手紙は灰に灰は薔薇に

恣意セシル

手紙は灰に灰は薔薇に

 私が彼の存在を知ったのは先週の週末、大学からの帰りに覗いた郵便ポストに届いていた手紙がきっかけだった。

 純白の、薔薇のエンボスが押された封筒には、二年前に肺炎を拗らせて亡くなった母の名前が書かれている。

 アドレス帳をひっくり返し、母の友人知人には一通り訃報を伝えたはずなのだが、そこから漏れてしまったのだろうか。裏返してみても差出人の名前はない。

 亡くなっているとはいえ、自分ではなく母宛ての手紙だ。少し躊躇(ためら)ったが、もし中に連絡先などが書いてあれば母がもう既に故人であることを報せられる。そう考え、私はその場で手紙の封を切った。



「親愛なるエミリー

 突然に、こんな親し気な手紙を送る無礼を許してほしい。

 君は私のことを知らないだろうけれど、私は君のことをとてもよく知っている。この三十年間で、君のことを考えなかった日が一日としてないくらいに」

 とても端正で美しい、絵画的なペン字で書かれた手紙は、そのようにして始まっていた。

 名前もわからない人の一方的な文章に面喰らいながら、ひとまずはどこかに名前や住所などが記されていないかと、内容にざっと目を通していく。

 ラヴ・レターを思わせる書き出しであったというのに、そこから先は父と母が結婚する前に住んでいた街のことや差出人の個人的な思い出がつらつらと記されるばかりの、日記めいて淡々とした内容だった。

 正直な話、今更こんな手紙を、このタイミングで送ってきた理由がわからない。必要性も感じられない。だがしかし、私はそれをその場で読むのを止められず――しかも最後まで読み切ってしまった。

 何故だろう、自分勝手な一人語りに過ぎないのに、とても魅力的な文体だったのだ。目の前に情景が浮かばないようで浮かび上がり、共感出来ないようで共感出来る。先を読み進まずにはいられない、蠱惑的な手紙だった。

 名残惜しいような気持ちで辿り着いたラストページには「エイドリアン・フィール」という署名と両親が住んでいた街にある何処かしらの住所、『F27―6』という記号、そして「もし、ここまで読んだ君が私を拒まずにいてくれたなら、どうか蔓薔薇の根元を掘ってほしい。この哀れな私のために」と、それだけがあった。

 私は彼――エイドリアンの顔も、声も知らない。名前さえ今、知ったばかりだ。しかしそれが尊い、真実の願いであるだろうことは確信できた。何せ、ずっと美しく流暢に続いていた字の連なりが、そのページだけ少し乱れ、線が震えていたのだ。

 一体どれだけの熱量の、切実な想いが込められているのだろう。

 読み終わった手紙を封筒に仕舞い、私はそれを自分の通学鞄の中へ忍ばせた。直感的に、父にこの手紙の存在を知られてはならないと思ったのだ。

「ただいま」

 できるだけいつも通りの自分を装って、私は父に帰宅を告げた。父はキッチンで夕飯の支度をしており、ただ「おかえり」という返事だけが返ってきた。

 そのまま自分の部屋へ行き、エイドリアンからの手紙をもう一度、今度は初めからゆっくり丁寧に読み返した。

 何度見ても美しい字が綴られた便箋には、光に透かすと封筒と同じ、薔薇の花の透かし模様が四隅に入っているのが見えた。

 エイドリアンという名前、両親の住んでいた街の住所、ここまではいい。旧知の仲なのだ、訃報を報せれば済む。では『F27―6』という記号は? これは何を意味しているのだろう。

 今日はドイツ語と数学の宿題があり、本来であればそれに手をつけなければならないのだが、私はそのままベッドへ仰向けになると何度も、何度も彼の手紙を読み返した。

「マリア、夕飯は?」

 こんこん、と部屋のドアがノックされ、父の声がした。時計を見るともう八時を回ろうとしている。

「ごめんなさい、今行くわ」

 手紙をまた封筒に戻して机の抽斗(ひきだし)に入れ、私は部屋を出た。

 料理人をしている父のご飯は美味しい。普段は私が下手なりに用意をしているが、今日のように早上がりだったり休みの日は、少しだけ豪華な夕食を振る舞ってくれる。

 父は家族との時間を大事にしてくれる人だったが、母が亡くなってから、増々その傾向が強くなった気がする。

「今日はどんな一日だった?」

「ラクロスの試合で勝ったわ。私が二点入れたの」

 父は毎日、夕食の時間にその日一日の私の生活を詳しく聞きたがった。

 正直、毎日毎日、語りたくなるような事件が起きるほど波乱万丈な日々ではなく、同じようなことを父に色々と話して聞かせるのが面倒に感じることもあったけれど、私は父の期待に応えるべく、来週の小テストが憂鬱であることや、手話のボランティアサークルに参加していたのでその話などもした。

