第4話 太陽のアイスバイン

 ダミエルさんは電動車椅子を操り、鍋から煮込んでいたアイスバイン(塩漬けした豚スネ肉)を取り出して、一緒に煮込んでいた野菜とスープもたっぷりと器に盛った。アイスバインのポトフだ。

「これは全部ダミエルさんがおひとりで作ったのですか?」

 彼がこんな凝った料理をするのも意外だったが、料理が得意だったとしても、杖で身体を支えながら自由に動かない手では材料を切るのもままならないはずだ。

「ああ。エンゲルが作らせてくれた」

 何やら思わせぶりな物言いだが、とりあえず今は目の前に出されたポトフで頭も心も一杯になっている。

「じゃあ、いただくか」

 テーブルの上には、二人分の食事が並んだ。どう見ても、家主と私の分だ。少女の前には何も置かれていない。

「あの、彼女の分は?」

 私がおずおずと聞くと、ダミエルさんはほんの少し肩を上げて答えた。

「エンゲルは何も食わん。だからエンゲルと呼ぶことにしたのさ」

 なるほど、と納得していいのか。私はまじまじと少女を見たが、ただ彼女は微笑むだけだった。

「ほれ先生、冷めないうちに食え」

「はい。では、遠慮なく」

 ダミエルさんはイタリア系らしい。その家系からなのか、この国で食べるアイスバインには珍しくトマトが多く合わせられている。私も初めての組み合わせだったが、アイスバインの塩気と、トマトの酸味の奥にある甘味が引き立って、ほろほろと崩れる肉に爽やかなうまみを与えていた。

「美味しいです、とても」

「でしょ!」

 なぜか少女が誇らしげにしている。ダミエルさんもそんな彼女につられて、今日一番の笑顔になった。

「トマトは太陽の分身だからな。色々なものに恵みを与える」

「へえ、そうなんですね。イタリアではそう言われているんですか?」

「いいや、儂のオヤジが言っとっただけだ」

 そういうと、ダミエルさんは少し目を細めた。その目をしたまま、しばらく時間が流れる。最初に退院を申し出た時のダミエルさんも同じ目をしていた。

 彼が退院を、いや、転院を望んだ理由を思い出し、私はつい涙を溢していた。空気は乾燥していない。冷気が網膜を刺激したわけでもない。

 ダミエルさんは三千ユーロを用意できなかった。私がたったの三千ユーロと感じた死の金額を。

「儂からも先生にひとつ訊いても良いかな?」

「ええ、なんでも」

 彼に隠しごとをする必要はない。

「エンゲルに逢ったのはいつかな?」

「ついさっき、です。図書館で」

「ついさっき? このアイスバインは一週間前から仕込んだ。エンゲルに言われるまま二人分を」

「一週間前ですか」

 私は何気なくずっと笑顔を浮かべている少女を見た。すると、天使の少女エンゲルがこう言った。私を試すような口調で。

「あたしがお姉さんの前に初めて姿を出したのも一週間前だよ」

「え? お嬢ちゃんとどこかで会っていたら、忘れるはずないと思うけど」

 彼女はそれほどまでに他の女の子たちとは違っていた。

「あの時はお姉さん、ずっと俯いてたもんね」

 私はハッとしてテーブルの下で床につくことなく揺れている少女の足元を見た。細く白い脚に黒いソックスと黒い靴。

「シュミットさんの」

 少女が手をひとつ鳴らす。

「うん。あの時呼ばれたからね、お姉さんから」

 ああ、そうだったのか。シュミットさんの息子夫婦の後ろにいたのはこの少女だ。そして、きっと普通の人にはこの少女は見えない。

 そう考えると、図書館からここへ来る途中ですれ違った若い女二人が揃って笑っていたのも当然だ。私は周囲から見てひとりで話しているように見えていたのだ。

「それでね、ダミエルさんがずっとひとりで寂しいって話してたから、丁度良いかもしれないなって思ったの」

「そうだったんだね。うん、そっか。ありがとう」

 私は心から少女に、エンゲルにお礼の言葉を伝え、一週間前から準備してくれていたアイスバインをダミエルさんとエンゲルと三人で談笑しながら食べ終えた。

 そして、図書館から借りてきた本を、食器を片付けたテーブルの上に置いた。

 ――死を選ぶ権利と自殺幇助のあり方

 スイスの自殺幇助団体が出版した本だ。

 今更私はこの本を開くことはない。この本がこの世に存在していること自体が私の葛藤の答えだ。

「先生、巻き込んですまんかったなあ」

 ダミエルさんが苦痛に表情を歪めた。少女が彼の手を取る。そして私の手も。

「いや、良いんです。私も疲れていましたから」

 こうなる運命だったのだ。こうあるべきだったのだ。私は毒の存在に気付いても、燃える太陽の分身を身体の中に入れ続けた。

 苦しみは想像していたよりも少なかった。それは、これまでの私に与えられ続けていた苦しみと比べての話だ。自分で呼び込んだ苦痛と比べての話だ。

 私は最期の時まで少女の手を握り締めていた。天使の手を。


 もう世界一美しい図書館で聖書を手に取る必要もない。


 太陽のアイスバイン 了

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太陽のアイスバイン (extended version) 西野ゆう @ukizm

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