10.second round

特にやることがない日曜日の朝。黒ぶちで少しぶかぶかの眼鏡をかける。


声を出して話しかけるのが恥ずかしいAIに、『喫茶店、ジャズ、チルアウト』と、テキストでキーワードを入力して曲を選んでもらう。

曲名も知らないし、作者も知らない曲。

今日の曲は、……ちょっと微妙かもしれない。

『ボサノヴァ』と打ち込みなおして、また選んでもらう。……これでいいか。

殆どミルクのカフェオレを飲みながら、ハムサンドのつもりで買った、サンドイッチをかじる。

照り焼きチキンと、玉子が挟まっていた。

ちゃんと見て買わないとな。私は陳列されているものを、

よく見ずに買ってしまう癖がある。

でもこれはこれで悪くない。美味しい。指についてしまった玉子を舐め取る。


携帯を見る。暇を持て余した伯母からメッセージが送られてきていた。

『絵里チャンへ、知ってたカナ?、じーさん、三月に死んじまってたみたいだヨ?トホホー、明日、仕事休んで一緒にお墓参りにイカナイ??お返事待ってるよ!チュ!またネ!』

……とんでもないことを、さらりと、アホみたいな文章に乗せて言わないで欲しい。

慌てて伯母に電話をかける。すぐに出た。

「オッスー」

気の抜けた声で言う。電話先が騒がしい。いつもの事だった。

「伯母様?今日もお仕事ですか?」

「そりゃもう、アレよ。貧乏暇なしよ。だから明日と明後日、代休にして、じーさんの墓参りにでも行ってやろうかと。どう?『絵里』は」

相変わらず、伯母の周りは、どったんばったん騒がしい。

「どうして……、亡くなっていた事を教えてくれなかったんですか?」

「どうしてって、俺も知らなかったし」

拗ねたように言っている。嘘をついている声だ。伯母は知っていたはず。

「じーさんは、『絵里』に死ぬところを見せたくなかったんだよ。それに年度末だったし、忙しかっただろー」

先ほどから『絵里』の部分だけ、妙に強調して言っている気がする。

伯母がやっていることを、いちいち気にしていたらキリがない。そういう人だし。

「わかりました。私もお休みを取って行きます」

「おー、おっけー。一緒に行こうと言っておいてなんだけど、先に行っていてくれ。朝一ちと野暮用がある」

「もう……わかりました。本家で落ち合いましょう」

「先に参っていてくれ。『絵里』チャンに、俺が泣いているところを、見られたくない」

「泣く気、無いでしょう」

はっはーと笑いながら電話が切れた。マイペースすぎる。

でも、そんなお気楽な伯母のおかげで、少し気が紛れた気がした。

お爺様が…………しばらく放心していた。

カエルのぬいぐるみを、手元に引き寄せてぎゅっと抱く。

しばらく、思考を流れるボサノヴァのリズムに預けていた。

もう少し生きていてくれると思っていたのに。

祖父は曾孫を見たがっていた。それまで生きるとも言っていた。

……でも婿は見たくないと言う祖父に、無茶言わないでよ、

と言ったら、笑っていた。もうこの世界にはいないのね。

しかも、最期の瞬間にも立ち会わせてはくれなかった。

残される方の気持ちも考えて欲しい。

カレンダーを見る。2024年六月三十日、明日から七月か。暑くなりそう。


列車にコトコト揺られていた。帰郷は正月ぶりになる。

十二歳の頃から実家を離れて暮らしていたので、どちらかというと、

実家の方が『行く方』になっていた。帰るという感覚があまりない。薄情かしら。

それでも、胸に広がるノスタルジックな感傷は、

私がかつてそこに『在った』のだと思い出させてくれる。

海が見えてきた。キラキラ、キラキラ、と魚が纏う鱗のように、跳ねる光が美しい。海が一番美しいのは。やはり夏だと思う。

これから何かが起こる、そう期待させてくれる青い煌めき。

ただいま。


駅に着いたら、母が迎えに来てくれていた。

相変わらず、こじんまりしていて可愛い。

まぁ……身長は、ほぼ同じなのだけど。

年齢より見た目が幼いので、並ぶと姉妹みたい。

「おかえりなさい~絵里ちゃん~」

私にじゃれるように、抱きついてきた。すりすりしている。

清楚で嫋やかなのだけれど、圧倒的恋愛強者の母は、

スキンシップの度合いが、少しおかしい。