 父は淋しいのだ。私の声や言葉をパテにして心を埋めずにはいられないほど、父は母を愛していた。もちろん、私も。

 今でこそこのようにしてお互い、当たり前と形容したくなる日々を送っている。が、やはりもう、当たり前ではない。母という必要不可欠な存在が、永久に喪われてしまったから。私と父はその、不完全な日常に慣れていかなくてはならない。寂しくて堪らないのを、私たちは何とかして紛らわせながら、時が癒してくれるのを待ち侘びている。

 食事が終わり、父がビールで酔い始めたタイミングで私は自室へと引き上げることにした。

 父には申し訳ないが今日の夕食の味はろくに分からず、話しながらも上の空になってしまう自分を止められなかった。早く、もう一度エイドリアンからの手紙を読みたかった。

 部屋に戻り、なんとなく内鍵を掛けた。それから机の抽斗を開け、中に仕舞っておいた手紙を手に取る。

 適度な厚みとざらつきのある、純白の紙。薔薇の繊細な透かし柄。何故か花嫁を連想させる。

 私はちらりと横目で通学鞄を見た。とりあえず中に入っている教科書とノートを机の上に置き、手帳を開いて来週の授業の時間割を確認する。

 単位はまず大丈夫。木曜日の小テストさえ欠席しなければ落とさずに済むだろう。でも念のため、宿題だけは終わらせておきたい。中途半端な残り物は、いつもろくでもない事態を招き寄せる。

 机に向かって宿題をやっつけると、私は父に旅行の許可を取って荷造りを始めた。寮生活をしている友人の里帰りに付き合いたい、と言えば、父はすぐにオーケーしてくれた。

 嘘をつくことに多少の罪悪感が湧いたけれど、本当のことを言ったら――そうしたら父は、どんな顔をしただろうか。

 昨年の冬休みに行ったスキー旅行で使ったスーツケースの中に、アメニティ類は入れっぱなしにしてある。後は服や財布、スマートフォンのバッテリーや本を入れ、列車の切符をネットで予約するだけ。

 私は夢中になって旅の支度をした。まるで知らない人だというのに、どうしてか私はエイドリアン・フィールという人物に好意を抱き始めていた。だからどうしても、母の代わりが務まるかわからなくとも、彼の願いを叶えたいと思ってしまったのだ。

 翌朝、私は父に「行ってきます」と置手紙を残し、家を出た。

 最寄りの沿線のターミナルまで電車に揺られ、そこから私の住む市内で一番大きい駅までバスで行く。そこで予約しておいた特急電車の切符を買ってそれに乗って約二時間。私はようやく、エイドリアンの住む――そして父と母が若い頃を過ごした街へ到着した。

 結婚してすぐに転職した父の都合で引っ越してしまっていたから、私はこの街に馴染みはない。両親の出身地はそれぞれ全く違う地方都市だったので、ここへ戻る理由がなかったのだろう。

 当時、父は小さなレストランで見習いをしていて、母は郵便局の窓口で働いていたらしい。何かの用事で郵便局を訪れた父が母を見初め、熱烈なラヴ・レターを何通も送って交際することになったという話は、何度も母から聞いたことがあった。

 普段はおとなしく内気な人だったが、酔うととても陽気な人柄になる母は三人揃っての夕食時、ワインを片手に、きまってこの話をした。父は恥ずかしそうに黙っているのが常だった。

 ああ、思い出した。どうして私はあの時、もっと詳しくその話を聞かなかったのだろう。なんとなく居心地が悪くて、いつも聞き流していた。

 頭の中、ぼんやりと覚えているフレーズのいくつかが、母の声でリフレインする。

 待ち合わせはローマン通りの角にあるパン屋さん。デートの日は必ず、机の上に季節の花を置いていた。初めてのデートで橋の上から見た、街灯を映して揺れる川面が美しかったこと。

