羽化2
「ごめんなさい、遠くまで送ってもらってしまって。他にお仕事もあるでしょうに……」
「いいえ、実は、今夜のご宿泊はお客様だけなんです。僕は運転するの嫌いじゃないし、イガタさんも、是非、送って差し上げなさい、とのことでしたし」
今、カイエダ君はハンドルを握りながらにこにこと笑っていて、私は、その隣の助手席にかしこまって座っている。正直、気まずい。
まさかこんなことになるとは思わなかった。空港には、タクシーで行こうと思っていたのだ。
しかし、フロントでタクシーの手配を頼んだところ、カイエダ君は私の行き先を聞いて目を丸くし、自分が送ると言って聞かなかった。ホテル・トコヨから空港までは、早くても車で1時間半はかかる。さすがにそんな遠くまで送らせるわけにはいかない、と申し出を固辞したものの、支配人のイガタさんまでが横から「カイエダ君、お送りして差し上げなさい」等と言い出す始末。結局、カイエダ君の車で空港に向かうことになったのだ。
夕闇が迫っていた。太陽が沈みきったにも関わらず、西の空は赤い絵の具を塗り込めたような色に染まっている。東京湾沿いに連なる工業地帯の明かりだろう。
私は、手元のスマートフォンに目を落とし、今夜の仕事の情報を確認した。忘れてしまったはずのあの人の顔も、名前も、出自も、インターネットですぐに調べることができる。思い出ではなく、知識として。
中央アジアの小国の皇族の皇太子。今夜、訪日することは流石にマスコミには知られていないらしい。だが、たとえ今回の訪日が公のものであったとしても、世間的には大して注目度の高くない国だからきっとそれほど話題にもあがらないだろう。
ましてや、その皇太子が自国の内紛から逃れるために、実は2週間前まで日本にお忍びで滞在した事も、ここ1年間ほどは日本人女性と同棲し、結婚の約束までしたなんて事も、知っている人間はきっとこの世に片手に数える程しかいない。
「急なお仕事で空港まで行かなきゃいけないなんて、大変ですねぇ」
視線を前に向けたままで、カイエダ君が言った。
「ええ、まぁ……たまにあるんですよね、こういう事……」
「残念ですね、ユメちゃんが飛ぶところ、見られなくて……」
「羽化するところは見られたから……無事に飛び立てているか、ちょっと心配ですけどね」
「今夜はきっとホテルの周りをたくさんの蝶が飛び交っていると思いますよ。ワスレナマダラアゲハは、なぜか皆、同じ日に一斉に羽化するんですよね。まるで皆で約束したみたいに……。蝶たちが月光の中で舞踏会を開いているみたいで、とてもロマンチックな光景なんです」
潮騒だけが響く静寂の中、深い紺碧を翅を煌めかせて幾百、幾千もの蝶達が舞い踊る光景が脳裏によぎった。
「ねぇ、カイエダさん……忘れたい思い出ってありますか?」
窓の外の真っ赤に燃える空を見つめるうちに、脈絡のない唐突な質問が、なぜか思わず口からこぼれていた。
「えっ、僕ですか?」
カイエダ君は少し考え込む様子を見せた後、口を開く。
「ないわけじゃないですけど……忘れたい思い出も、忘れたくない思い出もあるからこその今の自分なんだと思います。それに、忘れていい思い出も、忘れちゃいけない思い出も、そんなにはっきり切り分けられるはずないし……」
そこまで言ってから、カイエダ君は言葉を切った。
「えっと……すみません、あのプランを利用してくださってるお客様にこんな事を言ってしまって……」
「いいえ、こっちこそ、急に変な事を聞いてしまってごめんなさい」
「2週間のバイバイ・メモリイ・プランで……忘れられましたか? 『忘れたい記憶』……」
「あっはい……どうにか忘れられたみたいです。ユメの食欲、それにカイエダ君とイガタさんの協力のおかげで」
「前に進めそうですか?」
「え?」
「思い出を忘れるのは、前に進むため、ですよね?」
「前に進むため……確かに、そう、ですね……」
私は頷きながら、ハンドバッグの中にそっと手を入れた。銃身の冷たい感触を確かめる。その瞬間、爪の先に何か小さなものがコツンと当たったことに気が付いた。摘まみ出してみると、それは金の指輪だった。私は少し迷ってから、その指輪を右手の薬指に填めた。
それから先は、カイエダ君も、私も、互いにずっと無言だった。
車はやがて空港のエントランス前へとたどり着いた。
「ありがとうございます」
私は車から降り立ち、カイエダ君に軽く頭を下げた。
「じゃあ、僕、駐車場に車止めてますんで、お仕事終わったら電話を」
「いいえ、送っていただいたのに申し訳ないんですが……後は自分で戻れますから、ここまでで結構です」
「でも……」
「今夜中に……遅くとも明日の朝までには帰ります。だから……」
「……分かりました。ご無事のお帰りをお待ちしております」
カイエダ君は微笑んで会釈をすると、車を発進させた。私は、ベージュの車体の小型車が夜の街の向こうに消えていくのを見送ってから、踵を返した。
明日の朝までに帰る、という言葉は嘘になるかもしれない。でも、これから起きることに彼を巻き込むわけにはいかなかった。
今夜、私は、消え去っていく記憶に最後の別れを告げなければならないのだ。
私自身が前に進むために……。
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