人目を憚らず『愛情表現』をぶつけてくる母に、いかにも堅物で、昔ながらの日本男児を煮詰めたような父も、たじたじになっているのをよく見かける。

横には犬の『ショコラ』がいた。

犬の年齢では高齢なせいか、足取りが少しヨタヨタしている。

『帰ってきたんですね!嬉しいです!』という表情を浮かばせて駆け寄ってくる。

可愛い。わっしゃわっしゃしてあげた。

「お母様、ただいま帰りました。荷物を置いたら、すぐお爺様のお墓にお参りに行きますね」

「ごめんなさいね、絵里ちゃん。すぐ知らせてあげたかったのだけれど……」

「お爺様に止められていたのですよね」

「遥ちゃんも、後から来るのよね?」

「来ますよ、相変わらずマイペースです」

母に『遥ちゃん』と呼ばれている伯母は、

本当に、朝から来るつもりはなかったらしい。

用事とかじゃない、きっと起きるのがめんどくさかったに違いない。

母は、口元に手を当ててふふふーと笑っている。


お墓参りに必要なものは、母が揃えてくれていた。今日は本当に暑い。

朝のニュースが本当だったら、場所によっては三十度を超えるらしい。

ショコラも連れて行こうと思ったけれど、この暑さは身に堪えそう。

日が落ちてからにしようかな……。

どのみち、今日は泊まりにするつもりだった。

暑いからと先延ばしにしたら、お爺様、泣いてしまうかしら?

何となく祖父への『愛情』の深さを試されている気がして、向かうことにした。

祖父の墓は、小高い丘の上にあった。祖母と同じ墓に入っている。

緩やかだが長めの階段を、一段一段上っていく。

祖母が存命だった頃は、ラブラブだったらしい。

死後の世界なんてものがあったら、きっとあっちでラブラブね。

実家の規模にしては、少し質素に見えるそのお墓に、丁寧に水をかけていく。

……何のためにかけるのだったかしら。

たぶん飲用?死後、修行するから喉が渇くからだとどこかで見た記憶がある。

死んでも修行するのは嫌だな。

ふわふわしたところでプカプカ浮いていたい。すべてのしがらみを脱ぎ去って。

お花を供えて線香を焚く。線香は……食用だったかな。

死後は線香の香りが食事らしい。

生きているうちに、美味しい物をたくさん食べておかないとね。

線香だけじゃ味気ないもの。

祖父が亡くなってから、しばらく経っているせいか、悲しい……という感情より、いなくなっちゃったのか、という漠然とした喪失感の方が大きい。

それでも……思い出を辿ろうとしたら、涙が吹き出しそうになってしまうので、ぐっと下へ、下へ、押し込んでいく。

泣くのを堪える必要もないのだけれど、

祖父が泣いている私を見たら、悲しんでしまうかもしれない。

お爺様、私はこれからも生きて行く、貴方がいなくなった世界を生きて行く、

だから、あの世なんてものがあったのなら、お婆様と一緒に見守っていてね?

……ほどほどでいいからね?

背後に、影が落ちた。

いつの間にか後ろに人がいる。伯母……ではない、知らない人だ。

同じくらいの歳に見えるけれど、この辺りでは見たことがない。

本当に辺鄙な田舎なので、同郷だったらもれなく顔なじみなはず。

綺麗な人。全体的に色素が薄い。

ミルクティーみたいな髪色の巻き毛、アンバーアイ、

体つきが男性の特徴を帯びていなかったら、女性でも通じそう。

今日の気温には似つかわしくない、生地が厚手の暑そうなスーツを着ている。

……でも、どこかで見たことがあるような?

ぼーと無遠慮に見つめてしまっていた。慌てて立ち上がる。

「ごめんなさい。祖父のお知り合いの方ですか、お次、どうぞ」

軽くお辞儀をする。

父が事業を継ぐまで、祖父が切り盛りしていた為、知り合いがとても多い。

祖父を未だに慕う元部下も少なくはない。でも、祖父の知り合いにしては年若い。

「いえ、こちらこそお邪魔してしまったみたいで……申し訳ないです。ご祖父様には、生前お世話になっていました」

顔に力を込めない笑みを浮かべて、言った。

「そうなのですね、お爺様も喜ぶと思います」

私も笑みを返した。

……互いに次の行動に移らなかったので、見つめ合ったまま、固まってしまっていた。

どうしよう、視線が外せない。何か懐かしむような眼差しで、私を見ている。

やはり何処かで会ったことがある……?