 とても些細で儚い思い出たち。もっと、もっとちゃんと知ろうとして、一緒に愛でてあげればよかった。

 しかしもう、少女のように瞳を輝かせて語ってくれる母はいない。その横で恥ずかしそうにしながらもはにかんで笑う、父の姿も。

 そして更に、追い打ちをかけることが発覚した。エイドリアンの手紙に書かれていた住所をスマートフォンで検索すると、そこは墓地であるらしいのだ。

 ……ゴースト? まさか。そんなこと、ある訳ない。

 とんぼ返りすることもできた、けれど、私はそうしなかった。

 ここまで来たのだ。一体、エイドリアンが何者なのか、どうしたいのか、そしてその願いを叶えてあげられるのかを見極めたい。

 妙な使命感に燃え、私は墓地へ行くための経路を探した。

 スマートフォンによると、どうやら今いる駅からタクシーかバスに乗らなければならないらしい。お財布の中身を鑑みて、私はそこへバスで行くことに決めた。

 しかしバスは苦手だ。到着する場所が同じでも、乗り場や経路がたくさんあって頭が混乱する。

 駅の窓口にいた駅員さんに乗り場がどこにあるか尋ねると、南口にあるバスターミナルの三番乗り場に来るバスに乗って、終点で降りればいいらしいとわかった。幸いなことにその乗り場は墓地へ行く人専用の乗り場だという。私はそれを聞いて胸をほっと撫でおろした。

 さあ、ここまで来ればあとは寝泊まりする場所が必要だ。

 私は教えてもらった内容をメモしてホテルを探した。三日分とはいえ、それなりの大荷物だ。これを抱えて知らない場所をうろうろしたくない。先にチェックインして、最低限の荷物で墓地へ向かいたい。

 週末なので多くは満杯か予算オーバーだったが、どうにか一件、泊まれる場所を確保してそこへ向かった。駅からは少し距離があったが仕方ない。見つけられただけでもラッキーだった。

 十五分ほど歩いてホテルに荷物を預けると、私はまた駅へ戻った。途中、墓地行きのバスの停車場があればよかったのだが、残念ながら方面が違うらしく見つけることはできなかった。

 何十年、踏まれ続けてきたのだろう、と、平たくすり減った石畳の道を歩きながら考える。この道を父は、母は、そしてエイドリアンは、歩いたことがあるのだろうか?

 墓地行きのバスに乗って、私は三時を回るころに目的の場所へ辿り着くことが出来た。

 墓地は広大で、均一な長さに刈られた青々した芝草が風に揺れると輝いて見える。

 想像以上に大きい墓地に怯みながら受付に行き、エイドリアンの名前と手紙に記されていた『F27―6』について尋ねてみた。

「ああ、この区画はね、ちょっと遠いけど……」

 今にもあくびしそうに眠たげな老人が対応してくれた。

「今いる場所はね、ここ。あの道をまっすぐ行って、そしたら標識が出ているから。あとはその案内の通りに探してみてください」

 来園者用の地図に赤いペンで印をつけて説明してくれる。

 遠いのか。それは困った。でも、仕方ない。

 私はお礼を言うと、いよいよ墓地の中へと足を踏み入れたのだった。



 陽が高いうちは汗ばむほどだったのに、太陽が沈みきった途端に風が冷たく感じられる。春と夏になる境目。ミュータブル。

 地図をもらったにも関わらず私は道に迷ってしまい、汗だくになりながら場所を訪ね歩いているうちに陽も傾き、目的の場所へ辿り着くまでに三時間以上が経過していた。

 『F27―6』という謎めいた記号はなんということもない。エイドリアンが眠る墓の墓石番号だった。なんとなく想像はついていたが、実物を目の前にして、やはりどうしても落胆する自分を止められなかった。

 真っ白な大理石で作られた縦六インチ、幅十二インチの墓石には「エイドリアン・フィール / 1930―2014」……ただそれだけが刻まれている。その周りに植えられた数株の蔓薔薇の花が絡みつくようにピンク色に咲いていて、それが鮮やかに綺麗で、少しだけ、私の心を慰めてくれた。

