羽化 4
私は走った。力の限り。後ろから、複数の人間が追いかけてくる足音が響く。
先ほど通ったばかりのスチール製の白い扉が目前に迫る。
振り向きざまに、私は拳銃を構えた。この拳銃の銃弾は全部で5発。既にあの人を撃ち、長身の男も撃ったので、残りはあと3発だ。追っ手は4人。
1発。2発。3発。
すべて正確に3人の頭を吹き飛ばす。白い壁と白い床で囲まれた空間がたちまち真っ赤に染まる。最後に、残る一人の鼻面にグリップを叩きつけるようにして、拳銃を投げ捨てた。生き残った一人が怯んだ隙に、滑るように扉の外に出る。
先ほどと何も変わらない、人が行き交う空港のロビーの光景が目前に広がっていた。銃声は聞こえなかったのだろうか? こちらに注目するような素振りを見せる人は誰もいない。
私は、努めて平静を装い、ゆっくりとした足取りで歩き出した。普通に歩いていれば、空港の利用客の中に紛れることができるし、奴らもここでは不用意に追ってはこないだろう。
しかし、これからどうしよう? ホテルに真っ直ぐ戻っては、イガタさんやカイエダ君に迷惑をかけてしまうおそれがある。それに、車を拾おうにも財布がない。
そこへ、気配もなく私の隣にすっと近づいてきた人影があった。
私はぎょっとして身構えた。しかし、それは私がよく知っている人物だった。
「イガタさん……なんで……」
イガタさんは、まるで出張帰りの会社員のようなスーツ姿でビジネスバッグを持ち、私の隣を悠々と歩いていた。
「お迎えにあがりました」
イガタさんはにやりと笑って囁いた。
「カイエダがエントランスの車寄せで待っています。参りましょう。あと、これ……」
イガタさんは、ホテル・トコヨのマークの入ったお土産用の紙袋を私に手渡した。
中には、私の拳銃が入っていた。
「お忘れものです」
私は唖然としながら、ただ彼の後に付いていくことしかできなかった。
「すみません! お客様……俺、お客様のバッグの中に拳銃見つけたんで、何か、危ないことをしようとしているんじゃないかって、つい……!」
車の後部座席に入ると、運転席から身を乗り出したカイエダ君に、今にも泣き出しそうな顔で謝られた。
「カイエダ君、謝るのは帰ってからにしたまえ。早く車を出せ。やつらに気づかれているぞ」
イガタさんが助手席に座る。
カイエダ君がアクセルを踏み込み、車が走り出した。少し遅れて、黒い外車が後ろからぴったりと付いてくるのが見える。
「カイエダ君は、こう見えて手癖が悪くてね。しかし、お客様の身を案じてのことでした。許してやってください」
イガタさんは、どこまでも飄々とした調子で、私の方を振り向いて言った。
「それって、カイエダさんが私のバッグから拳銃を盗ったってこと、ですか? でも、バッグの重みは車から降りた後も変わってなかった……」
「それが、狸に化かされた、ということです」
「え?」
「いえ、何でも……気にしないでください」
イガタさんの口元がきゅうっとつり上がり、目は三日月のように細くなる。
「いずれにせよ、我々が来たからには、お客様がそのような物騒なモノをお使いになるには及びません。さぁ、後ろをご覧ください」
イガタさんの言葉で私は後ろを振り返った。
車は、畑に囲まれた明かりも少ない一本道を走っている。黒い車は執拗に追ってきていた。
イガタさんが指をぱちりと鳴らす。
黒い車から突然、火の手が上がる。爆発音。炎の中から断末魔の絶叫が聞こえる。
炎の熱波に煽られるように、私たちを乗せた車はさらにスピードを上げた。
「もしかして……あの時のクルージングボートも、イガタさんが……」
私はごくりと息を呑む。イガタさんは一体、何者なのだろう?