霊園の入り口の方から「アカツキぃ、おいてくな、ころすぞ―――!」と気の抜けた声をあげながら、伯母がだらだらと歩いてきた。

持っている献花用の花は、花びらが落ちて見すぼらしくなっている。

なるほど、伯母がらみの人か。

アカツキと呼ばれた男性は、深くため息をついていた。

……ご愁傷様と、心の中で呟く。

「オッスー絵里、グッドタイミングだったな?」ニヤニヤしながら言っている。

相変わらず見た目と言動が、ちぐはぐな人だ。

黙っていれば誰もが振り向く美人なのに、それ以外がことごとく残念な人。

「本当に、朝、来ないとは思っていなかったです」

「野暮用があるっていったじゃんかよ」

麗しい美貌、艶やかな花から切り出したような唇を尖らせている。

「そう言って、前は来たじゃないですか」

「そうだっけ」

えへへーと笑っている。

「後で本家に寄るからな」

「お父様が会いたがっていましたよ」

「うそだろ」

「うそです。今日、お父様はいません」

別に、仲が悪いわけではないのだろうけれど、父は伯母が苦手みたいだった。

まったく似ていない姉弟、年齢がちぐはぐな姉弟。

父は、年相応の見た目をしているけれど、伯母は20代でも通じそうな見た目をしている。もはや普通の人だとは思っていない。

だって幼少の時見た以来、姿が少しも『変わっていない』。

「お母様は、本当に会いたがっていましたよ」

「里美ちゃんは可愛いからな」伯母は言った。

うちの家は何故か女系で、代々名前に『里』の字が入っているらしい。

お父様も、お爺様も婿入りしているし、私もいずれ、お家存続のために、

お婿さんをもらわなければいけなかった。

婿探しとなると、難易度が上がるんだけどな。

……とりあえず、今は考えたくはない。

「私、もう行きますね。もう、暑くって」と伯母に言い。

アカツキさんに軽く会釈をする。

空を見上げる。日の高い、雲ひとつない青空。夏を予感させる、清々しい青空。

霊園の出口に歩いていっていると、横を何かが抜けていった……気がした。

何?幽霊?お墓に幽霊は、いないと思っていたのだけれど。

だって……私が幽霊になったとして、寂しいお墓になんか行きたくはない。

もう一度後ろを振り返る。

伯母とアカツキさんが話し込んでいる。……絵になる二人。

伯母の何十人目かの恋人だろうか。まぁいい。

まだ七月に入ったばかりなのに、今日は本当に暑い日。

帰り道には、伯母がまき散らしたであろう花びらが、点々と落ちていた。







「あっさり提案を飲んでくれるとは、思わなかった」

昔からの様式に倣い、墓に水をかける。

「死にかけの体で、孫の為だけに生きていたようなやつだ、

自分が原因かも知れないんだったら、喜んで孫の為に死ぬだろ」

そう、めんどくさそうに言い放った女は『瀬戸遥』と名乗る、絵里の伯母だ。

無造作に、もう花弁がほとんど残っていない花束を投げる。

「雑だな。もっと丁寧に持って来てくれよ」

「あの、じーさんが花なんて貰って喜ぶかよ」

めんどくさそうに首をカリカリ掻いている。

「じゃあ、造花でいいじゃないか」

「プラスチックの塊なんて、貰って喜ぶ奴なんているのかよ。俺なら、化けてでるね。ゴミ捨てんなってな」

花弁の落ちきった、ゴミ同然の花束を供えた瀬戸は、吐き捨てるように言う。

僕は線香を供えて、手を合わせた。


あの奇妙で、残酷で、冒涜的な世界から生還した後、半年ほど半狂乱になっていた。

土砂崩れに車で巻きこまれて、婚約者を喪った悲劇の生存者、

わずかな隙間に、都合よく挟まっていた幸運な生存者。

何故か、同乗者である婚約者の名前は呼ばす。

周囲に存在しない女性の名を呼び続けていた生存者。

……精神的に病んでしまっていた。

然るべき施設に監禁されていた僕は、生存者にカウントされていなかった。

復帰が見込めない人間など社会的には、死んだも同然だったからだ。

脱出したあの瞬間、何が起こっていたかは、憶えてはいない。

しかし、僕が収容されていた施設は、所謂『頭がおかしくなった人』が入る施設ではなく、あの奇妙な世界のような『魔障』に触れた者が入る施設だった。

そこで施された治療のおかげで、半年後、

取りあえずは、会話できる程度に回復した。

一人で入るには、広すぎる部屋を割り当てられていたが、

その理由がすぐにわかった。

僕をじっと見つめる巨大な獣が、そこに鎮座していたからだ。

その獣は、死に体でぼろぼろだった。

頭がおかしくなったゆえ、見えてしまっている幻覚だと思っていたのだが、

どうやらそうではないらしい。

明らかに、その獣を認識しているであろう人々が、その獣を取り囲み何やら話していたからだ。

取り囲んでいる人々は、その獣の事を見ることはできるが、

触れないらしく、しばらく観察していたが、すぐにいなくなった。

いつまで経っても、その獣は、僕の側にいて離れようとはしない。

その赤い瞳で巨躯の獣が『ポン助』だと気付くのに、時間がかかってしまった。

何故なら、それはどう見たって『ポン助』なんて間の抜けた風体ではなく、形容するなら獣型の悪魔、伝承に出て来る魔獣、人間を骨ごと砕きそうな、尖った牙を覗かせたソレは『狸』でもなければ『猫』でもなく『虎』と呼ぶにも巨大過ぎた。

