に思える。最後の日を迎えて、ようやくそんなことを理解する。

 みんなのカメラに収まっていきながら、校内の風景をひとつひとつ思い返す。


 三つのA組の教室、三度球技大会で優勝した校庭、二つの屋上。

 初めて告白された中庭、和田さんに時系列まとめを伝授した図書室、居心地のいいレクリエーションルーム。青い扉の準備室に、バレンタインに人が溢れた校舎裏。


 戸惑いと衝撃に打ちのめされた高校生活も、こうして晴れやかに終わりの日を迎えることができた。

 俺が知らないだけで、今苦しい思いをしている人もどこかにいるのかもしれない。その人を見つけることはもうできないけど、思い切り笑顔でみんなのカメラに収まって、あんなことがあった俺も、今はこうして笑えるほど幸せだと記録しておこう。


 担任の溝口先生が登場して、全員で卒業おめでとうと書かれた黒板の前でまた一枚写した。

 先生の祝辞を聞き、時間まで再び雑談が教室を騒がしくする。

 次々に共有されていく写真や動画を先生に送った。


『楽しそうだね』

『知ってる保護者いた?』

『うん会釈された。何でここに? みたいな顔で』

『聞かれないの逆にキツいね。どこに座ったの?』

『後ろで立ってるよ』

『分かった』






『卒業生の、入場です』


 アナウンスがかかり、拍手の中を抜けて着席すると、後ろから田中に背中をつつかれた。

「なんで先生いるんだよ」

 俺より早く見つけるな田中。

 振り返ると、田中が指を向けた先に先生が立っていた。撮影スペースと書かれた場所に立つ保護者達の中で、一人だけ紅白幕よりも背が高い。

 俺たちを見つけたのか、望遠レンズが構えられた。

「今日の先生えらいかっこいいな」

「ありがとう」

 お礼を言うと、田中はちょっと驚いてからくすくすと笑った。

「で、なんでいんの?」

「母さん達がちょっと遅れそうだからって、代わりに来てくれたんだ」

「親公認って最高だな」

 こそっと耳打ちされて、そうでしょうと言いたいけど、なんとか前を向いて顔面を管理した。


「俺、内緒にしないからな」


 背後から田中が言い放ち、はっとしてスマホを見ると、ぽこっとグループチャットの通知が入った。

 通知を開くと、鶴見たちも入った七人グループの方だった。


『高瀬の先生来てるぞ。後ろで立ってる一番でかい人』


 俺はあれから鶴見と持田と林さんにもカミングアウトをしていた。

 なにしてんだよ田中!!!

 田中のメッセージに既読の数字が増えていく。

 前方で菊池と熊田がぴょこっと顔を出し、俺は顔を伏せた。

「見つけたみたいだぞ」と田中の声が聞こえる。



『やば! でか!』と菊池。

『かっこいい人だねえ』と鶴見。

『遠くて写真撮れない』と林さん。やめて撮らないで。

『あとでみんなで撮ろうぜ!』と熊田。なんでだよ!