「はい。差し出がましい事かとは思いましたが、あのボートに乗っていた者が、海上からお客様を狙撃しようとしていましたので」
「……私の正体、気が付いていたんですね」
「宿泊名簿にご記入いただいた個人情報に少々不審な点が御座いましたので、失礼ですが、お調べいたしました。偽名を使っていらっしゃいましたね?」
「あの……すみません」
「お気になさらないでください。お客様のようなご職業の方にはよくある事でしょうから」
頭上には赤い空が広がっている。何かがおかしい。道の両脇からもメラメラと赤い炎が噴き上げ、いつの間にか車は炎の海の上を疾走していた。
「ここは……」
「ホテルへの近道なんですよ」
カイエダ君が答えた。
「そうですねぇ。貴女方人間が地獄と呼ぶ場所に近いかもしれませんね、ここは」
イガタさんもまるで何でもないことのように説明する。
私は呆気にとられて車窓をぽかんと眺めていることしかできない。
よく見ると、赤く煌めきながら揺れる炎の中に沢山の黒い人影が見える。真っ黒に煤けた人間達。彼らは、皆、炎の照り返しを受けながら、火の中でぐねぐねと体をひねって身もだえている。そして、よく見れば一人一人の体に幾百ものワスレナマダラアゲハの幼虫が貼り付き、その肉をクチュクチュクチュクチュと食んでいるのだった。それは、私が今まで命を奪ってきた人間達の姿だった。さっき撃ち殺したばかりのあの人の姿もあった。長身の男の姿も、3人の追っ手の姿もある。燃えさかるレジャーボートが赤い飛沫を上げながら火の海を走る。黒い車も燃えながら、深紅に輝く溶岩の滝壺の中に落ちていく。炎の彼方には、私に今回の仕事を依頼したクライアント……あの人の弟の姿も見えた。
「お客様、2週間に及ぶバイバイ・メモリイ・プランも間もなく終わります。いかがでしたでしょうか? 当ホテルのサービスは」
イガタさんの声に、私ははっと我に返った。
「え? えぇと……その……」
突然、ホテルのサービスの感想を求められても、今は頭が混乱してしまって、まとまった言葉を返すこともできない。
「お客様の『忘れたい記憶』……それは、今夜のターゲットのあの御方との思い出、でしたね?」
「はい……」
私は頷いた。
「本当は2週間前に片づけなければいけない仕事だったんです。あの人が一度、国に帰る前に……。だけど、私はあの人を本気で好きになってしまった……だから、情が邪魔をして殺せなかった」
「なるほど。だから、仕事を遂行するためには、彼との思い出を忘れるしかなかった、と……。
しかし、それは本当にお客様の『忘れたい記憶』だったのでしょうか?」
「どういうこと?」
「本当はもっと他に忘れたいものがあったのではないでしょうか?」
「……忘れたいもの……」
私は、右手を目の前に掲げ、薬指にはめられたままの指輪をじっと見つめた。
「そうですね……本当は……忘れたかったのかもしれない、私自身の全てを」
そう口に出した瞬間、思いもかけず、頬に一筋の涙が滴った。
「数え切れない人の命を奪いながら生きてきた、今までを……。誰かを愛せない、愛してはいけない自分自身を……。全て忘れてしまいたかったんです、私……」
堰を切ったように、涙は止まらない。どうすれば止まるのか分からなかった。
「出来ることなら……忘れてやりなおしたい……全部……全部……でも、そんなこと……」
「できますよ!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。バックミラー越しにカイエダ君がにっこりと笑っていた。
「それが当ホテルのサービスですから」
「バイバイ・メモリイ・プランもまだ終わっておりませんしね」
二人が顔を見合わせてクスクスと笑う気配がした。
どういうこと、と訊こうとしたが、その時、右の薬指が異様に熱くなっている事に気が付いた。びっくりして、再び、自分の手を確認する。
指輪が赤く染まっていた。まるで線香花火のような火花が、指輪からパチパチとまき散らされている。私は唖然とした。だが、そこには恐ろしさも、痛みもなかった。ただ、その不思議な美しさに目が離せなくなっていた。
パチパチ、パチパチ……とはぜる火の粉。火花は、蝶の形にもなり、芋虫の形にもなり、卵の形にもなる。
涙が引いていく。
心地よい眠気が頭を包み込む。
やがて火花の煌めきが収まると、燃え尽きた指輪は黒く変色していた。左手の指先でそっと触る。ぼろりと崩れ落ち、灰になって、消えた。
私は微笑み、そして、眠りの中に落ちていく。
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