バルコニーから見える海は、ジェットバスみたいにブクブクと白く泡立っていた。

 空は、今にもたくさんの雨粒を地上に振り落としそうなくらい、厚い雲に覆われている。その下を、ブンブンと羽を震わせながら、幾百もの蜂型戦闘機が飛んでいく。蜂型戦闘機から卵の形の爆弾が投下された。卵は、海面に届く前に空中で割れ、中から小型の戦闘機が5、6機ずつ生まれた。

 ああ大変。あの戦闘機達は私をねらっている。私の体に戦闘機の卵を産みつけようとしているに違いない。

 私は助けを求めようと部屋のバルコニーから身を乗り出した。眼下には、ホテルのラウンジに続く芝生の庭が見える。庭には、戦闘機撃退用の高射砲がどっしりと据えられ、その前には1匹の白い狐がすまし顔で座っている。

 狐は、前脚を器用に使って砲台の角度を調整しながら、戦闘機達の群を引きつけていた。

 狐がふさふさした尾をぶわっと逆立てる。それを合図に、高射砲からは、巨大なボールペンが空に向かって無数に連続発射された。

 ボールペンはロケットのように真っ直ぐに飛翔し、次々に戦闘機の機体をペン先で貫いていく。戦闘機は木っ端微塵に破壊され、破片は海に向かって落下する。海からはプクプクとシャボン玉のような泡が噴き出す。虹色の泡は、落下する戦闘機の残骸のひとつひとつをクルリとその中に取り込んでしまうと、再び波の間へと消えていく。

 気が付くと、さっきまで空を埋め尽くしていたはずの戦闘機の一団は、一機残らず撃墜され、もはや影も形もなくなっていた。

 私は安堵の溜め息を吐いた。これでもう安心だ。だから……そうだ。そろそろ朝食を食べにいこう。これで心おきなく美味しいご飯を食べられる。

 部屋を出る。すると、右隣の部屋のドアもがちゃりと開いて、誰かが出てくる。

 おかしいな。隣の部屋には誰も泊まっていなかったはずだけど。

 そう思っていると、左隣の部屋のドアもがちゃりと開いた。がちゃり、がちゃり、がちゃり、がちゃり……。長い廊下に沿って並んだ扉が次々に一斉に開く。

 え、このホテル、こんなに客室あったっけ? と首を傾げているうちに、ドアからのっそりと現れた宿泊客達……彼らは、私を除いて、全員、芋虫の形をしていた。ほっそりして茶色い1齢の芋虫から、ドアにつかえてしまうくらいにムッチリと太った緑色の5齢の芋虫まで、成長レベルはまちまちだ。

 芋虫達は廊下に這い出ると、右側の一方向に向かって一斉に行進し出した。左隣の芋虫も右隣の芋虫も動き出したので、彼らに挟まれた私も行進に加わらないわけにはいかない。右隣の芋虫の後について私も歩き出す。

 規則正しくのったりのったりと進む静かな行進は、階段をゆっくりと下りていき、やがて朝食会場のレストランへと到達した。

 先に着いた芋虫達は、もう既に食事を楽しんでいる最中だ。レストランに整然と並んでいたはずのテーブルは、全て、ミヤマオモイデバラの鉢植えに交換されている。芋虫達がクチュクチュと葉を食べる音だけが静かな空間に反響していた。

「お待たせしました。お席までご案内しますね!」

 カイエダ君の声。しかし、姿は見えない。

 私がきょろきょろしていると「ここですよ、ここ!」と足下から再び声がした。

 もっさりした狸が、行儀良くお座りをして私を見上げていた。

「こちらです」

 カイエダ君(?)は尻尾を揺らしながら、芋虫達の間を縫って私を先導するように歩き出す。戸惑いながら後についていくと、私が案内されたのも、やはり普通のテーブルではなく、ミヤマオモイデバラの巨大な鉢植えの前だった。鉢植えの傍らに椅子が置かれ、深緑色の葉の上にナイフとフォークがセットされている。

「ごゆっくり!」

 狸のカイエダ君はそう言い残すと、まだ並んでいる芋虫達のほうに忙しなくちょこまかと駆けていった。

 やがて、全ての芋虫達が、それぞれ案内された鉢植えの前に着席(?)した。

 私は、ただ、ナイフとフォークを両手に掴んだままで当惑していた。こんなものは人間の私に食べられるはずがない。人間用の普通の食事に変えてもらおうと思い、周囲を見渡しながらカイエダ君の姿を探していたところ、1匹の芋虫が目に止まった。痩せて、弱々しげな、小さな茶色の芋虫……。

「ユメ……?」

 私は直感的にその芋虫がユメだと分かった。ユメは、自分の鉢植えに着席できなかったらしく、ひとりで寂しそうに壁際にうずくまり、食事を取る他の芋虫達を羨ましそうに眺めている。

「ユメ、こっちへおいで!」

 私は声をかけるがユメは気が付かない。

 私はしびれを切らして立ち上がり、ナイフを隣の芋虫の背中に突き刺した。芋虫の背中の傷から、人間のように赤い血が噴き出す。刺された芋虫は、ジー……ジー……と鳴き声を上げながら床に倒れ込んで息絶えた。

 私は、他の芋虫の背中にも、次々とナイフを突き立て、切り裂いた。芋虫達を殺せば、ここにあるミヤマオモイデバラは全てユメのものになる。ユメはたくさん食べなければならない。ユメは早く大きくなって、美しい蝶へと変身しなくてはならないのだ。

