第3話 図書館の天使
闇に堕ちていく自分を、どうにかして人間に戻したい時に訪れる場所がある。
その場所は、音楽に取り憑かれてしまっていた古い恋人に言わせれば、憧れを持つ聖地のひとつらしい。古くはバロック音楽の直筆譜が保管されている。
また、映画好きで「ベルリン・天使の詩」に感動したという幼馴染は、その建築物としてだけでも美しい館内で、本のページを捲ってみたいと言っていた。
ポツダム通りに建つベルリン州立図書館。
「死神の手」の仕事とは関係のない緊急手術で、術後の説明に時間がかかってしまった。
私を「女医」と呼んでいた患者に手術の必要性があったことを懸命に説いても、所詮私は「女医」だったのだ。同僚の男性医師の手を借り、夜九時を回ってようやく仕事から開放された私は、閉館間際の図書館に向かった。
速足で歩きながら、これまでのことを思い返していた。自分の罪を確認し、適切な罰を探す。図書館へ行くのもその探し物のためだ。
私は図書館で聖書を手にする。
クリスチャンでもない私が教会へ行くのは憚られる。「協会の扉はいつでも開かれている」らしいが、いざ外に出ようとしたときに「やはり閉じることにしました」などと言われそうで怖いのだ。告解もしない私の罪は赦されないと。
それでも何かに縋りつきたい私は、あの時のシュミットさんと同じ目をしていることだろう。
その目から涙が零れた。きっと外の乾燥した冷気が網膜を刺激したのだ。
涙を袖で拭い、きつく纏め上げていた髪を解く。髪を降ろした瞬間、
雪がちらつく日で良かった。寒さは匂いも、そこに付随する記憶も隠してくれる。
図書館のドアノブに横たわるライオンも、寒さに凍えているようだ。
利用者証を提示して、私はいつものように閲覧机が並ぶスペースをすり抜けて奥の書架へと向かった。
少し暖房が効いている。私は匂いと記憶を封印するように、再び雑に髪をひとつに縛った。
その時、背後からの視線を感じた。まるで天使からの視線のようだった。遠くから見られているはずなのに、気配は直ぐ
まさかと思いながらも、私は振り返った。
すると、二階の観覧席から劇場の舞台を見下ろすように、二階の閲覧エリアの手すりに両肘をつき、両手で小さな顔を支えている少女と目が合った。左右対称で人形のように整った顔をしている。可愛らしさと生命としての美しさの両方を感じた。
「こっちに上がってきて」
聞えたわけではない。だが、少女の口は確かにそう動いていたし、手招きもしていた。私は周囲を見渡し、少女が確かに私に向けて言ったのか確認した。周りには誰もいない。少なくとも二階に目を向けている者は。
確かに私を呼んでいるのだと認識した後、もう一度少女がいた場所を見ると、そこにはもう人の姿はなかった。私は視線を二階から降りてくる階段へ動かした。
閉館間際とあって、利用者たちは降りてくる者の方が多い。だが、少女が降りてくる様子はなかった。
私はこの日の聖書の閲覧は諦め、少女がいた二階へと足を向けた。
階段を上っていくと少しずつ気温の上昇を感じる。胸にもやもやとした嫌な記憶が渦を作る。やはり二階へ行くのは馬鹿げているのではないか。そんな言い訳をして、浮かんでくる過去の苦しいイメージから逃げようとした。
「じ、地震?」
思わず階段の途中でしゃがみ込み、すれ違う淑女から「貴女、大丈夫?」と声をかけられた。地面は揺れていない。書架も、その中に整然と並べられている資料の数々にも乱れはない。ここはほとんど地震のないドイツだ。地震酔いなんて久しぶりに起こした。
「ありがとう、大丈夫です」
私が笑顔で答えると、淑女は安心したように私に笑顔を返した。その淑女に、声をかけられたついでに聞いてみた。
「あの、二階に六歳くらいの女の子は居ませんでしたか?」
「六歳くらい? いいえ、もうこんな時間だしね、私は見ていませんよ」
たしかに夜の十時前。親が付いていたとしても少女が外出するには不自然な時間だ。
「そうですか。ありがとうございました」
私はそのまま引き返そうかとも考えたが、地震酔いは神の啓示ではなく、悪魔の妨害ととらえて二階に向かった。私を二階に向かわせたくないと足止めした悪魔に反抗して。
結果はどちらだったのだろうか。少女はどこにもいなかった。ただ、彼女がいた場所に一冊の本が出されたままになっていた。
その本を手に取る。少女には縁のない本だ。だが、私にとってはそうではない。私はその本をカウンターに持っていき、貸し出しの手続きをした。そうすべきだと思わされる本だったからだ。
