弟離れ

惣山沙樹

弟離れ

 今日の夕食はわたしが作ることになっていた。会社帰りにスーパーに寄り、ブリを四切れとほうれん草、卵を買った。

 帰宅してスーツからゆるいTシャツとジャージに着替え、調理をしていると、弟の大輝だいきが帰ってきた。


「あっ、今夜はさっちゃん?」

「そうだよ。父さんも母さんも遅いから。先に二人で食べよう」


 大輝は大学に入ってから髪を少しだけ茶色に染めた。眉も整えて、服装も気を遣って。すっかり垢抜けたと思うけど、わたしから見ればまだまだ子供だ。もう成長期は終わっただろうに、米をどんどんおかわりしてくる。だからいつものように多めに炊いていた。


「大輝、食器出して。お茶もいれて。それくらいできるでしょ」

「はいはい」


 わたしたちは六歳離れている。だから、大輝が生まれた時の記憶は鮮明だ。産院に行き、これが弟だと見せられて、そっと広い額を撫でたことをよく覚えていた。


「さっちゃん、ご飯終わったらお願いがあるんだけど」

「お願い? 見返りは?」

「えー、考えてなかった。それに大したことじゃないし」

「ふぅん?」


 食卓を整えて、大輝と向かい合わせに座って手を合わせた。


「いただきます」


 ブリの照り焼き。ほうれん草のみそ汁。卵焼き。両親が共働きで忙しかったから、これくらいの料理は学生のうちからできるようになっていた。


「んー、さっちゃんの料理、うまっ!」

「で? お願いって何」

「ピアス開けて」

「ピアスぅ?」


 大輝は自分の耳たぶを触った。


「ピアッサーは買ったんだけどさ。失敗するの嫌なんだよ。さっちゃんなら安心だし。自分で開けたんでしょう?」

「まあ、そうだけど。人のはやったことないよ」


 予防接種の注射針すらこわがって泣いていたような子が、なぜいきなりピアスなのか。わたしは鋭い視線を向けた。


「何かあったの? 開けたくなるきっかけ」

「父さんと母さんにはまだ言わないでよ?」

「うん」

「俺、彼女できた」

「えっ」


 危うく箸を落としそうになった。持ち直して話の続きを聞いた。


「同じ大学の子でさぁ……すげーお洒落なんだよ。俺もカッコつけたくて」

「じゃあその彼女に開けてもらえばいいじゃない」

「恥ずかしいじゃん。自分で開けたことにしたい。こんなことさっちゃんにしか頼めないんだってば」

「はぁ……」


 わたしは一旦お茶を飲んで気を落ち着けた。


「じゃあ、ロアールのモンブランね」

「了解。明日買ってくる」


 ロアールは、近所にあるケーキ屋だ。誕生日もクリスマスもそこのケーキを買っていた。


「片付けたら大輝の部屋行くから。待ってて」


 皿を洗いながら、ざわめく胸の内を誤魔化そうとこう自分に言い聞かせた。大輝も大学生。そういうお年頃。彼女ができたって不思議じゃない。もう、わたしの後をついてよちよち歩いていた幼児ではないのだ。

 アイライナーと消毒液とコットンを持って大輝の部屋に行くと、勉強机の上にはピアッサーが置いてあった。わたしはそれを手に取った。


「黒?」

「うん。カッコよくない?」

「まあ、大輝に合うかもね」


 椅子に大輝を座らせ、アイライナーのフタを開けた。


「位置はどの辺?」

「普通でいいよ」

「普通って……言われてもねぇ……」

「それじゃあ、さっちゃんと同じ場所」

「大輝はそれでいいの?」

「うん」


 柔らかな耳たぶに触れ、そっと印をつけた。わたしは念のために鏡で見せた。


「ここでいい?」

「大丈夫!」

「一気にやっちゃうからね」


 コットンに消毒液を染み込ませて耳たぶを拭き、慎重にピアッサーをあてた。まずは右。


「……いくよ」


 こわがって力が込められないのはまずい。思い切ってやった。そして左。


「はい、できた」

「おおー!」


 大輝は鏡を覗き込んでご満悦だ。わたしは言った。


「お風呂の時、軽くシャワーかけるんだよ。一ヶ月はつけっぱなしね」

「ありがとう、さっちゃん!」


 お風呂のお湯もまだ張っていなかったし、すぐに出て行ってもよかったのだけれど。わたしは大輝に尋ねた。


「彼女……どんな子?」

「同級生。優しい子だよ。あと美人。まあ、さっちゃんの方が美人だと思うけど」

「褒めても何も出ないよ」

「だってさっちゃん可愛いじゃん。さっちゃんこそ彼氏居ないの?」

「そういうの、興味ないから」

「もったいないなぁ」


 わたしは大輝のピアスにそっと触れた。


「大輝のお願い聞いてあげるの、これが最後だからね」

「えっ、何でさ」

「これからは彼女を頼りなさい」

「でもさぁ……彼女だからこそ言えないこととかあるじゃん。その時はさっちゃんが聞いてよ」

「まあ、場合による」


 お風呂には先に入らせてもらった。湯船の中で、いつか大輝と一緒にここでシャボン玉をした時のことを思い出した。もうあの頃には戻れない。進んでいくのだ。季節も人も。


「大輝……」


 明日のモンブランはどんな味がするのだろう。できることなら美味しく頂きたい。わたしは今のうちに、と顔を覆って肩を震わせた。

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弟離れ 惣山沙樹 @saki-souyama

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