9.blind prince
可愛い、可愛い王子様。
唖然とした顔で、私の顔を見つめている。
不真面目に、真面目に王子様を探してくれていた、キラキラでピカピカの王子様。
そんな顔で見つめないで、少し罪悪感に苛まれてしまう。
「つまり……僕をここに連れてくるのが、目的だったということかい?最初から?どうして。僕を、神とやらに捧げる為?もしかして、最初から……ポン助なんてモノはいなくて、その……絵里の事だったのかい?」
察しの悪い王子様は言った。
困惑をそのまま顔に貼り付けて、不安な心を露わにしている。
分かりやすい人。きっと嘘はつけない人。曖昧に、はぐらかす様に進んできた。
これまでの路程を考えたら、そういう結論に至っても仕方がない。
「ポン助?私がですか?違いますよ。ポン助は、今もあなたの後ろにいます」
不安な王子様は、さっと後ろを振り返る。
「いないものをいると言われても、僕にはさっぱりだよ」
「あなたには……見えていないものが、多すぎるんです」
そうは言ったものの、もし彼が見ているものが正しくて、私が見ているものが誤りだったとしたら……狂っているのは、私ということになる。
それほどまでに、互いに見えている世界が乖離していた。
「さて、何から説明しましょうか。……あなたを、その……できる事なら傷つけたくはないのですけど……。本当に悩んでいるんです」
そう言って遠くを見る。見渡す限り、醜悪で悍ましい世界が広がっていた。
でもきっと幸せな王子様には、綺麗な景色に見えているに違いない。
「出会ってから、ここまでのお話を一つの物語とするのなら、この物語は1ページ目から狂っていたんです」
また、あなたの頭に疑問符が浮かんでいるのが見える。私が悪い。
私は、頭に浮かんでいる事を伝える事が苦手。
……いいえ、わざとはぐらかしている。
童話に秘密を溶かしながら。
「……結局、絵里はここに来て、何がしたかったんだい」
「そうですね……順を追って話すのがいいのでしょうけど、とても長くなりそうで……。結論だけお伝えすると、目的は、凄くシンプルだったんです」
「なんだい」
王子様の目が、私を真っすぐ見据えている。
「あなたを……元の世界に帰すことですよ」
なるべく感情が乗らないように伝えた、つもり。
迷子の王子様は、驚きのあまり目を丸くしている。
そう……出られるなんて思いもしない。
いえ、あなたなら出る可能性を考えられたはずなのに、
長い事、ここにいすぎたのね。
「何故、そんな回りくどい事をしたか疑問でしょう?それには理由があるんです。あなたには……そう、魔法がかけられている。それが仇になってしまって……ここに連れてくるまでに、あなたを測る必要がありました。そして私を信用してもらうことも」
「出られる……?僕達は、死んでいるんじゃないの?それに、僕に魔法がかけられている?シンデレラに、じゃなくてかい」
驚いた王子様は、少しずれたことを言っている。
「あなたの瞳には……いえ、瞳だけじゃない、あなたの五感全てに魔法がかけられています。あなたの心が壊れないようにかけられた、やさしい、やさしい、人魚姫の魔法が」
「人魚姫……もしかして、美結のことを言っているのかな」
そう、あなたを愛する彼女が、かけた魔法。命を犠牲にしてかけられた魔法。
彼女の犠牲を隠して横に並ぶ、隣国のお姫様にはなりたくない。
「私の憶測も入っているので、すべてが真ではないかも知れません。事の始まりはそう、ショウさんが話した雨の日です。美結さんにはわかっていたのだと思います。あの日、あなたがポン助から殺害されることを。助ける術も探していたのだと思います。ただ、前言ったように、ポン助は『システム』です。冷酷に、無慈悲に、鉄槌を下す相手に、話など通じなかったのだと思います」
「待って、待ってよ。確かに、美結は不思議な感性をもっていたけれど、それがわかっていたなら、僕に伝えればいいじゃないか」