コレを『ポン助』と名付けた絵里の目は、

僕以上に盲目だったのでは?と思わざるを得ない。

そのポン助がまるで『看病していますよ』と言わんばかりに側に、付き従っている。お前の方がボロボロなくせに。

絵里のことを調べたいのに、時間を無駄に消費するだけの入院生活が続いていた。

まだ生まれていないであろう、絵里を探すにはどうしたらいいのか。

比較的、姓が珍しいのが救いか、それに駅名を聞いた。

そんなことを考えながら、リハビリに励んでいると、

絵里の縁者の方から、コンタクトを取ってきた。

いや、最初は縁者だとは気づいていなかった。

『瀬戸遥』と名乗るその女は、所謂こういう『魔障』が引き起こした事件を取り扱う専門らしく、あれやこれや聞いてきた。

不遜で無礼な態度に、最初は不信感しかなかったが、自分以外、誰も触れないはずの、『ポン助』をバシバシ叩いていた。

何故触れるのかと聞いたら、「触れると思っているから触れる」と答えた。

まったくもって意味がわからなかった。

特に隠す理由もないので、思い出せる限りを話した。

こういう事件の専門なら、絵里を助ける術を知っているのでは、

と淡い期待を抱きながら。

絵里の姓名を出したところで、思うところがあったのか、しばらく考え込んでいた。

瀬戸と名乗る女の監視対象が、小日向という姓で、

まさに桜の宮という町に住居を構えているのだと言う。

僥倖、それとも必然か。こんなに早く、絵里にたどり着けるとは思っていなかった。

瀬戸が、「これからどうするのだ」と聞いた。

僕は、「絵里を助ける手段を探す」と答えた。

それ以外に、生きていく目的が思い当たらない。

それを聞いた瀬戸は、ならば自分のところに来いといい、

名刺を残して去っていった。

僕は回復後、特に目的もなく在籍していた大学を離れ、瀬戸のところに行った。

修士まで進んでいたので、今思うと、勿体ないことをしたのかもしれない。

ポン助もそれが当然と言わんばかりに、僕についてきた。

施設から出た僕は驚いた、外には、あの異界で見たような化け物がいた。

あの奇妙な世界が、特異だったのではない、今まで暮らしてきたこの世界にも、普通に『魔障』が蔓延っていたのだ。……ただ、それが見えていなかっただけ。

頭がクラクラした。

しかし、それらすべてが危険因子かというと、そういうわけでもなかった。

殆どが、こちらに干渉してくることはない。

矮小な生物のことなど、気にも留めないのだろう。

稀に人間に興味を持って干渉してくる『魔障』がいる。

そういうものに『対処』するのが、瀬戸たちの機関の仕事だと説明を受けた。

なんでもいい、絵里が救えるのであれば。

仕事は良くも悪くも多忙で、それなりにやりがいもあった。

『魔障』に関わる知識も増えていった。

接敵することがあっても、ポン助が仕留めてくれる。

僕に対する防衛機能が備わっているようで、害をなそうとする者には、

牙をむいて襲い掛かっていく。いつの間にか、相棒のような存在になっていた。

かつて、殺意を向けられていた間柄だったはずなのに、だ。

それから十数年、瀬戸と共に仕事をしていたが、

年齢が四十歳を超える頃には、自分の体に起こっている、異変に気付いてしまった。

流石におかしい、適齢ならば、そろそろ顔に皺が刻まれてくるころだ。

体の不備だって増えるはず……。

そう……、僕は『年を取っていない』いつまでも年若いままだ。

つまりは……、人の枠を外れてしまった。

こんな体じゃ絵里の横に並べない。そこら辺の化け物と変わらないじゃないか。


「どうした、随分長いお祈りだな。坊さんにでも転職するつもりか」

へらへらとした口調で瀬戸が言う。

「これで、絵里が救えると思うかい」

軽口を無視してそう聞いた。

「どうだろうな。お前の話を聞く限り、絵里は……死に引かれた。葬式で、じーさんの亡骸を目の当りにしたはずだ」

「それまで絵里は、死に触れる機会がなかった、と」

「そのはずだ。お前の知る、今の時間の流れと、異界で会った絵里の時間の流れに変わりがないのならな。……ああ、もう、ややこしいな」

まったくもってその通りだ。

未来であり過去でもあるのだ。

あらゆる時代に干渉できる神格。そいつのせいで、話がしばしば錯綜する。

「死を意識した絵里が、死の季節に近い逢魔が刻、世界の境が曖昧になっている時刻に、どっかのクソ野郎に持っていかれたんだ。……いや、ありえないんだ、俺の鳥がいるのに。その日の俺の鳥が、暢気に焼き鳥になっていたか、そのクソ野郎が、狡猾だったかのどちらかだ」

忌々し気に言い放った。よほど悔しいらしい。

瀬戸の言う『鳥』とは、僕に対するポン助のようなもので、瀬戸が飼っている『魔障』だ。遠隔を見張る、目として使っているらしい。僕にも見えない『魔障』だ。何故見えないのかと聞いたら、「見る気がないからだ」と答えた。まったくもって意味がわからない。

「わずかな可能性で孫の為に死を選ぶ、ご祖父様には、やはり恐れ入るよ」

「じーさんもこちら側だからな、話は早く済む」

こちら側、『魔障』に関りがある側、ということだ。

絵里の血筋は代々、そういう『魔障』に引かれやすい血筋らしく、

瀬戸及び周辺の人々に守られている。巫女体質というらしい。

絵里が引かれた可能性を考えて、その運命の2026年十一月三日に起こったことを、可能な限り分散させようという考えに至った。そ

れで、ご祖父様に死の時期をずらしてもらった。

冬の始まりではなく、夏の始まりに絵里が来訪するよう、死を伏せ、式が全て執り行われた後に知らせた。

二年前倒してもらったのも、運命の日まで猶予を持たせるためだ。

いまだあの奇妙な世界の足がかりが掴めていない。仮に『クロノス』と呼称している、あの世界の神格は狡猾で、なかなか尻尾を出さない。事故や事件に偽装される為に、こちら側、ではない日常に紛れてしまうのだ。