「でも、どうして?」
あんな小さな少女が読んでいたとも思えない本。しかし、彼女が私をこの本と繋いだのは疑いようがない。
奇妙な胸騒ぎを抱いたまま図書館を出ると、図書館の二階にいた少女がまたしても現れた。今度は目の前だ。私の、すぐ目の前。
「一緒に行こうよ」
「え?」
「美味しいご飯もあるから、ね? お姉さんも一緒に行きたいって思っているでしょう?」
「あなた、天使なの?」
私がそう口にしたとき、すれ違った二人組の若い女が私の方を見て、手で口を隠して笑っていた。確かに笑われても仕方がないセリフだった。
私がそう少女に聞いたのは、前を歩き始めた彼女の背中に羽があったから。カウチンヤーンで編まれた赤いセーターの背中に、真っ白な羽の模様。私から「天使」と言われて、少女は左右の足元を確認するように首を振ってから、軽く飛び跳ねた。
「これだけしか飛べないから、きっと人間だと思う」
少女はそう言って少し笑っただけで、再び私の前を急ぎ足で進みだした。大人の私でもなんとかついて歩いていける速さだ。
「こっち、こっち。このアパートだよ」
五分も歩いただろうか。私はそのアパートの住人を一人知っている。
つい最近私が勤める病院を退院した男性の住むアパートだ。
「お嬢ちゃんって、ダミエルさんの娘、ううん、お孫さん? あ、でもダミエルさんは」
「どっちも違うよ」
推測を続ける私を遮って少女はそう言ったが、向かった部屋の扉には、そのダミエルさんの部屋だと示すネームプレートが入れられている。
「ただいま!」
少女がダミエルさんの部屋をノックして元気な声で言うと「開いとるからどうぞ」と部屋の中から声がした。その声を聞いて、すぐに少女はドアを開けた。
私は少女のすぐ後に続いては入れなかった。ひどく奇妙に感じたからだ。
「ただいま」と言った娘でも孫でもない少女に対して、「おかえり」と言わなかったダミエルさんが。それでも入るのを拒まなかったダミエルさんが。私の知るダミエルさんは、ひどく気難しく、頑固な印象だった。
そうやって躊躇していると、一度閉まった扉が少女によって中から開けられた。
「お姉さんも早くおいでよ。中は暖かいよ」
確かに部屋の中からは暖かい空気が漏れてきていた。ということは、こうしている間にも外の冷気が部屋の中に入ってしまう。
私は意を決して部屋に足を踏み入れた。
「あの、こんばんは。夜分遅くにお邪魔して申し訳ございません」
「ん? おや、『お姉さん』なんて呼ぶから誰かと思えば、先生か」
住人はやはりダミエルさんだった。病院内では見たことのないダミエルさんの晴れやかな顔を見て、私は正直驚いた。
彼の身体には多くの癌細胞が存在していた。だが皮肉なことに老いたダミエルさんの癌細胞は、増える速度が遅い。ただただ痛みを与え続け、死には至らない。そして、抗がん剤治療を行えば、それ以上の苦痛に襲われる。できることは緩和療法だけ。
「療法」などと呼んでいるが、それは「治療」とは呼べない。痛みが出たときに鎮痛剤を打ち、精神的な負担を神によって軽減してもらうしかない。
日々ダミエルさんを襲う激しい痛みと、筋肉の萎縮は少しずつ頻度を増す。四肢が彼の意思通りに動く時間もごく短くなっている。だが、まだ命は尽きない。
「先生も食べていかれますか?
部屋の中に入ったものの、扉のすぐ内側で立ち尽くしていた私にダミエルさんが声をかけた。
「エンゲル?」
私は隣で微笑む少女を見て目を丸くした。まさか本当に天使とは。
「名前聞いても教えてくれんでな。仕方なくそう呼んどる」
「仕方なくで、天使ですか」
私がその天使に視線を向けると、キッチンに置いてある踏み台に乗り、鍋の中を確認している。
少女が言っていた通り、美味しい食事もあるようで、その香りにさっきから空腹だった私の胃がいつ雄叫びを上げるか緊張していた。身体だけは健康体の私はそのことに罪悪感さえ感じている。
「もうすぐ出来上がりそうだよ」
あの踏み台は誰のものだろうか。天使が持ち込んだとは思えない。だとすれば、ダミエルさんの家族のものだろうが、ダミエルさんから家族の話は聞いたことがない。
「儂は独り身で、死んだとしても悲しむ者は誰もおらん」と院内でいつも言っていた。
今も私の瞼の裏には、悲しむ者が居ないと語る彼の悲し気な顔が焼き付いている。
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