エピローグ

「着きましたよ、起きてください」

 冷たい風が頬を撫でた。微かに潮の匂いを含んだ風だった。

 薄暗闇の中で私は目を覚ます。車の後部座席で、私はしばらくうたた寝をしていたようだ。体が少し痛い。

 外はまだ暗い。けれども、空はうっすらと白みかけている。時刻は明け方だろうか?

 寝ぼけ眼をこすりながら、開かれていたバックドアから車外に降り立つ。誰かが私の腕をとって支えてくれた。

「大丈夫ですか?」

 にこにこと笑っていて、優しそうな青年だった。

「ありがとう……」

 私はお礼を言ってから、彼の顔をまじまじと見つめる。どこかで会ったことがあるような気もするし、初対面の人のような気もした。

「あの……どちら様でしたっけ?」

 おそるおそる尋ねる。もし初対面でなければ、とても失礼になるけれども……。

「あ、僕は、カイエダと言います。えっと……はじめまして、かな」

 やはり初対面の人らしい。でも、私はなぜ、初めて会う人が運転する車に乗っていたのだろう?

「はじめまして……私は」

 とりあえず、私も名乗ろうとした。けれど、私の舌は、突然、口内に貼り付いたように動かなくなってしまった。

 私は……私は誰だっけ? 私の名前は?

「お帰りなさい」

 いつの間にか、カイエダと名乗った青年の隣に、もう一人、男が立っていた。色の白い、細面の男。

「おかえり……なさい……?」

 怪訝に思い、私は首を傾げた。

「ええ、そうですよ。覚えていませんか? 貴女はこのホテルの従業員です。まだ入ったばかりですけどね。……ねぇ、カイエダ君?」

「あっ……そうそう……ここで働いてもらうことになったんですよ、これから……」

「それで……そうそう、私とも、はじめまして、でしたね。私の名前は、イガタと言います。ホテル・トコヨの支配人です」

 ホテル? 従業員? そうだっけ?

 二人の言っていることはどこかおかしい気がする。でも、どこが?

 頭にふんわりと靄がかかっているようで、何も思い出せない。

 目の前には、確かに、ペンション風の建物が建ってはいるけど……。

「あの……ごめんなさい……私、何も覚えていなくて……自分の名前も分からないし……」

 自分の名前も思い出せないなんて、情けない。恥ずかしさに消え入りそうになりながらも、私は正直に打ち明けた。

「ああ、貴女の名前、ですか……そうですねぇ」

 イガタさんは、急に何かに思い至ったように、腕を組んだ。そして、すっと視線を空に向ける。「貴女の名前は、確か、ユメ、というはずでしたよ」

「ユメ……?」

 懐かしいような、愛しいような響き。

 そうか、それが私の名前なのか。私は納得し、そして、ほっとした。名前が与えられて、私はやっと私自身になれた気がした。

「あっそうだ、ユメさん……上のほうを見てみてください」

 カイエダ君が薄明の空を指差した。

 指し示される先を見上げる。

 薄明りの中に、ひらひらと木の葉のようなものが舞っていた。それも、1枚や2枚ではない。軽く百を越える数の……。

「蝶……?」

 微かな煌めきを宿す翅をひらひらと羽ばたかせ、蝶達が舞い踊っている。こんな沢山の蝶の群は初めて見た気がする。

「すごい……綺麗……」

 私はため息を吐いて蝶達のダンスパーティーを眺める。

「この蝶達は朝日が昇る頃には死んでしまうんです」

 カイエダ君がぽつりと呟くような声で教えてくれた。

 最期の力を振り絞って、夜に舞う蝶の群……。それを思うと、胸の奥がざわめくような気持ちがした。

 二人は、やがて、私を残してホテルの従業員口に入っていった。朝は冷えますから、と言って、カイエダ君が渡してくれたジャケットが、私の肩の上に残った。

 私は、一人で、いつまでも飽かずに蝶達を眺めていたが、そのうち、1匹の蝶に、知らず知らずに目は引きつけられていた。

 その蝶も、私に応えるように、ふらり、ふらりとこちらに近づいてくる。

 蝶は、私の頭の上を2度、3度とゆっくりと旋回した後、やがて仲間達の群の中に帰って行った。

 蝶達を包んでいた闇が消えていく。

 ふと気が付くと、遙か彼方に見える海には、朝の光がきらきらと瞬き出していた。

 記憶を失った私の夜が、今、明けようとしていた。

 私は、ホテルに向かって踵を返した。

「ただいま」と小さく呟きながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とこよのゆめ 三谷銀屋 @mitsuyaginnya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