こんなことなら、クロノスで出会った人々の名前を、

もっと真剣に憶えておくべきだった。

何度かポン助に、あの世界に戻れないかと聞いたことがあったが、

反応すらしなかった。

唯一手がかりがあるとするのなら、クロノスの魔障であったポン助だけなのだ。

手がかりが少なすぎる、わずかな因子も総当たりで潰していくしかない。


ご祖父様の死を目の当たりにしたことが原因なら、

このまま何も起こらず、めでたし、めでたし、なのだが。

「あっちーな」瀬戸が言う。

「暑いなら、脱げばいいじゃない」

瀬戸は、暑そうな黒いジャケットを羽織っている。

かくいう自分も夏の始まりには似つかわしくないスーツ姿だ。

急に暑くなりすぎなんだよ。

「女の子に脱げとか言うなよ、変態かよ」

そう言ってジャケットを脱ぎ、その辺に投げ捨てている。

下には焼き鯖と、達筆な筆文字で書かれたTシャツを着ていた。

突っ込んだら調子に乗るので無視する。

「今日のお前、なんかつまんないな。うじうじしてんなよ、蛆虫かよ」

「別に蛆虫は、うじうじしてないだろ」

よくわからない返答をする。何故、僕は蛆虫を庇っているのだ。

ズバリ核心を突かれそうなのが嫌だった。

「そうだな。うじうじしているのは、暁翔くんだけだったな」

っへと失笑しながら瀬戸が言う。

「仕方ないだろう。僕は、瀬戸と違ってデリケートなんだ」

「折角セッティングしてやったんだ、もう少し楽しめ」

「頼んでない」

もう……絵里と会うつもりはなかった。

そっと陰から見守って、絵里が人なりの人生を歩んで天寿を全うしたら、

そっとこの世界から消えるつもりだった。

自分の中に芽吹いていた魔障の片鱗に気付いてからは、

覚悟を決めていたつもり……だった。

クロノスにいた神格は執念深い奴らしく、僕の身体に祝福を与えた。

瀬戸が言うには、その神格からしたら『善かれ』と思ってやっているらしい。

人の身に余る力を与えることは、神からしたら祝福なのだ。

その神格が消滅でもしてくれない限り、僕の身体が時を刻むことはない。

あれから三十年以上経つはずだが、記憶は色濃く、年月を重ねても心を囚われたままだった。

祝福……呪い……。

そんな、僕の心を知らないはずはないのに、瀬戸はやたらと、僕と絵里を引き合わせたがる。わざと電話している様を、見せつけてきたりする。

……今日だってそうだ……。

いや、今日は、少し、僕は、『期待してしまっていた』。

見え透いた罠、瀬戸が仕掛けた罠。

罠に掛かりに来たら、本当に絵里がいて……声を聴いた。

今までも、姿だけなら見たことがある。遠くから……絵里に気付かれないように。

長めのため息をつく。胸が苦しい、暑さも相まってぶっ倒れそうだ。

「なぁ、おセンチボーイ。色々と、考えすぎなんだよ。大抵のことはなんとかなるようになっているんだよ。悩んで後悔するぐらいなら、とりあえず、やりたいことをやって、後悔しろよ。悩む時間がもったいねー」

「やりたいことしかやらない瀬戸が言うと、説得力があるな」

「だろー」

瀬戸は満面の笑みを浮かべて、暑そうに手をひらひらさせている。

誉めてはいないのだが。

「それに、お前は、絵里チャンを舐め過ぎだと思うぜ。お前なんかより、よっぽど肝が据わっている。大体、見て見ろ、俺を。絵里が子供の頃から、ずっと見た目が変わってないのに、絵里は何も言わない。お前のその身体なんて、こっち界隈からしたら、さして珍しくもない」

瀬戸は言った。

確かに、この仕事をしていると、色々な魔障の祝福、あるいは呪いを受けた人間に会う。中には完全に憑依されている者もいて、さながら仙人のように、隠遁生活を余儀なくされている。獣のように成り果てた者、魔障に追われ続ける者。

見た目が人間な分、マシな部類なのか。

それでも、絵里にはこちら側の事なんて知らずに暮らして欲しい。

あんなに酷い目に合ったのだ。普通に、平穏に、日々の幸せを享受する権利がある。

「まぁ、お前がいいなら別にいいんだけどさ。今日、絵里チャンは墓参りの為だけに、帰ってきたんじゃないぜ」

意味深な顔をしている。

「どういうこと」

なんだか嫌な予感がする。聞きたくないのに尋ねてしまった。

「見合いを兼ねてだ。もう絵里もお年頃だからな?一人っ子だし、婿を貰わないと、小日向家は存続できないだろ。絵里は責任感が強いから、受けるかもな」

瀬戸は、僕が一番聞きたくなかった情報を寄越した。

「きっと顔よし、家柄よし、性格は……良いかは知らんが、きっと優良物件だろうぜ。絵里に幸せになって欲しいアカツキ君からしても、いい話だろ?良かったな」

無慈悲な隣人は、事もなげに言う。

やめてくれ。

「まぁー、お前がいいんなら、いいんだけどよ?絵里が、自分以外の男に抱かれるのに、お前は耐えられるのかよ。ちまちましていて、華奢で可愛いからな。さぞかし、いじらしくよがって、可愛らしく泣くんだろうよ」

本当に、やめてくれ。

「子供も、すぐこさえるだろうな?都内のでけータワマンに住んで、併設されている公園で、親子三人仲睦まじく「今日はパパの大好きなカレーにしましょうね」とか話すんだ。絵に描いたような幸せな家庭だ。願ったりだろ」