「もし、ここまで読んだ君が私を拒まずにいてくれたなら、どうか蔓薔薇の根元を掘ってほしい。この哀れな私のために――か」

 移動中のバスの中で、私は何度も彼の手紙を読んだ。一部だけならもう、空で言えてしまうくらいだ。

 この蔓薔薇が彼の秘密の守り人であり、私はいよいよ、その真相に迫ることとなる。

 私はしゃがみ込むとそっと蔓薔薇の根元を掻き分け、株を傷めないように丁寧にその下の柔らかな地面をまさぐり掘り出した。芝生の毛並みはまだ若く、手の皮膚を撫でるような感触で私を冷たい土の底へと誘い込む。湿った土の匂いに幽(かす)かな死臭が混じっているような気がした。

 掘る深さが肘の長さほどに達した頃、指先に何か硬いものが触れた。これこそが、エイドリアンが母に託したかったものだろうか。

 そうそう壊れなさそうな感触ではあったが、万一のために、私は細心の注意を払ってそれを引き揚げた。とても硬いもののように思われるけれど、爪が引っ掛かっただけで砕け、大切な何かがこぼれて取り返しのつかないことになりそうな、そんな気配を醸しだしていたから。

 実際には固く閉ざされた美しい絵の描かれた金属製の箱だったけど、その中に大事に仕舞い込まれているだろうエイドリアンの想いたちが持つ、むせかえるようなセンチメンタルやメランコリーが滲み出していたのかもしれない。

 よく晴れて澄んだ空はマジックアワーの恩恵を存分に味わい、濃紺から群青、甘い水色、柔らかなピンク、くすんだオレンジのグラデーションに染まっている。

 私は箱に付着した土を丁寧に払って抱え、土を元の通りに埋め戻しその場を去った。

 帰りのバスは混んでいた。墓参帰りの家族や、途中の停車場から仕事帰りと思しき人たちも乗り込んでくる。

 最後部の座席で体を小さくしながら、私はエイドリアンの秘密――いや、宝物と呼ぶべきだろうか――を大切に抱いて終点に到着するのを待った。

 窓から見える景色は墓地とは打って変わって人通りが多く、街灯や民家、商店の灯りに照らされてとても賑やかだ。険しい顔、朗らかな顔、どこか悲しそうな顔。道往く人はみな思い思いの表情を浮かべ、足早に歩いている。

 私が生まれる前に両親が過ごした街。エイドリアンが愛した街。

 今ここにこうしている自分がとても不思議で、なんだか映画や小説の中に入り込んでしまった、実体のない何かになってしまったような気がする。

 バスを降りて、私は急ぎ足でホテルへ向かった。お腹がペコペコだったので、途中、パブでフィッシュアンドチップスとビールをテイクアウトした。

 来た時と同じ、古びて角が丸くなった石畳の道を歩く。

 早く、早く箱の中身を知りたかった。揺れると中身ががさがさというこれは、一体何なのだろう。

 本当はこのまま、中身を見ずに破棄すべきなのかもしれない。だって私はエミリーじゃない。エミリーの娘である、マリアだ。

 彼はきっと、母の死を知らなかった。墓石に刻まれた彼の没年の二年前にはもう、母はこの世にはいなかったのだ。けれど私の腕に抱かれて徐々に体温を蘇らせるかのように温まった箱が、「私を見つけてほしい」と叫んでいるようにも思える。

 都合のいい妄想かもしれない。でももうきっと、私は自分を止められないのだ。一体なぜ、どうして、彼は最期にこんなものを残したのか。母に何を伝えたかったのか――その謎を知るために。

 ホテルの部屋に着くと真っ先に夕飯を食べ、シャワーを浴びてから、私は箱を開ける作業に取り掛かった。

 箱の表面はところどころ錆びて塗装が剥げていた。薄いラベンダー地に、僅かにくすんだような淡い色で様々な花――フリルのような花びらのトルコ桔梗、一重の薔薇、凛と咲く水仙、気高い白百合など――が描かれている。

 上下左右、くるくると箱をあちらこちらから眺め、私はその蓋に手をかけ、力をこめた。

 とても厳重に封がされているか、土中の湿気で固まっているだろうと思っていたけれど、それはぱこん、という小気味いい音を立てて簡単に開いた。

 こっちが拍子抜けしてしまうほどに呆気なく姿を見せたエイドリアンの心。それは、大量の手紙の姿をしていた。

 ざっとみて五十通はあっただろうか。恐らく長い年月の末に黄ばんだそれらには、最初にエイドリアンから受け取った手紙に刻まれていたのと同様、絵画的に美しい文字が連ねられている。