「あなたに伝えたとして、結末は変わらないのだとしたら?逆の立場だったとして、伝えますか『あなたは死にます。どうしようもないですから、受け入れてください』と。それに、美結さんは、助ける方法を見つけてしまったのです。でも……そのことを、あなたに悟られるわけにはいかなかった」
明らかに動揺している王子様を、慰めてあげたかったけれど、
私にはその術がわからない。
あなたに差し伸べる手を、私は『持っていない』。
「美結さんは、人気のない辺鄙な場所に、あなたを誘い出そうとしていたそうですね。他に犠牲が及ばないようにしたのだと考えます。……規模の大きな、土砂災害が起きていますよね」
「僕が同行を拒否していたら、成り立たなかったんじゃない?それに同行していなかったら、そもそもの事故に巻き込まれていないよ」
「あなたは、いかなる状況でも同行したと思いますよ。良い人ですもの。それに、ポン助を含む……、そうですね……『神の眷属』とでも呼称しておきましょうか。『神の眷属』は周りのものを利用して対象を殺害します。人心を操って対象を殺害させる、事故を起こさせる。地震を起こして巻き込む、など広範囲に及ぶ方法も取ることがあります。ただし、直接対象に手を下して殺害することはしません。自らの痕跡を残したくはないのでしょう」
「それも……ポン助とやらに聞いたのかい」
「そうですね。断片的で、抽象的な情報でしたけれど、おそらく合っています」
「絵里、気になっていることがあるんだ。君の……君の言っていることが正しいのならば、殺害されるのは、僕だけだったんじゃないか?それならば、僕だけ人のいない場所に使いにでも出せばよかったじゃないか。美結は……美結は、一体なんのために?」
可哀想な王子様は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「美結さんが、一人あなたを死なせるような事をしないことは、あなたの方がわかっているでしょう。それに、美結さんだって、ただ、あなたに巻き込まれたわけではありません。彼女が行ったことはもっと尊く、気高い事です」
そう、だから私が、その遺志を引き継ぐ。
「美結さんは『神の眷属』が機械的なシステムであることを、逆手に取ったのだと思います。ポン助に観測させればいいことは、『一つの死』と『ショウさんを引き込むこと』です。ここまで説明すれば……もう、わかりますよね。胸が張り裂けそうなんです。あの綺麗な庭で、私が泣いていた理由がわかるでしょう?『一つの死』をポン助に錯覚させたんです。……自らの命を使うことで」
まるで茨が、心臓に巻かれて引き絞られているよう。胸が痛かった。
一息に言ってしまうのは無理だった。
「あなたは『生きたまま』ここに引き込まれています」
王子様の頬を涙が伝う、綺麗な顔がぐしゃぐしゃだった。
子供のように嗚咽しながら泣いている。
慰めてあげたい、抱きしめてあげたい、
『それができない自分の体』が悩ましかった。
「なんで……なんで……そんなこと…………今更わかったところで……」
静かに……時の止まっているはずの世界で時が流れた。
この世界の意地悪な神様は、時間を止めているつもりなのね。
だけど、人間には『記憶』がある。記憶を重ねる順番で時間を感じてしまう。
きっとそれが理解できないから残酷なことができるのね。
私を呼ぶ鐘を鳴らさないで、まだウエディングドレスが縫い終わっていないの。
「ショウさん、ここからは目を瞑ってください。私がゴールまで手を引いていきますので、『私に異変が起こって』も、決して目を開けないでください」
「何故?」
「美結さんが、ポン助を通じてかけてくれた魔法が、もうすぐ切れてしまいます。神に近づくと切れてしまうんです。」