僕の中で、何かが切れる音がした。

「ああ!もうな!瀬戸は僕に、何がしたいんだよ!僕を傷つけて、そんなに楽しいのかよ!」

「なんも」ケロリと言う。

「今のお前には、これ以上なんも言うことはねぇよ。これで動かねえなら、その程度だったってことだ。本当に欲しいものは、死のうが何しようが手に入れたいもんだ」

瀬戸はつまらなそうに言う。

「欲しいよ!」

「なら、行けよ。どこにいるかは知らんが。好きピに好きって言うだけだろ、ためらう理由がわからん。……それに暁さんちのポン助君は、とっくに絵里を追いかけていったぞ」

「なんでだよ!」

何に対して怒っているのか、わからなくなっていた。

「名付け親だし、思うところがあるんじゃないか。婿に立候補するのかもな」

瀬戸は、にやにや笑っている。

走り出した。どうしたらいいかも、わからないまま。

「最初から、これしか答えはなかっただろ、世話のかかるやつだ。貸しにしておく」

後ろから、そう聞こえた気がした。


走り出したものの、何をしていいか、本当にわからなかった。

見合いを止めるのか?小日向家に乗り込んで?絵里は、僕の事を知らないのに?

突然現れた僕に、見合いを止められても、驚くだけじゃないか。

そんな僕は、誰から見ても、変人に見えるだろう。

坂を一気に駆け下りたので、膝をやってしまったかもしれない。

それに暑い、死ぬほど暑い。せめて上着を脱げばよかった。

水分もろくにとってなかったので、頭がくらくらする。

僕は不老だが、不死ではない……はず。

生憎死んだことがないから、それはわからない。

熱中症で死んだら、それこそ瀬戸に大爆笑されてしまう。

取りあえず小日向の家に行こうと、息も絶え絶えに走っていたら、こじんまりした駅の前に、小さな白い人影と、黒い大きめの影が見えた。

ポン助!