『スポーツは何かやってないの?』

 持田が謎の好奇心を見せ、『バレーとバスケは経験あるみたいだよ』とつい返事をしてしまった。



 音楽が止んで、起立の号令が体育館に響いた。

 開式の言葉があり、国家が流れ、再び着席をすると直ぐに卒業証書の授与が始まった。


 溝口先生の声でクラスメイトが一人一人呼ばれていく。運動部の返事がやたらと大きい。

 自分の番が迫って、俺はもう一度先生を振り返った。

 カメラを構える先生に笑ってまた前を向く。後ろから田中が背中を突いてきて、背筋を伸ばして口元を引き締めた。



「高瀬祐希」



「はい」



 短い階段を上がってステージに立ち、校長先生から卒業証書を受け取る。

 頭を下げて証書を引き寄せ、一歩下がって脇に抱える。

 横向きになってそのまま、そのまま俺は、体育館の後方を見た。


 開け放たれた出入り口のすぐそば、カメラを手に持つ先生が、紅白幕の前に立っている。


 田中の名前を呼ぼうとした溝口先生の戸惑った気配がマイクに乗って、体育館の呼吸が乱れ、たくさんの視線が俺に集まる。

 まるで森の木々が風に吹かれたような騒めきの中をシャッター音がハッキリと聞こえて、俺はそっと笑って階段を降りた。


 証書を置いて戻ってきた俺をクラスメイト達が見る。 

 何してんの? という女子の目と、やったなという男子の目。

 前の方で菊池と熊田がにやにやして振り返っている。

 席に座ると、戻ってきた田中が俺の髪をくしゃくしゃにした。



 悩み多き思春期を経て、俺は先生というかけがえのない人を得た。

 嘘のない友人たちと、両親の理解と、大学では小塚先輩が待っていて、俺はこれからもボールを追いかけるだろう。

 みんなはもっと、たくさんの良いものを手に入れたのかな。








「溝口先生元気でねー!」

「はい、みんなも元気で」

「ねーねー、カラオケ行く人何人?」

「アタシお腹空いたー」


 証書の筒をリュックにしまっていると、教卓の前で集まるクラスメイトの中から声が掛かる。

「田中たちカラオケ行く? 今は十二人」

「俺は親とメシ。高瀬もだろ?」

「え、うん」

「じゃー休み中どっかで遊ぼーぜ!」

「おう!」

 考える余地もなく話が終わってぽかんとしていると、「ほら行くぞ!」と後ろから熊田が俺のリュックを奪った。

「あっ! ちょっと!」

「早く早く!」

 菊池がわくわくした顔で俺を追い越していく。

「あいつら先生に会いたいんだぞ」

 田中に言われて、ぎょっとなった。

「えっ?!」

 なにそれ、やめてよ!

「待って!!」

 慌てて二人を追いかけた。


 教室を出て急いで階段を下る。

 二人の姿はもう見えない。

「待ってって!!」

「高瀬も待ってー!」

 驚いて振り返ると、後ろから鶴見と持田、林さんも階段を下りてくる。

「ちょっと!! なんで!?」

「だって俺も会いたいもーん!」

 持田がぴょんと階段を五段ほど飛び降りて、俺を追い抜いた。

「バレー部やるなー」と田中が笑う。

 やばい、やだ、俺の先生が!!!

「俺より先に行くなよ!!!」




 結局先生とみんなで写真を撮ることになってしまった。

 さっきは全く気が付いていなかったけど、父さんと母さんも間に合っていたらしく、看板の前で俺たちの集合写真を撮ってくれた。

 先生は一人一人の名前を当ててみせ、みんなは盛大に驚いたあと、にやにやして俺を見てきた。

 みんなは俺と先生のツーショットを撮りたがって、俺はなんとか抵抗をしていたが、「まあまあ」と先生になだめられて、結局撮られる羽目になった。


 しばしわちゃわちゃとしていると、「これで先生と何か食べておいで」と父さんに一万円を握らされ、二人は先に帰って行った。母さんが夕べおばあちゃんの長話に付き合って、とても眠たいらしい。