「いや、そんなことを言われて、瞑れるわけがないだろう。一体何が起きるというんだい。絵里、もう僕に隠し事をしないで、また僕だけ置いてけぼりのままで、悲しいことが起きるのはごめんだよ」
目を瞑りたくない盲目の王子様は、余計目を見開いてしまった。
「お願いです。知らないなら、知らないまま、出ていって欲しいんです。これは、そう、私の為でもあるんです」
「いやだね。絵里は最後まで、僕を間抜けな傍観者でいさせるつもりかい」
王子様は、頑なだった。
知らないうちに犠牲を生んでいたことが、よっぽど嫌だったのだろう。
私は深くため息をついた、つもり。
「説明します。説明したら、嫌でもあなたは目を瞑ってくれるでしょうか」
一つ息を吸い込んだ、つもり。
黄泉比良坂の神話を思い出していた。
変わり果てた女神を見て、逃げ出した男神の話……。酷いお話。
「……ショウさんの目に映っているものは、薫っている香りは、耳から聞こえる音は、触れていると感じているものは、まやかしです。この世界は少しも綺麗じゃない」
強めに言ってしまった。逃げ出したい気持ちで、心臓が震える。
「話の流れからそんなことだろうと思っていたけど……僕は……正しく盲目だったわけだ」
気落ちした王子様は、そう、呟くように言った。
「あなたが動物だと言っていたものは、皮膚も肉も削げた『まだ動き続ける人のなれの果て』と、それを見張りいたぶる『神の眷属』です。そして、あなたが花と形容したものは、『神の眷属』が食い散らかした『人の残骸』です。むせ返るほどの、鉄と人の内容物の臭いが立ち込めていることでしょう。『神の眷属』に責め苦を受けて、叫び泣く人々の声が、絶え間なく聞こえます」
「絵里が、見ていた地獄は……」
そう言いかけて、王子様は口を噤んだ。
「今、ここも綺麗に見えている事でしょう。でも……ここには、うち捨てられた、元が何かもわからない残骸しか転がっていませんよ」
この先言わなければいけない事で、頭がいっぱいになって、
きつい口調になってしまう。
「ここには、白くてきれいな花が咲いているよ。……そうか、魔法って、そういうことか」
遠くを見渡している。もしかしたら、彼の瞳に反射して移る景色は、美しいのかもしれない。そう思いのぞき込んでみたけれど、私がよく知る景色だった。
「本当の世界を曇らせる魔法を、美結さんが、かけていてくれていたんです。美結さんの庭にあったオブジェに見覚えはありませんか?……あの場所はとても不思議でした。私にも美しい庭に見えた。それで私も気付いたんです。あなたの心を保っていたものの『正体』を」
「そうだね……よく見たら、ここに咲いている花も、あの庭に咲いていた花だ」
「この世界で、唯一美しいのは、あなただけでしたよ。ピカピカでキラキラの王子様」
白雪姫の鏡のように告げた。王子様の肩が震えている。
「……ここまで説明したら、気付いた……はずです。その……『私の姿もまやかし』だということを。だってこの世界には、無残な死に方をした死者しかいない。あなたを除いて……」
涙の出し方が、わからない。盲目の王子様には、泣いているように見えるのかしら。あなたは、こんな姿の私も、抱いて慰めてくれていた。
「……ごめん、僕、もう無理かもしれない。僕だけ何も知らずに、平気な顔して歩いていたわけだ。君は……、どんな思いで、僕を見ていたのさ。僕のことを優しいと言うけれど、君の方が……よっぽどじゃないか。目隠しを付けて歩いていた僕に、合わせてくれていたわけだ。決して秘密を明かすことなく……」
絶望しかけている王子様は、目に涙をためて堪えていた。
だから言ったのに……傷つきやすくて泣き虫な王子様。
「大丈夫ですか」と、大丈夫なわけがない王子様に、声をかける。
