彼は決して語らなかった。

椛猫ススキ

彼は決して語らなかった。

 二十年ほど前に勤めていた会社での話である。

「おはよー。椛猫ちゃーん、ねー、甘いのちょうだーい」

 朝に来るのは珍しいお客さんの産屋さん(仮名)がそこにいた。

住む場所が近いし、酒飲み仲間でもあるので産屋さんは私にとてもフレンドリーだ。

 だが、その日はなぜか受付に上半身を倒しぐねぐねと蠢いている。

なんだこのおっさんは、朝も早くから。

いやいや期か。

「おはようございます、産屋さん。この時間に来るの珍しいですね。甘いのですか?飴でいいですか?」

 書類を預かると引き出しを開けて飴を探した。

産屋さんはそこそこの自動車屋に勤める整備士だ。

先週、まとめて有給取って旅行に行っていたと聞いていた。

「旅行に行ってたって聞きましたけど楽しくなかったんですか?」 

 書類を確認しながら訊くと疲れ切った顔で首を横に振った。

「違うよー…旅行は楽しかったよー…違うんだよー…」

 産屋さんはそう言って語りだした。

「ほんともー、朝から最悪だった…」

 その地獄の始まりを。


 産屋さんは奥さんと子供を連れてちょっとした旅行に行っていた。

先週のことだ。

その間、産屋さんが勤める工場付近である虫が大量発生し注意喚起されていたのだが、それを彼は知らなかったのだ。

まだ、携帯電話が普及する前の出来事である。

 産屋さんは疲れていた。

楽しかったのは本当だが疲労だって溜まるのが旅行というものだ。

 朝、工場に着いた産屋さんは車から降りて大きなあくびをした。

その時であった。

大きく開いたその口に、工場で大量発生した虫が飛び込んだのは。

そして、なにも知らない産屋さんが口を閉じた瞬間、がりっと音がしたという。

 それから。

工場付近に彼の絶叫が響き渡った。


「だから、なんか甘いのちょうだい…俺の心を癒す甘いの…」

 口ゆすいでも歯を磨いてもなにかがずっと口の中に残っているらしい。

私はいちごの甘い飴を探し出し産屋さんに差し出した。

「気に入るかはわかりませんが甘くてちっちゃくて三角の美味しいやつです」

 産屋さんは待ち切れないと言わんばかりに包装を剥き口に入れた。

「ありがとー…おいしいいいいい…」

 半泣きで飴を食べる産屋さんに私は気になっていることを聞いた。

「で、なんの虫だったんです?」

「…拒否権は?」

「私、飴あげましたよね?」

 にこりと笑いながら問えば、産屋さんはしばし逡巡したあとぼそりと呟いた。

「………カメムシ」

「うわあーお」

 最悪である。

ただでさえ臭いのにそれが口の中ではじけるとは考えるだけでおぞましい。

たまたま大量発生していて、たまたまあくびをして、たまたまその口の中へとはどれだけの確率なのだろうか。

 一言で言うなら運悪いなあ、だ。

そりゃ、口の中になにか残るわなぁ。

想像するとえぐい。

 その時、あることを思い出した。

私はとっておきのキャラメルを差し出し

「実はずっと気になっていることがあって」

 と、取引を求めた。

「なに?」

 訝しげに私を見る産屋さん。

まあ、その反応は正しい。

「パクチーってカメムシの味がするっていう人いるけどそうでした?」

 私の問いに産屋さんは口を思いっきりへの字に曲げると

「絶対教えない!!」

と、言い残し書類を持って帰ってしまった。

「イエスかノーかでもいいんだけどな」

 ずっと気になっていたのだ。

私はパクチーが好きなのだが嫌いな人たちがこぞってカメムシの味がするという。

しかし、私には爽やかな香りと風味にしか感じえないものが虫と同一されるのは面白いものではない。

だが、カメムシなんぞ食べたくないから業を煮やしていたところだったのだ。

産屋さんが食べたのなら味がわかるのだから教えてほしいと思っただけなのだが。

 私たちの話を聞いていた同僚たちからも

「傷口に塩酸かけるんじゃない」

と、怒られてしまった。

 それから、産屋さんと飲みに行き美味しい日本酒をおごったらすぐ許してもらえました。

 でも、カメムシの話は決して語りませんでした。



 

 

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彼は決して語らなかった。 椛猫ススキ @susuki222

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