「なんで、こんな……」

 これだけでは、彼の真意がわからない。

 なぜエイドリアンは自分の死後、母へ宛てた手紙を届けたのだろう。そしてこの手紙たちを読んでほしいと願ったのだろう。

 丁寧に束ねられた手紙を読んでみないことには始まらない。私はまず、一番上に重ねられたそれを手に取り、封を開けた。

「親愛なるエミリー

 君はこの手紙を手に取って読んでくれているだろうか。きっと読んでくれているのだろう。

 突然にこのような手紙を出す無礼を許してほしい。そしてどうか慈悲をもって、この先を読み進めてもらいたい。

 僕の名前はヘンリー・グライデル。1965年生まれで、ローマン通りを少し行ったところにある交差点の角のレストランで料理人をしている。

 君は郵便局で働いているだろう。

 オーナーからときどき郵便局へ行かされるけれど、そのたび、窓口で応対している君を見て気になっていた。

 ブルネットの艶やかな髪、凛としたネイビーの瞳。薔薇の蕾のような唇が動くたび、僕は君の声を聴きたくて耳を澄ませていたんだ。

 もし君が僕に興味を持ってくれたなら、一緒に食事でもどうだろう。

 いいと思ってくれたならどうか明日、郵便局の入り口にある蔓薔薇の花を、君の机に生けておいてほしい。日付や場所は、それからまた決めよう。

 どうか君が僕を嫌わないでくれるように。そして、食事を共にしてくれるように祈っている。

ヘンリー・グライデル」


 驚いたことにこれは、父が母に宛てた手紙だった。エミリーは勿論母、ヘンリーは父の名で、グライデルは私たち家族の姓だ。

 何故、エイドリアンは父が母に宛てた手紙――それも、父ではない、エイドリアンの筆跡で記されたもの――を持っていたのだろう。これは一体、どういうことなのだろう。

 私は次から次へと、手紙を貪るように読み漁っていった。

 初めてのデートに漕ぎつけるまでの手紙が六通、それらはとても必死で、真摯で、初々しい文章だった。

 今も料理人として働いている父は家族思いの反面、職場など外ではとても偏屈で頑固な人だ。その彼が考えたとは思えないような、やわらかで端正な文面。

 デートの後のお礼の手紙、次のデートへのお誘い、二人きりで会ったときの思い出、自分の身の上話……手紙は幾通にも渡り、そこからは父と母がとても丁寧に心を寄り添わせていった様が目に浮かぶかのように見て取れた。

 娘である私からすると時に赤裸々で、気恥ずかしくて、でもロマンチックで優しい手紙たちだ。

 かつて、父がラヴ・レターを何通も送って熱烈にアプローチしたという話は何度も聞いていた。それがこんなにも情熱的で――私の目の前に、その姿そのままで現れるなんて。

 驚きながらも、私はふたりの甘い記憶の断片たちに夢中になった。

 そうして読み続けて、どれだけの時間が過ぎたのだろう。いよいよ最後の手紙になり、私はそれを殊更に大事に手に取った。

 それまでの便箋は様々な絵柄に彩られ華やかな、花束みたいなものたちだったが、それだけは違っていた。

 まず、経年による黄ばみがなく真っ白で、家に届いたものと同様、薔薇のエンボス加工が施されていた。かさ、と封筒から中身を取り出すと、それまでのカリグラフィーのように美しく乱れのない文字が震え、ガタガタになっている。

 そうして私はとうとうここへ導かれた本当の理由を知り、打ちのめされ、書きつけられた文字のように心を震わせることになる。

「親愛なるエミリー

 君はいったい、どんな女性になったのだろう。

 私はこの手紙を、君の眼に触れない前提で書いている。誰か――例えば君の夫であるヘンリーや、いるだろう息子や娘には読まれるかもしれないけれど、けして、君自身には届かないことを知っている。

 何故なら私は昨日、君の訃報をヘンリーから受け取ったから。

 ヘンリーが初めて私のところにやってきたのは、1989年の初夏だった。油やニンニク、スパイスの香りを香水代わりにやってきたヘンリーは、ひどく悲愴で切羽詰まっていた。