「ああ……大丈夫……かな……大丈夫じゃないよ、全然大丈夫じゃないよ!ねえ絵里?これ以上進むの、もう止めない。さすがの僕でも、この先の展開がわかってしまったよ。生きている僕は、ここから出ることができるけれど、きっと君は出られない。そういうことだろう。じゃあ、もうこのままでいいよ。どんな顔をして、君をここにおいて、出ていけばいい?そんなの全然ハッピーエンドじゃないじゃないか。僕の人生史上、最低最悪のバッドエンドだ。ハッピーエンドってのは、王子様もお姫様も幸せになるもんだろう?この場合、どうやってお姫様は、幸せになる気なのさ」
ハッピーエンドを望む王子様は、少し投げやりに、拗ねた子供のように、鼻を啜りながらそう言った。
ここからは賭けだった。一縷の希望を乗せた最終章。その始まり。
「私は嘘を言っていませんよ。結局のところ、ハッピーエンドにするもしないも、王子様次第なんです。ショウさん、よかったら私と手を繋いでもらえませんか。最後までは手を繋いでいきましょう」
感傷的な王子様は、私の手であるらしい部分を握ってくれた。
「どうしても、僕を連れていく気なのかい」
「この物語をハッピーエンドに、してもらわなければいけないですからね」
「君の言い方、……いつも抽象的でわからないよ。もっと具体的に僕が何をするべきなのか教えてくれないか」
焦らしすぎたのだろうか、不満げな王子様は珍しく苛立っていた。もっと湧き上がる感情を、私にぶつけてくれてもいいのに。
……あなたは聞き手に回って受け止めてばかり。
「正直なところ、賭けなんです。私がやってきた時代は、2026年です。あなたは、生まれ年から考えて。……大体、1990年代から来ていますよね?そう考えると、私と、あなたのこの物語は、『まだ始まってもいない』と、いうことになりませんか?」
そう、ハッピーエンドとかバッドエンドとか、関係ない。
この話はまた最初から始められるはず。しかも記憶も持ち越せる。
強くてニューゲームという言葉が頭に浮かんで、ちょっと可笑しかった。
「落胆するのは早いですよ、現実世界の私は、きっとショウさんが今、見ているの私より可愛いです。期待してくださいね?」
この世界から、出てくれさえすればそれでいい。
それでもなお、私が救われるのだとしたら、それは本当に幸福な事。
「……なるほどね。でもそれって、僕が元の時代に戻れることが前提じゃない?」
「そうです。だから賭けだといったんです」
「それに、僕が元の時代に戻れたとして、君を救いに馳せ参じる頃には、僕、そこそこおじいちゃんじゃないかな」
おじいちゃんになりそうな、王子様の目をじっと見つめて、思わず笑ってしまう。
「大丈夫ですよ。私、おじいちゃんっ子なので。頑張って、私を口説き落としてくださいね?」
えー、と王子様が不満げにため息をついている。少し元気になったみたい。
美結さんの庭から、感情がジェットコースター過ぎて、この体でも辛いもの。
心は一体どこにあるんだろう。バラバラになっても、
心を失わなくて本当に良かった。
私に繊細な王子様を、守り切ることができるかしら。
「私、列車に轢かれて死んだんです。そりゃあもう、車輪にも巻き込まれてひどい有様です。幸い心臓は潰されていなかった、胸の痛みは感じていられる。何故か五感もあるし、考えることもできます。やはり魂って、そこら辺に宿るんですかね?だから……私を救いに来て欲しい。綺麗な体で、抱きしめられたいんです。あなたが、おじいちゃんになっていたって、そんなの全然気にしないです。……たぶん」
「たぶん」と王子様が呟いた。
「だって、あなたが再び出会う私は、あなたを知らないもの。2026年十一月三日、時刻は18時4分、祖父の葬式の帰りに、桜の宮町の桜の宮駅という駅で、私は通過列車に撥ねられて……死にます。あいにくメモがないですけど、忘れないでくださいね?」
私は明るく、何でもないことのように言った。
「撥ねられた時刻まで、憶えているんだ?」