ポン助は、帰還した時こそボロボロだったものの、

十数年たったころにはすっかり元の姿を取り戻していた。

とにかく、でかすぎるので、『邪魔』と言い続けていたら、サイズダウンしてくれるようになった。なんなら消えもする。

今は、大型犬ぐらいのサイズに落ち着いていた。

ベンチに座っている絵里の足元で、優雅に昼寝をしていた。

お前、寝る必要ないだろ。

駆け寄る僕に気付いた絵里が、顔を上げてこちらを見る。

携帯電話を見ていたようだ。

「どうしたんです?大丈夫ですか?ふらついていますよ」

愛らしい声で、絵里が言う。

酸欠で頭が回っていなかった僕は、

思わず「だめかもしれません」と返答してしまう。

全身汗だくだった。毛穴という毛穴から、汗が噴き出している。

インナーとシャツが貼りついて、気持ちが悪い。

何でこんな、みっともない姿で、

お姫様の元に馳せ参じることになってしまったのか。

こもる熱の逃げ場がないので、とりあえず上着を脱いだ。

「座ってください。顔が真っ赤です」

絵里が横をぽんぽんと叩いている。お言葉に甘えて、横に座って一息つく。

「お水買ってくるので、ちょっと待っていてくださいね」

「お構いなく……」と止める間もなく、絵里は、自販機の方に行ってしまった。

田舎ゆえ、電子マネーなど使えないのだろう、小銭が、ちゃりちゃりと投入されている音が聞こえる。なんだかそれが妙に耳あたりが良く、

逸った気持ちが落ち着いていく。建物の影になっていて涼しい。

それに、風が抜ける。

しばらくして絵里が戻ってくる。ペットボトルの蓋を開けて渡してくれた。

もう一本持っていて、そちらは、首元に当ててくれる。

なんという気遣い。これが瀬戸ならへばった僕を見て、腹を抱えて大爆笑しているに違いない。

首元に当ててくれているペットボトルをそのまま受け取り、当て続ける。

煮えたぎった血液が冷えていくのがわかる。気持ちいい。

「汗を拭いて?」と刺繍の凝ったハンカチを差し出してくれるが、

拭える量ではないし、汚したくもないので「お気持ちだけで」と断った。

水を飲む、止まっていた血流が流れ出した気がした。

頭で滞留していた熱がスッと分散する。

「どうして走っていたんです?」

絵里が聞く。それはそうだろう。大の大人が全力疾走している姿なんて、

そうそう拝めるものでもない。

君のお見合いを止めに、とは言えず「探しているものがありまして」と答えた。

この様子を見る限り、お見合いなんてないのだろう。

もう一つ見えている罠に引っかかったのだ。

絵里を横目で見る。

白一色のワンピース。そんなワンピースに負けない白い肌。

しっとりと、汗ばんだ肌が艶めかしい。

薄く口紅をひいた唇が、時折暑そうに吐息を漏らしている。

上着を脱いで横に置いているが、

本来なら、その上着とセットで着るデザインなのではないだろうか。

単体だと、その、なかなか、目のやり場に困る。

頼りなさげな肩紐に支えられているだけのそれは、胸元も背中も大胆に開いている。華奢で、子供っぽい体つきを気にしていたようだけれど、

胸元に覗く膨らみは、なかなか存在感がある。

異界で会ったときと違うところは、顔のわりに大き目で、ずり落ちそうなウェリントン型の眼鏡をかけている事と、暑いのか、髪を一つに束ねている事ぐらいだろうか。後れ毛と白い首筋が、また悩ましい。

目線に気付いたのか絵里が「ん?」とこちらを向く。