『好きな女の子がいる。声をかけたいが勇気がでない。でも今日、なんとかしてその子の住所を突き止めたんだ。俺の代わりに、手紙を書いてくれないか?』と。

 私はずっと、手紙の代筆屋をやってきた。字の書けない人や、字は書けるけれどもどんな言葉を用いたらいいかわからない人のために、彼らから話を聞いて、それを元にお礼状や、招待状に結婚式のスピーチ、――もちろん、ラヴ・レターもたくさん書いた。時には決闘状なんて物騒なものまで書いたこともある。今回もそのうちの、ありふれた、いつも通りの仕事のひとつにすぎないはずだった。

 けれど私はどうしたことだろう。ヘンリーから頼まれた恋文を何通も書いているうちに、君に恋をしてしまったのだ。

 彼から聞いた話だけで、私には街を歩く君を見つけることができた。

 美しいブルネットの髪、薔薇色の唇、薄くそばかすの浮いた頬、きりりと光る、サファイア色の瞳。

 美しかった。ヘンリーが心を奪われるのも当然だと思った。何せ、机上の恋が一瞬で、本物の恋になってしまったのだから。

 私はもうすぐ死ぬだろう。私は今年、八十二歳だ。長く生き過ぎた。

 何より、自分の年齢より何十歳も年下の女性を想い続け、その人がもうこの世にいないという事実に打ちのめされてしまった。

 この手紙は今、誰に読まれているのだろうか。そしてその人は、私の願いを叶えてくれるだろうか。

 この三十年近くをこの街で独り、ただエミリーとその家族が幸福であることだけを願い、生きてきた。

 この手紙は私が死なない限り誰の目にも触れないはずだ。そうなるように昨日、郵便局でとある手続きをしてきた。死亡が確認され次第、預けておいた遺言状が指定の宛先に届けられるという画期的なサービスを見つけたんだ。

 だからこの手紙を読んでいる人にたったひとつ、お願いがある。

 同封しておいた手紙は、すべて私がヘンリーと共に書いたものだ。エミリー宛ての分だけは写しをとって、手元にとっておいた。

 君と結ばれることがなくても、手紙があれば私の人生の中に君がいたことを証明することができて、君が永遠にヘンリーに愛され幸せでいることが約束される気がしたんだ。

 これは私の生涯で唯一の宝物だ。けれど、死後の世界へもっていくことはできない。

 だからどうか、この手紙すべてを燃やして灰にして、エミリーが眠る場所に撒いてほしい。肉体は違う場所で眠っていても、心だけは最期、会いにゆけるように。

 どうか、どうかこの愚かな代筆屋の願いを叶えてほしい。


 この手紙を読んでいる人に永遠の幸福と、限りない愛情が絶えず降り注ぐことを祈って。


エイドリアン・フィール」


**


 陽が完全に沈んで、夕陽の残り火が不知火(しらぬい)のように地平線をわずかに照らしている。

 私はドラム缶の中へ適当に着火剤と薪を入れ、火をつけた。

 遠くで鳥が啼いている。誰かを探している寂しそうな声に聞こえるのは、私が感傷的になっているからだろうか。

 あの日の翌日、私は二泊の予定を一日早く繰り上げて帰宅したが、父は何も聞かなかった。ただ、気のせいかもしれないけれど――少し涙ぐんだみたいな顔で「おかえり」、と、その後にとても小さな声で「ありがとう」と聞こえた気がした。

 一枚一枚、ゆっくりと静かにエイドリアンの手紙を火にくべていく。

 美しい言葉、文字の数々、エイドリアンの一途で揺るぎない愛情が炎に焼かれて崩れ、灰になってゆくのを、私はただじっと見つめていた。

 エイドリアンの心の中に住み続けた母は今、どんな顔をしているだろう。手紙の中のエミリーやヘンリーは、どんな思いでいるだろう。気持ちが絡みついて、絡まって、私にはどうしようもできない。母を心の底から愛し、ただ遠くから思い続けるに留めたエイドリアンの孤独を、私はどう労わったらいいのだろう。

 だからせめて、最期の願いは叶えてあげたかった。それが父を裏切ることなのだとしても――私は、もし彼が生きていたら微笑んでくれるであろうことをしたいと思った。

 手紙はゆっくりと灰になって、煙が音もなく空へ昇ってゆく。

 来年になったら母の墓にも蔓薔薇を植えよう。きっと美しい、ピンク色の花が咲くに違いないから。

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