「撥ねられる直前に、母から来たメッセージを、携帯電話で見ようとしていたんです。その時見た時刻が、18時4分です。ショウさんが思っている以上に、未来は『携帯電話』に支配されているんです。愛と祈りを手放しても、携帯電話だけは手放そうとしない」
大仰に言う。
「まるで、神だ」
「言い得て妙ですね。人が生み出した、人を支配する、多数の神かもしれません。年々万能になってきていますし」
「それにしても……絵里はよく耐えることができたね。僕がそんな状態になったら、たぶん発狂する。まだ僕から見えている絵里は美しいけれど、……本当にね」
「意外に、なってみると平気ですよ。本当にどうしようもないですから。正直、ちょっと笑っちゃいましたから。どうやって動いているんだろうとか、そんなしょうもないことしか考えられなくなります」
実際そうだった。最初にこの世界で目を覚ました時に、
真っ先に自分の体の異変に気付いた。
狂っていいはずなのに、沸き起こってくる感情は……弱い落胆だけだった。
ここの神に意識を弄られてしまったのかもしれない。
花嫁がたどり着く前に、狂ってしまったら使い様がない。
蝉の神様じゃなくてよかった。
土の下で暮らせるレベルまで意識を下げられたら嫌だもの。
「その……先ほど言った、ショウさんをあえて欺きながら連れてきた理由……ここまで散歩してきた理由……」少し言いづらい。
「うん?」
「……色々理由を付けましたけれど、結局のところ……ですね」
「どうしたの?」
「私が楽しみたかっただけなんですよ。子犬みたいに無邪気についてくるあなたを連れて、散歩するのが、とても楽しかっただけなんです。だってそうでしょう、どうとでも説明できます。私ならね。」
「ははは、素直でいいよ。でも、子犬はさすがに酷くない。僕ってそんなに子供っぽいかな」
「まぁ、正直……子供っぽいですかね。おじいさんになるぐらいが、ちょうどいいかもしれません」
そう言って彼の頬にキスをした……つもり。
私の行動がどう映っているのか、最後まで分からなかった。
思ったことは叶えられているのかしら。
私の行動を受けて、あなたが取った行動に違和感を覚えたことはなかった。
そうだとしたら……なんてすごい魔法。
そんな魔法も、意地悪な神のせいでもうすぐ解けてしまう。
「やっぱり、君は最高だ。きっと代わりなんていないんだ、だから、きっと助けに行くよ。君が嫌がったとしてもね?」
王子様は、気障っぽくそう言った。
「おじいさんですしね」
私は笑う。私の王子様が、調子を取り戻してくれてよかった。
やはり笑顔で物語は終わらせたいもの。
『この私』は、もうすぐあなたとお別れだから。
急げ急げと鐘が鳴る。
もう少し待ってよ。まだ注文していたブーケが届いていないの。
脈動を止めない肉の道。きっと人の遺骸ではない。
この世界に住まう、敬虔な殉教者たちが造り上げた道。
神に身を捧げたその者たちは、体を崩してなお、死ぬことは許されていない。
その道の先では、巡礼者たちが祈りを捧げ続けている。
ぼそぼそと、人には理解できない言語で、神の為に言葉を紡ぎ続けている。
その先に待ち受けているのは巨躯の異形と、古ぼけた教会。
空は鮮やかな茜色、暗雲が垂れ込めている。
その暗雲すらも茜色に染まっているので、気持ちの悪い臓物のように見える。
そんな光景に似つかわしくない、天使の梯子が空から降り注いでいた。
神が、私を迎えに降りてくる。……その瞬間を私は待っていた。
「さあ、目を瞑ってください。それに、目を瞑って欲しい理由はもう一つあるんです」
と、私は言ったけれど、すでに瞑ってくれていた。
転ばないようにゆっくり歩む。地面の感触も変わっているはず。
血肉と、骨。得体の知れない巡礼者の残骸で、できた道だもの。
「もう何を言われても驚かないつもりだけど、なんだろう」
「神を見てしまうと、目が潰れて、発狂してしまうかもしれません……いえ、そうなります。直接拝謁することは、ポン助でも許されていないそうです」