 田中の兄貴の車が校門前に停まって、みんなと休み中に会う約束をして、ようやく先生と二人になった。


「先生、バスあと三分」

「どこかで何か食べようか?」

「父さんがそうしろってお金くれたけど」

 俺は先生の左手の指をちょこっと引っ張って点滅を始めた信号を走って渡った。

「高瀬?」


「早く先生と二人になりたい!」


 嬉しくてちょっと声が大きくなってしまった。

 青になった次の横断歩道を渡って、バス停に向かおうとした俺を先生の手が引き留めた。

「先生?」

 振り返ると先生は車道を見て、流れてきたタクシーに手を上げた。

 ドアが開いて乗り込むと、先生が自宅の住所を告げた。

 ドキドキと胸が鳴っている。

 先生の手を握ったまま、離れていく母校を見送った。







 先生の部屋に入って、後ろで鍵のかかる音を聞く。

 下したリュックを床に置くと、突然後ろから抱きかかえられて、「いらしゃい」とこめかみに息がかかった。

「せ、先生……」

 びっくりしすぎて全身が固まった。

「うーん。抱きしめる相手に先生って呼ばれるのは、なんだかいけない気持ちがするね」

「まあ……そうかもね」

 手を引かれて一緒に洗面所で手を洗って、先生に倣ってうがいもする。

「俺の名前は知ってるの?」

「知ってる。カイでしょ? 舟を漕ぐ櫂」

「そう。呼んで?」

「えっ?!」

 驚く俺に先生が頷く。

「……か、櫂」

「高瀬はなんて呼んで欲しい? 祐? 祐希?」

「へえ?」

 なんで今そんなことを決めるんだろう。まだ告白はされてないのに。

「祐……かな」

「分かった。祐」

 名前を呼ばれてドキドキする余韻も無く、再び手を引かれてソファーに座らされる。

「さっき、どんな気持ちで俺を見たの?」

「?」

 突然話が変わって、立ったままの先生を見上げた。

「ステージでの話?」

 聞き返すと、「そうに決まってる」と笑われた。

 先生はジャケットを脱いでベストのボタンを外している。その指先を眺めながら、ついさっき視線を集めた卒業式を思い返す。


 やろうと思っていたわけじゃない。でも多分――。


「先生を見てる俺を見せたかった。そうだって、わからなくてもいいから」

「なるほど」

 ソファーが沈んで、そっちに傾いた身体が先生の身体とぶつかる。

「学生時代のコンプレックスを……少しでも軽くしたくて」

 今思いついたことを付け足すと、「俺の存在だけじゃ足りなかった?」と先生が肩を抱き寄せてくる。

 待ってよ、今日だってことは分かってるけど、分かってたけど、こんなにいきなり恋人モードになられるとは思ってなかった。

「なに言ってんだよ、こんなに待たせたくせに……」

 がちがちに緊張しながら、それでも文句を言ったらキスで口が塞がれた。

「んむ!」

 かと思うと制服のジャケットが脱がされて、ネクタイがしゅるしゅると解かれる。

「むわ! ちょ、なにしてんの?!」

 焦って先生の胸を押すと、「コンプレックスを軽くしようかと思って」と、とぼけた顔の先生にカッとなる。

「告白してくれるって言ったくせに!! すっ飛ばして何する気だよ!!」

 怒ると先生は更にとぼけたように天井の方へ視線をやって、「さっき考えてみたんだけど、三月末までは高瀬はまだ高校生なんじゃないかって――」

「キスした癖にうるさいよ!!!」

 怒鳴ると先生はついに笑い出して、その笑顔が俺の顔にぶつかってきた。

「いてっ!」

「ごめん」

 謝る先生の額が俺のとくっ付いて、鼻先までくっ付いている。

「分かった、ちゃんと告白する」

「いやだから……距離がおかしいでしょ、付き合ってる距離だよこんなの」

 文句ばかりの俺を先生がくっくっと肩を揺らして笑う。

「俺のそばに居てくれる? 恋人として」

 両手が握られて、唇に息がかかってくすぐったい。

「先生も、俺のそばにいてくれるの?」

「うん。毎日会いに行くよ」

「毎日?」

 目を丸くした俺に、「週に一回くらいがいい?」と返ってきて笑ってしまう。

「毎日がいい」

「じゃあ、付き合ってくれる?」

「うん」

「よかった」


 キスのタイミングだと分かったけど、照れくさくなって先生のワイシャツにしがみついた。

 直ぐにぎゅうっと抱きしめられる。


「待たせてごめんね、大好きだよ」


 やば、大好きだって!

 俺も……いや無理、恥ずかしすぎる!


「はー」

「はー、だって」

 先生が笑って、一緒に身体が揺れる。

「嬉しくて、なんかすごく恥ずかしい」

「俺も恥ずかしいよ」

「先生もかよ」

「この年でちゃんと告白するっていうのは堪らなく恥ずかしいものだね」

「まあ分かる気がする」

「でも、祐の人生史にちゃんと刻んで欲しいから」

「うん、刻まれた。初めての恋人」

 自分で言って、むふっと噴き出してしまった。

「たくさん初めてをあげるよ。全部俺の名前で刻んでおいて」

「告白は恥ずかしいくせに、そういうことをさらっと言わないでよ先生!」

 文句を言った唇がまたキスで塞がれた。

「んむ!」

「先生じゃなくて?」

「……櫂」

「そう、いい子だね」



 先生に抱き締められるのが好きだ。大きい身体が俺の全部を隠してくれる気がする。

 すべての視線を遮って、守られている感じがして、心からホッとする。




 かつて海底でじっとするしかすべのない深海魚だった俺は、先生に手を引かれ、浮いたり沈んだりしながらなんとか海を生き抜いた。

 時に漂流船だった俺は、先生の船に寄り添われ、今もなんとか海に浮かんでいる。

 俺の船には豪華な設備はない。でも、このまま沈まずに進めるような気がしている。

 この先の人生になにがあるかは分からないけど、一先ず今日は、よく頑張ったねと自分を褒めてあげようと思う。

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先生、おやすみなさい 石川獣 @IshiKemo

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