「ありがとうございます。生き返りました」

目を逸らし、笑顔で繕いながら礼を言う。

「無茶はしない方がいいですよ、今、三十二度あるみたいですから」

「そうなのですか。今日の天気予報を見ていなかったもので、まだ二十五度ぐらいかと。小日向さんは、何をなさっていたんです?」

この流れで見合いは無いとは思うけれど、念の為に聞いた。本当、念の為に。

「私の名前、ご存じなのですね」

「ええ、瀬戸……あなたの伯母さんに話は聞いていたので」

僕は言った。生まれる前から知っていますと言ったら、どんな顔をするだろう。

「そうなのですね。それにしても、二十五度でも、そんな恰好で全力疾走はしない方がいいですよ」

「はい、気を付けます……」

申し訳なさそうに言う。

「私は、暇なのでお散歩をしていました。暑くてゆだっちゃったので、ちょっと休憩しています。明日、朝一で帰るので、その前に故郷を満喫しておこうかと」

絵里が答えてくれた。ほら、見合いなんてない。

「ここ、気持ち良くないですか?山で冷やされた風が、海の方に抜けていく、私のお気に入りの場所です。駅なのに、人もたまにしか来ません」

肩を伸ばしながら絵里が言った。

「そうですね。本当に気持ちいい……」答える。


……何となく、会話が途切れてしまった。

何て、言えばいいんだ。どうやって君との物語を、また始めたらいい?

好感度最高値の僕と、今の今まで、僕の事を知らなかった、

好感度0の君との隙間は、どうやって埋めたらいいんだ。

何となく、もじもじしている僕に、絵里が「何を探していたんですか」と聞く。

ポン助が苛立たしそうに、尾で地面をバシバシ叩いている。猫かお前は、猫なのか。

「……シンデレラです。生憎、ガラスの靴は置いていってくれなかったのですが」

「そ……そうなんですか、大変そうですね。ガラスの靴がないと」

絵里の声に、困惑の念が感じ取れる。きっと瀬戸の同類項に纏められたはずだ。

それでも……律儀に答えてくれる絵里は、やはり真面目可愛い。

「そうでもないですよ。僕、記憶力と目は良いので、シンデレラの顔は、細部まできちんと憶えています」

絵里に響きそうなワードを載せて答えた。

ガラスの靴でのみ、お姫様を探す王子様は、盲目だと言っていた。

僕の目は君を捉えた。僕の耳は君の声を聴いた。

君の甘やかな香りは、僕の心を掴んで離そうとしない。

絵里の視線がこちらに向いているのが、横目で見えた。

そんなに見ないで欲しい、恥ずかしい。

「……見つかりましたか?」

感情の測れない声色で聞いてきた。

とっくに、見つけていた。

冷静な振りをして、情熱的なシンデレラ。

盲目の僕を、導いてくれたシンデレラ。

僕を知らない、優しく魅力的なシンデレラ。

「見つけたから、ここにいるんです」

そう言い、すぐ後悔する。

これじゃ、安っぽいナンパみたいじゃないか。

沈黙している。どんな顔をしているのだろう。絵里の方を見るのが怖い。

やれやれと、ポン助が、気だるそうに大きな欠伸をしている。


空を見る。雲ひとつない青空だった。

これから如何様にも姿を変えていく、始まりの空。

蒸せるような暑さに、おいて行かれた心地よい風が、僕と絵里の間を翔け抜ける。

夏が、これからはじまるらしい。

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