「そいつは大変だ」
笑いながら王子様は言った。もう色々と振り切れてしまったのかもしれない。
いきなり突っ込ませないでよかった……。
もう……私の姿は変わってしまっている?声はちゃんと聞こえている?顔を見てもよくわからない、いつもの涼しい顔。
「……私の声、聞こえていますか?」
恐る、恐る、私は聞いた。
「……ああ、聞こえているよ、うん…聞こえている。絵里の声だ」
反応が鈍い、恐らくまともには聞こえていない。それはそうでしょう?きっと喉も潰れてしまっている。私に響く自分の声が、ほぼ雑音のそれで、人の声とは思えない。
「そういえば、聞き忘れていたけど」
「なんですか」
「あの丘の上にいた、黒くて、でかいの、結局何だったのさ?あれが神ではないんだろう?気になっていたんだ」
「ああ、あれは気にしなくていいですよ。いかにも『俺がラスボスです』て、風体ですけど、ただの鐘ならし係です。鐘を鳴らす為だけにいます。おそらく襲っても来ません。楽そうでいいですよね」
それを聞いた王子様は、はははと愉快そうに笑っている。
そうは言ったけれど、立ち位置から考えてきっと高位な存在だろう。
神に仕える司教といった雰囲気を醸し出している。
「確かにこいつはイカしたBGMだ。四六時中聞いていたら、気が狂うね。でも聞きようによっちゃ念仏だ。何を言っているか、わからない点では同じだね」
周りには、神に祈りをささげる眷属たちがいる。
敬虔で信心深い彼らは、私たちには気を払わない。
彼らから見たら、虫けらと大差ない人間など、どうでもいいらしい。
呪文のような、ものをひたすら唱えている。
「ねえ」
「はい?」
「今、ここにいる君はどうなっちゃうのかな?」
王子様は聞く。
どうしよう、すぐに返答ができない。一番聞かれたくなかった事。
これから、運がよく私が救われるとしても、それは未来であり過去の私になる。
彼が年代的には過去に戻って、また再び私に出会うまでの間は『この私』はどうなってしまうのだろう。
無かったことになる?それともここに残って、神と対峙することになるのだろか。
考えがぐるぐると廻る。
……でも、どちらでもいい……目的は、彼をこの退廃的で悍ましく、冒涜的な世界から帰還させることだから。
「やっぱ我慢できないや」
ショウさんの声で我にかえる。
王子様は『目を開けていた』。
何故?心臓がぎゅっと締まる。縮こまる。
思わず逃げ出しそうになる。何処かを掴まれた。
「なんで絵里の方が逃げるのさ」
視線の向きからして、もう私は『本来の姿』に違いない。
だって顔などないだろうから。
「え?ええ……だめ……です」
「……確かに、これは正しく地獄だ。僕の頭は、随分とおめでたかったらしい」
そう言いながら王子様は、周りを見渡している。私は身じろいでいた。
「そんなに嫌がることないだろう?君が思っているほど、その、悪くはない。なんとなく絵里だったんだろうなってのはわかるよ」
嘘ばっかり。
私を掴む、その手が震えているじゃない。
神経と血管がまとわりついた、脂肪と絡み合った肉。
そこに本来なら見えるはずもない臓器の残骸が、へばりつくようにデコレーションされている私の姿を知っている。
収まりどころがなくなった骨が、みっともなく突き出している。
「これは別に、絵里を見て、怯えて震えているわけじゃないよ。空から薄ら寒い気配を感じているんだ。背筋がぞくぞくするよ」
私の心を読んだかのように、目を開けた王子様はそう言った。
そう感じているなら目を閉じて欲しい。神の降臨が近い。
「目を閉じてください」
「もう少しいいだろう?」そう言い、歩み寄る。
肉塊の私を抱きしめながら、顔を埋めている。
愛おしそうにまさぐっている。くすぐったい、そこは本来ならどこなのかしら。
何故そんなことができるの?こんなに悍ましく醜い私を、
どうして抱きしめてくれる?