 ジー、ジー、ジー、ジー……。

 芋虫達の断末魔の声が合唱のようにレストランの空間に充ち、大量の血が床を赤く染めていく。

 とうとう私は全ての芋虫を殺戮し終えた。達成感を感じながら、ユメがいた壁の方を振り返る。しかし、そこには、ユメの姿はなかった。

「ユメ! どこにいるの!?」

 私は必死になってユメの姿を探した。もしかしたら、殺戮に夢中になってうっかりユメも殺してしまったのかもしれない。

「ユメ!」

 ユメの姿を見つけた。ユメはこちらに背を向けてレストランの出口へと這っていくところだった。

「待ってよ、ユメ!」

 私は追いかけた。出口の向こうは白い光に溢れている。光に飲み込まれて、ユメの姿が見えなくなる。

「ユメ!」

 私も光の中に飛び込んでいった。目映さに目を射抜かれ、瞼を閉じる。

 再び目を開けると、私はだだっ広い駐車場のようなアスファルトの平原に立っていた。だが、自動車などどこにもないし、ユメの姿も見えない。

「あまり前に出ると危険ですよ」

 ふらふらと歩き出そうとした私をイガタさんの声が止めた。振り向くと、ホテルの中庭で高射砲を操作していた白い狐がこちらを見て、にんまりと笑っていた。

「ここは……どこなんですか?」

 私は、狐のイガタさんに訊いた。

「ここは空港の滑走路です」

「もうすぐ飛行機が到着しますよ!」

 イガタさんの返事に続いて、カイエダ君の声がした。足下で、狸のカイエダ君が尻尾をぶんぶん振りながら人なつこそうに私を見上げている。

 不意に、辺りが暗くなった。飛行機の影だ。

 空を見る。青い空を背負って、蝶の形の飛行機がひらひらと舞い降りてくる。

 ワスレナマダラアゲハだった。

 ぱたぱたと懸命に羽を動かしながら、ジェット機サイズのワスレナマダラアゲハは、アスファルトの上に優雅に着陸した。

 リールのように巻かれた口吻をすっと伸ばす。

 その長く細い口吻をタラップにして、飛行機から誰かが降りてくるのが見えた。

 あの人だ。ゆったりとした白い服に身を包み、胸元に鮮やかな深紅の飾り紐を10本程ぶら下げている。あの人の国の伝統衣装だ。

 彼は、私の前に降り立った。

 私は彼の顔を見る。彼の顔には、目も口も鼻もなかった。顔も体も、真っ黒な闇で塗りつぶされている。

「ムカエニキタヨ」

 ざらざらとした雑音混じりの機械音声で彼がしゃべる。

「あなたは誰?」

 私は尋ねる。私、こんな人知らない。覚えてない。

「ムカエニキタヨ」

 彼は繰り返した。私は不安になって後ずさった。しかし、彼の手が私の右手首を掴んで、強い力で引き寄せた。私は動けなくなった。

「やめて! 離してよ!」

「ムカエニキタヨムカエニキタヨムカエニキタヨ」

 私の拒絶など全く意に介していないのか、同じセリフだけを延々とリピートしながら彼は、胸の飾り紐を指先で掻き分けてその奥から何かを引っ張り出す。金色の指輪だった。

「ムカエニキタヨムカエニキタヨムカエニキタヨ」

 彼は、私の右の薬指に金の指輪を無理矢理押し込むようにしてはめた。指と指輪の隙間から、どろりとした黒いものが溢れ出す。

「ムカエニキタヨムカエニキタヨムカエニ……」

 指輪から生まれた黒いどろどろした闇がたちまち私の体を覆った。闇の塊は、耳を、口を、鼻を、目をこじ開けて私の内部に蠢きながら侵入してくる。

 寄生された、と私は直感した。

 たくさんの蜂の幼虫達が私の内蔵をクチュクチュクチュクチュと食べ始めた音がした。

 私は絶叫した。

 だが、その声も、ジー、ジー、ジー、という携帯電話のバイブレーション音のような鳴き声にしかならなかった。

 ジー、ジー、ジー、ジー、ジー……

 私はいつまでも泣き叫んでいた。


 夢はそこで終わりだった。私は体の節々に痛みを感じながら起きあがる。どうやら、ソファに座って読書をしながらうたた寝をしていたらしい。

 時計を確認する。午後6時を少し回ったところだった。

「あー……変な夢見ちゃった」

 私は大きく伸びをする。

 それにしても……そうだ、あのバイブレーション音。私は、充電器に差しっぱなしだったスマートフォンを確認した。

 やっぱり着信があった。しかも、仕事のクライアントからだ。

「あ、やばい」

 私は慌てて発信ボタンをタッチして、スマートフォンを耳に押し当てた。

 呼び出し音を聞きながら、ローテーブルの鉢植えを覗き込む。白いネットに覆われた世界で生きるユメは、今はもう蛹の姿になっていた。枝にくっついた鮮やかな緑色の蛹は、一見、ミヤマオモイデバラの葉と見分けがつかない。これが保護色というやつか、と改めて思った。

「……出ないなぁ」

 コールが20回を越えたところで、私は電話を切った。何かあれば、きっとかけ直してくるか、メールでもくれるだろう。

「お腹空いたな」

 今日の夕飯の時間は6時半と伝えてあるから、そろそろレストランに降りていっても良いだろう。今夜のメニューはスズキのムニエルだとカイエダ君に教えてもらったから楽しみなのだ。

 ルームキーをポケットに入れて廊下に出る。このフロアの宿泊客は今日も私だけだから、廊下は深閑としていた。なんとなく立ち止まり、おそるおそる左右を確認する。両隣のドアから巨大な芋虫が出てくるなんて事はもちろんなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る