羽化 3

 到着フロアの椅子に一人ぽつねんと座り、飛行機の発着時刻を知らせる電光掲示板の文字列をぼんやりと眺める。ここが、あの人に指定された待ち合わせ場所だった。

 キャリーケースを引きずりながら、忙しなく行き交う人の波が左右に行き過ぎる。その中で、スーツ姿の長身の男が、手荷物も何も持たずに私に近づいてきたのは、この場所に着いてからおよそ10分程が過ぎた時だった。髪は黒いが顔の彫りが深いので、日本人ではないようだった。

 男は私の前に立ち、身を屈めると、異国の言葉で話しかけた。あの人の国の言語だった。私は、自分の名前を名乗り、そして、あの人に会わせてほしい、ということを同じ言語で返した。

 長身の男は頷き、私に着いてくるように促して歩き出す。私は彼の後ろを追いかけながら、自分があの人に教えてもらった言葉をまだ忘れていなかったことに安堵していた。思い出を記憶するのは右脳だが、言語を司っているのは左脳だという話をどこかで読んだことを思いだし、記憶をなくしても言葉を覚えていたのは多分そのせいだろう、と自分で納得をした。

 長身の男は、何もない壁の前で立ち止まった……ように見えた。しかし、よく見れば、壁には扉がはめ込まれている。何も書かれていない、真っ白なスチールの扉。男は扉を押し開いた。私が中に入ろうとすると、男は片手でそれを押しとどめる。彼の視線は私の持つハンドバッグの上に注がれている。そのバッグをこちらに渡すように、と彼は言った。ここで拒否するわけにはいかない。私は渋々とハンドバッグを男に渡した。

 扉の向こうには、殺風景な白い壁とリノリウムの床に囲まれた廊下が続いている。男の後ろについて歩き、右に3回、左に2回、角を曲がった。今度は、目の前に重厚な木製の扉が現れた。VIP用の特別室のようだ。

 男が横に退く。この扉は私の手で開けろということか。

 重い扉を押し開けた。ソファとローテーブルが整然と並べられたラウンジ。

 黒革のソファには、あの人が腰かけていた。非公式の訪日だから、目立たないように平凡なグレイのスーツを身に纏っている。顔は、さっき車の中で調べた画像と一致していた。

「久しぶりだね」

 彼の口から、流暢な日本語が紡ぎ出される。

「迎えにきたよ」

 その一言にどきりと胸が高鳴った。なぜだろう? 彼との思い出はすべて消え去ったはずなのに。私は、まだ、彼に何かを期待しているというのだろうか?

「私は……」

「僕があげた指輪、まだしてくれているんだね」

 彼は私の右手をとって、掌で優しく包み込んだ。その肌の暖かさに私は束の間の幸福を感じる。

「結婚の約束……まさか本気にしてたのかな? 君らしくもない……」

 彼はそう言うと、私の目を見て微笑んだ。

 端正な美しい顔に浮かぶ微笑み。だが、その笑みは、私に頭から氷水を浴びせかけるような冷たい微笑みだった。

 彼は私を見つめたまま、彼の国の言葉を短く発した。長身の男に何かを命じたのだ。

 次の瞬間、私のこめかみには銃口がぴたりと押しつけられていた。私はごくりと息を呑み込む。

 彼は長身の男から、私のハンドバッグを受け取り、中身を床にばらまいた。財布、スマートフォン、リップケース、手鏡、手帳……。他には何もない。

「拳銃くらいは仕込んできたと思ったが、丸腰か……それとも、他に武器を携帯しているのかな。まさか本気で僕の愛情に応えようとして、のこのことやってきたわけではないだろう?」

「何の話……? 分からない……どういうこと?」

「言う気がないのなら、僕が言ってやろう。君はプロの殺し屋だ。君が1年前に僕に近づき、恋人になったのは、僕に敵対する者に依頼されて僕の身辺を探り、最終的に僕を殺すためだった。君は上手いこと僕を騙して手玉にとったつもりだったろうが、実際はその逆さ。僕は初めから気が付いて、君に惚れ込んだ演技をしていた。君の仕事の依頼主を罠に嵌めるためにね。……それとは裏腹に、君は僕と一緒に暮らすうちに、本気で僕に恋愛感情を抱き始めたようだった。僕が2週間前にこの国を一度去るという時に、君が行動を起こせなかったのもそのためだろう?」

「知らない……そんなこと知らない!」

 私は喘ぐように言った。目に涙を浮かべながら。そして、私は床にまき散らされた私の持ち物を見ながら、持ってきたはずの拳銃はどこにいってしまったのだろう、と胸のうちで考え、次に、長身の男が私に突きつけている拳銃をどうしたら奪い取れるかを考える。

 それにしても、私の素性がここまで彼に筒抜けだったなんて計算外だった。私は彼の掌の上に踊らされていたというわけか! 腹の底からの怒りが私の職業上の殺意の火に油を注ぎ、より一層激しく燃え上がらせる。

「せいぜい、しらばっくれているといい。いずれにしろ、迎えに来たという言葉に嘘はない。君は僕の国に連れて帰り、そこで始末する」

 彼はそう言って、肩を揺らしながら愉快そうに笑う。

「ああ、そうだ。君はまだ知らないだろうが、君に僕の殺人を依頼していたクライアントはもうこの世にいない。2日前に始末した。本当は君も殺すはずだったが、君が滞在しているホテルに差し向けた者達が事故にあってしまってね。だから、こうして君を空港までおびき寄せなければならなかった」

 私の耳に、クルージングボートのエンジン音が蘇る。そうか、あれが……。

 私は片手を素早くジャケットの裏に忍び込ませた。

 長身の男が怒号を発して私の手を押さえつけようとする。だが、私はそれよりも早く、ジャケットの裏ポケットからボールペンを抜き取ると、拳銃を握る男の手元にペン先をぐさりと刺し込んだ。短い悲鳴。男の手から銃が滑り落ちる。すかさず拾い上げた。

 目の前の彼は、眦を釣り上げて顔を真っ赤にし、彼の国の言葉で私を激しく罵っている。彼の目にあるのは憎悪だった。自分を殺そうとして近づいてきた女への憎悪。互いに恋人を演じ合いながら、夜毎、愛を囁きあった相手への憎悪。私が一瞬でも信じた愛情は、どこにもなかった。

 私は、彼の頭をめがけて銃弾を撃ち込んだ。

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