「ここで……君を愛した証を残したい。過去に帰ってまた君に出会えたとして、今、ここにいる君の記憶はないのだろう?僕が、言葉を交わしたのは、この君なんだ。僕が、抱きしめたのは、この君なんだ。僕が、キスをしたのは、この君なんだ。今、ここにいる絵里を愛したいんだ」
唯一形を留めている心臓が震えた気がした。
この思いを、どうしたら、あなたに伝えられる?
言葉なんかじゃ足りない、この身体で捧げることができる、最上の愛情表現。
ゆっくりと身体を這わせる、あなたの隅々まで浸み込めるように。
心の震えを重ねたい。
残っている神経、一本一本をあなたに繋げたい、この心地良い、
もどかしくむず痒い痛みを知って欲しい。
全身を支配する、この甘い酩酊をあなたと共有したい。
そうね、情報を頂戴、あなたが持っている、愛の情報をください。
私の情報を乗せて、あなたに返すから、甘く強く噛み締めて欲しい。
感情の濁流を受け止めて?脳の神経を直接繋ぐ高次の共感。
全身が泡立つ、甘く、熱く、辛く、痺れる、熟れる酩酊。
ピリピリと隅々まで愛の信号が走る。
私の中のあなたが二度、三度、爆ぜた。
鐘が鳴る。……もう少しだけ待ってよ。
長い酔いから冷める。……王子様がぐったりしている。
だめね、刺激が強すぎたみたい。頭がパーになってしまう。
ハイライトが消えた瞳って、こういう状態のことを言うのね。
丁度いい、ポン助。
なかなか目を閉じてくれない王子様を、今のうちに連れて行って。
神が出でるその場所こそ、この世界の出口なのでしょう。
出口まで導いて、あなたなら道を知っているはず。
彼の瞳を閉じて?神の声が届かないように、神の吐息が届かないように、
神の手が届かないように。
さよなら愛しい王子様。
ガラスの靴は用意できなかったけれど、きっとまた会いましょう。
その時は、……普通に愛し合いましょう。
流石に今のは刺激が強すぎたみたい。
さようなら……ショウさん、私の王子様。
待たせたかしら?バージンロードが長すぎたみたい。
よそ見しないで、こっちを見て。
どうしたの?妬いているの?神のくせに狭量なのね。
御馳走と、寝心地のいいベッドを用意してくれているのでしょう?
精々私を楽しませてね。
メランコリックな世界で、私は彷徨っていた。
狂乱と、一方的な歓喜の宴を、瞳のない私は『見つめていた』。
神は呼ぶ。
『はやくおいで、美味しい御馳走が待っているよ。甘いお菓子だってある』
見え透いた嘘を言わないで、貴方が手招く、その手で、私を冒涜するだけじゃない。
何処までも続く血肉と臓物の道に、キラキラと光る王子様が落ちていた。
従者は、随分と立派な黒い獣ね。
あなたは金の王子様?銀の王子様?それともごく普通の王子様?
綺麗な巻き毛、長いまつげ、白い肌、薄紅の唇、コクコクと眠り続けるあなたは、
まるで茨の中の眠り姫のよう。
どうしたの?ここはあなたが来る場所ではない。
早くあなたの城に戻ればいい、
きっと似合いの美しいお姫様が、待っているでしょう?
どうしたの?頭がおかしくなってしまったのね?
ヴィヴィッドな血肉と臓物の道を歩き続けたのなら、仕方がない。
あなたにお似合いなのは、フラフィーなキラキラの赤い絨毯だもの。
私が普通の女に見えているの?どんな姿をしている?どんな服を着ているの?
ごめんなさい。眼鏡はかけていないのね。眼鏡がないと落ち着かないのに。
あなたを起こしてあげたいけれど、私には差し伸べる手が無いの。
名前も忘れてしまった、迷子の迷子の王子様。
あなたの前では、ウサギと猫がタップを踏んで踊っているのね。
あなたは不思議の国のアリスだったのかしら?
