羽化 1
薄緑の半月の形をしたユメの蛹は、ミヤマオモイデバラの枝に寄り添いながらも、ぐっと反り返って上を見上げていた。ぷっくりと膨らんだその姿は、ちょっと草餅に似ているように思える。
今までは、蛹というのは動かないもの、と思いこんでいた。しかし、意外とよく動く。ぴくりぴくりと、時々、大きく身を捩るので、枝から落ちてしまわないか少し心配になってしまう。草餅みたいな蛹の体に包まれて、ユメは、今、どんな夢を見ているのだろう?
思えば、長いようで短い2週間だった。バイバイ・メモリイ・プランもいよいよ明日で終わりだ。つまり、予定ではユメは今日中に羽化して蝶の姿となり、自然の空へと放たれ、パートナーを見つけて交尾をし、ミヤマオモイデバラの葉に卵という形で遺伝子を残し、そして、明日の朝には死ぬ。
ユメの蛹が身じろぎする度に、私は、ネット越しに顔を近づけ、少しの変化も見逃すまいとじっと目をこらした。今夜、出かける前にせめてユメが羽化するところをちゃんと見届けておきたかったのだ。
明日の朝までに私はこのホテルに戻って来られるか、正直、分からない。それに、蝶になったユメが自然の空へと飛び立っていけば、再会することは難しいし、第一、他のワスレナマダラアゲハの個体と見分けることも、私にはできないだろう。
今のこの時が、ユメと過ごす最後の時間だった。
私は、ミヤマオモイデバラの鉢植えに寄り添うように座りながら、手帳を開いた。メモが挟まっている。このホテルに着いた初日に、私が私に宛てて書いたものだ。たとえ記憶を失っても、今日の仕事を確実に遂行することができるように必要事項が過不足無く書き綴られている。
クライアントからは、一昨日、携帯電話に着信があったきり、その後の連絡はない。漠然とした不安が胸によぎるが、いずれにしろ、私にできる事は与えられた使命を全うすることだ。そのために私はここに来て、そして、自分の記憶をこの虫に食べさせたのだから。
ユメが再び身じろぎした。その動きは今までとは少し違って見えた。これまでは、頭を振るような動きを見せていたのに、今は、体全体を苦しげに何度も波打たせている。
蛹の頭にあたる部分がボコリと開いた。中で針金のような脚が忙しなく震えている様子が見える。
生まれ変わったユメは、蛹の頭部を蓋のように押し上げて、ゆっくりと這い出してきた。体は、頭部と胸部と腹部に分かれ、胸部からは、6本の脚と4枚の翅が生えている。それは芋虫とは全く違う、まさしく「昆虫」の形をしたものだった。翅はまだクシャクシャだが、1時間の後には、ピンと広がって完全な蝶の姿になるだろう。
「ユメ……おめでとう」
私は囁きかけると、ミヤマオモイデバラにかけられたネットを外した。ユメの翅の美しい紺色が、くっきりと鮮やかに目に映る。
私は、鉢植えを両手に抱え、バルコニーに置いた。
風が少し強い。羽化したばかりのユメは、果たしてこの風に乗って飛び立てるのだろうか、と心配になった。だが、どんなに厳しい条件だとしても、今日飛び立てなければユメはこの世に遺伝子を遺すことができない。2週間の命は、きっとこの日のためにある。
「さようなら」
私はユメに別れを告げた。ユメが飛び立ち、無事に一夜の恋の相手を見つけられるよう、祈りを込めて……。
私は鉢植えをバルコニーに残したまま、部屋に戻り、薄手のジャケットを羽織った。裏地のポケットに、カイエダ君のボールペンを挟む。ホテルのものなのだから勝手に持ち出すのは良くないだろうが、お守り代わりに持っておきたかった。
スーツケースを開き、2週間ぶりに「商売道具」を取り出す。肩に懸けたハンドバッグに入れると、ずっしりとした重みが左肩に加わった。
――私はもうあの人のことを覚えていない。
私は、自分自身に言い聞かせた。
――私はもうあの人の顔を覚えていない。あの人の声を覚えていない。あの人の指も、肌も、唇も覚えていない。私があの人に抱いていた気持ちも、もう、覚えていない。
私は部屋を出た。フロントに向かう。
「あっ、お客様……どうですか、ユメちゃんの様子は? そろそろ羽化し」
「カイエダさん」
私は、フロント奥の扉から顔を出したカイエダ君の言葉を途中で遮り、声をかけた。カイエダ君は、私のただならぬ様子に気圧されたように口を噤む。目を瞬かせながら私の顔を見て、次の言葉を待っている。
「あの、お願いがあるんですけど……」
「はい、何でしょうか?」
歯切れの悪い私の言葉に、カイエダ君はいつもの笑顔で淀みなく返事をした。
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