ならば、私があなたを導く白うさぎになってあげる。
神が呼ぶ。
『はやくおいで、絹で出来た寝心地のいいベッドを用意したんだ。たっぷりお休み』
見え透いた嘘を言わないで、手に持った。穢れた鎖で私を縛り付ける気でしょう。
見て、王子様、人がいる。
獄吏に虐められ続けている、周りの亡者と違って身綺麗ね。
……首が九十度に曲がっていることを除けばだけれど。
お供は随分グロテスクね。バラバラになった女性が絡みついた醜い蛙。
女性の首を冠したカエルの王様。拾った毬を無くしてしまったの?
それじゃお姫様は振り向いてくれない。
ねえ、王子様。私の醜い姿を見たら、あなたは逃げ出してしまう?
それとも同衾してくれるのかしら?
あなたが美しいと言った花畑も、私には煤けたドライフラワーにしか見えなかった。
何処までも幸せな王子様。
あなたがハッピーエンドを願った老婦は、遠くの東屋で首を吊っていた。
きっと許すことができなかったのね。
記憶の中の恋人との逢瀬も、浮気になるのかしら?
優しい、優しい、王子様、土嚢袋と話し始めたときは、
さすがの私も付いていけなかった。
ごめんなさい、その中に人が詰まっていたのね。
そんな死に方をする人なんて、きっとろくでもない人。
それでも親身なって話を聞いてあげる王子様。
きっと心の中まで、キラキラでピカピカなのね。
黒いツバメと、翼だけの白いツバメが飛んでいた。
土嚢袋を突こうとしている黒いツバメ。
それを遮るように旋回する白いツバメ。
どちらが愛を歌うツバメなの?
王子様がキスをしようと言ってきたけれど、
きっと私はあなたのお姫様にはなれない。
恥ずかしがり屋の王子様が、目を瞑ってと催促するけれど、ごめんなさい、
何処に目があるかわからない。
もどかしい、あなたを抱きしめる手が無いのが、もどかしい。
何故心だけが無事なの、こんなの生殺しじゃない。
神が呼ぶ。
『何処で道草を食っているんだい。はやくおいでよ。星の光を織り込んだ綺麗なドレスがあるんだ』
見え透いた嘘を言わないで。
私に服なんて着せる気ない癖に、貴方は私から服をはぎ取ってばかり。
ああ、王子様……愛の言葉を囁かないで、残っている心臓まで潰れてしまう。
可愛そうな王子様。既にお姫様を亡くしていたのね。
あなたを守って死んだ気高い人魚姫。きっと私は敵わない。
あなたを守るために黒い獣と一つになった人魚姫。そこにいるの?
私は惨いことをしているのかしら。
でも、ごめんなさい、私だって王子様を愛しているの。
勝手に泡になって消えた、あなたが悪いの。
可愛い王子様、このまま檻の中に閉じ込めてしまいたい、永遠に私といましょう?
私を選んでくれた、私の王子様。くすぐったい、何をしようとしているの?
私を抱いてくれているの?でもだめね、こんなの一方的な情欲じゃない?
だって私、あなたに種明かしをしていないもの。
あなたの目を啓いてあげる。こっちよ、盲目の王子様。
シンデレラがいる出口はこっちよ。手が鳴る方に来てね。
私は花嫁、神に捧げられる肉塊の花嫁。
徐々に顕現していくそれは、複数の無機質な翼と、瞳と、腕を携えた、巨大で、強大な機械仕掛けの神。
カタカタと秒針の動きに合わせて、身を震わせている。
複数の腕を機械的に動かすその姿は荘厳にして、崇高で、そして……醜悪。
淡く発光する継ぎ目のない機構を身に纏い、おおよそ人の理解の適わない呪詛、あるいは祝言の旋律を奏でる。
巫女を招き、再起動の時を待っていた。
その傍らを、黒い影が通り抜けていく。
巨大な神からすると、頼りなさげなそれは、
神から干渉されつつも、神が降臨した光の中に溶けていく。
その瞬間……世界の一切合切が動きを止めた。神も、その眷属も、供物も、攫われ招かれた哀れな巫女も。
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